知恵の実
幼い頃から、ことあるごとに小さな礼拝堂に掲げられた拙い絵画を眺めるのが、その男の慰みであった。
絵は原始のようでもあり、また文明のようでもあった。木の枝に体を巻き付けた禍々しい蛇が裸の女性を唆し、女性が更に男性を惑わすその様子は、青年にさしかかった頃には、少なくとも自分にとっては至極真っ当なことであるとの認識をもたらした。
神はすでに、人に叡智を与えている。それは欲を生み、羞恥を呼び起こさせ、猜疑心から愚行に走らせている。
男は幸い愚鈍ではなく、商才に長けた親が金にものを言わせてしかるべき教育機関へ通わせたので、同じく愚鈍ではなく出自も確かな女を娶り子ももうけた。
やがては強大な権力を手にすることを、自分も周囲も疑わなくなっていた男は、ある時美しい修道女と出会った。
どこから来たのかわからない彼女は、修道院の図書室で過ごすのを楽しみとしているようで、既に地元の名士になりつつあった男と礼拝後に顔を合わせると、読んだ本の内容を優しく語ってくれたのだった。
彼女が気にいっていた物語は、この地方に残る伝承の1つで、湖に住む蛇の王が、人の女を妻とするという内容であった。
自然を棲みかとする善良の王は、ただ美しい人の女を妻にと欲し、それを叶えた。湖のほとりで恥じらいながら水浴びをし、その衣服をたてに恋慕を成就せんと画策する王の、なんといじらしいことであろう。そう話す彼女は、まるでその蛇の王に恋い焦がれているようであり、男は激しく嫉妬した。
蛇は彼女を拐かし、そのことは男の歪んだ性愛を呼び起こした。
彼はまず確固たる権力を欲した。北部の州は先住民が多く、国の自治体の1つとはいえ実権を握るのは難しい。そのため彼は密かに内紛を画策し、先住民から離れた南部寄りの地域に新たな州を作ることに成功した。
知事として、画一的な教育を重視し、治水や市街化を推進する中で、不要な森林や湖を潰していった。そうして作られた荘厳な教会は州の象徴でありながら、まさしく彼女のために作られたものであったが、その時すでに、彼女は失われた自然を求めて他の地へ旅立ったあとであった。
残されたのは、彼女のために絵師に描かせた物語の絵であり、また揺るぎない権力であった。
そこで彼は、蛇が女性に与えた知恵は、つがいとなる男性を至上の存在にする役割を持ち、同時に、人、とりわけその男自身が万物を掌握できるという錯覚を起こした。
しかしただ女のためと突き動かされたはずの衝動の結果、女を失ったことに気づかぬ男のなんと愚かなことか!