第5章(2)
食堂に来る客たちは大半が地元の労働者だ。
美味くて量も多いジェルヴェの料理は肉体労働に従事する者たちに好評で、朝は看板娘のリディと挨拶を交わし、夜はジェルヴェと雑談をするのが常連客の日常となっていたが、ここ数週間ほどで客層はがらりと変わり、特に女性客が目立つようになった。
「…最近、なんか違う店みたいになってるなあ…」
忙しなく調理をしながら複雑な顔をするジェルヴェに、リディは更に険しい顔をして相づちを打つ。明るい栗色の髪を、ゆるく一つにまとめ直して、リディは店内を見回した。
「あまり注文もしないのに長居されて、本当に迷惑だわ」
談笑しながら、婦人達は銀髪の新しい給仕係の青年にちらちらと視線を走らせているのだ。
「…リディ、お前は何とも思わないのか?」
「何が?」
妙齢の女性が手を挙げ、アージェンがそのテーブルに注文を取りにいった。
「ええとな、ああいう客たちに嫉妬とかは…?」
ジェルヴェは遠慮がちにいうが、リディはきょとんとしている。
「だって、食堂のお客さんでしょ?」
父娘の会話が聞こえていたのか、アージェンが笑いながら戻ってきた。注文を読み上げるのを聞いてジェルヴェは驚く。女性数人が食べるにはまあまあの量だし、何より普段は売れないような高めの酒の注文があるのだ。
「売上貢献しておきましたよ。文句を言われるようなら、酌でもしてきますからご心配なく」
にやりと笑うアージェンに、リディは素直に喜んでいるが、ジェルヴェは溜め息をついた。宿代の代わりに給仕を手伝ってもらうのは助かるが、やはり父として、宿の主人として心配事は尽きない。
「お前さ、リディとあいつをくっつけたいのか、離したいのか、どっちなんだ?」
あきれたように言うのは、カウンターで果実酒を手酌で飲んでいるアメデオだ。元々は家族ぐるみの付き合いなのでかなりの頻度で食堂に来ていたが、娘のコンチェッタが不在の間は、ほぼ毎日ここで食事をしている。癖のある髪は夜になり更に乱れ、浅黒い肌は、ほろ酔いなのか少し赤い。
「得体の知れないやつに持っていかれたくはないが、恋心も尊重してやらなきゃならん頃かな…とは思ってるからなあ」
ジェルヴェは、手早く魚を捌きながら溜め息をつく。
「なかなか複雑だな」
アメデオはキッチン奥のパントリーを見ており、ジェルヴェも同じ方向に顔を向ける。
「リディはあれでも子供っぽいから、自分の気持ちを自覚してるかどうかも、わかんねえぞ。むやみに焚き付けることもないだろ」
アメデオが示す方をジェルヴェが見ると、棚を指差すリディとその背後に立つアージェンが見えるが、彼はおもむろにリディの脇に腕を差し入れ抱き上げた。
「お?」
一瞬、ジェルヴェの表情が険しくなる。ありがとう、とたどたどしく礼を言い酒瓶を手にしたリディの様子からすると、どうやら一連の動作は上棚の酒を取るためのものだったらしい。
「…リディには、自覚があるみたいだな」
頬を染め、アージェンに触れられた場所を落ち着きなく触るリディを見ながらアメデオはにやにやしており、ジェルヴェは酒を女性客に持っていくアージェンを渋い表情で眺めている。
「アージェンは、どうなんだ?その気も無いのに気をもたせられても…」
うろたえ気味に友人に聞くジェルヴェははたから見ていても普段とは違いすぎて滑稽で、数人いる常連客なんかは、カウンターにいる武骨な店主を眺めながら笑いを圧し殺し、アメデオに至っては友人の狼狽ぶりを明らかに楽しんでいる。
「気になるなら自分で聞けばいいだろ。奥さんに逃げられた俺に色恋沙汰はわかんねえよ。コンチェッタにもよく怒られる」
「何だ?またコンチェッタの彼氏に難癖つけたのか?」
「だってなあ。定職につかない顔だけの奴に、娘を弄ばれたくないだろう?俺が男手ひとつで一生懸命育ててきたっていうのに。まあ体はまだまだ成長中だがな…」
そう言いながら、アメデオは手で何かを掴むような揉むような仕草をし、にやりと笑った。
「コンチェッタはなかなか良い女になったと思わんか?うちの奥さんに似て」
「そう思うなら、奥さんを迎えに行けばいいだろう」
ジェルヴェは呆れたが、アメデオは、片頬を少し上げただけだ。
誰に似たのか、しょっちゅう惚れたはれたを繰り返しているコンチェッタは、中央州に行く話が出たときも、あわよくば顔が良い役人候補と良い仲になるチャンスだと張り切っていた。ジェルヴェは話を変えようとしたわけではないが、その流れで、兼ねてからの疑問を口にした。
「そもそも、教会も太っ腹だな。中央州までの交通費もタダなんて」
今回呼ばれた人数は決して多くはないが、現地での滞在費は別としても、長距離の馬車を頼むだけでもそれなりだ。
「潤ってるんだろ。この教区に寄付はそんなに集まって無いだろうが、地域柄、修道士や孤児を養う金もほとんど要らない。中央へ良い顔をしておけば、あちらからも金が回ってくるんじゃないか」
「人を差し出す代わりに、金を貰うのか」
「内紛は一見おさまったが、役人は、腹の中では何を考えてるかわかんねえよ。コンチェッタは無邪気に中央州に行ったが、変なことを吹き込まれる前に帰ってきてくれることを願うね。まあ、女は政治にも関係ないけどな」
アメデオも、政治には興味なさそうに言いなから酒を飲む。適当なつまみを出してやりながら、ジェルヴェもそうだなあと相づちを打った。
「それこそ、コンチェッタみたいな娘を未来の役人の妻にするために探してるんじゃないか?女学校こそ行ってないが、家庭教師から一通り教養は受けてるだろう」
「かもな。俺はずっと地元にいてほしいが。リディだって、その気になればシルヴィみたいに恵まれた環境で勉強したり、それこそ結婚もな」
ジェルヴェの妹、シルヴィが結婚した相手も学者だ。住まいはやはり中央州で、大学からほど近い州の境に住居を構えており、シルヴィも大学の仕事をしている。
この東部の港町まではあまり交通の便が良くないので、それほど頻繁に帰省できない代わりに、特産品や、珍しい絵本や学術書などを送ってくれ、リディはそれで知識を得ているのだ。
「まあ、どこに行くにしろ誰と一緒になるにしろ、寂しいって親父のワガママだけで、娘の幸せは邪魔できねえけどな」
父親二人は、しみじみとした表情でホールを見る。
甲斐甲斐しく働くリディに、アージェンはまるで小動物を愛でるような眼差しを向けつつ、ちょっかいを出しており、それは年長者からするとなんとも微笑ましい光景だ。
「こうしてみると、お似合いだがなあ」
それを遠くから眺めるアメデオも、同じ年頃の娘をもつ父親だからこそ感じることがあるのだろう。
ジェルヴェがその含みがあるような言葉の続きを促すと、アメデオは溜め息をつき、声を落とした。
「アージェンは、恋人はいらないって言ってたぞ」
「何の話だ?」
「リディは報われないってことだ」
アージェンがリディを好ましく思っているのは端から見てもわかるし、取り決めたわけではないのに、常泊するようになってから夜の仕事はしていないようだ。
「男女として惹かれあっても、所帯を持ってひとつ所に落ち着くかというと、そうではないってことだろう。傷が付く前に引き離した方が良いのかも知れないがな」
アメデオは、自分のグラスに酒を注ぎ足した。
「あいつは、一緒にいるやつを惑わす」
ジェルヴェはアージェンの鱗を思い出した。しかしアメデオはそれを知らないはずだ。
「鷲を、見たか」
「鷲?」
アメデオは一瞬窓の外に視線をやり、再びジェルヴェの方を見て言う。
「鷲は…俺はちゃんとは見ていないが、リディは見ている。絵本に出てくるような姿だったと」
「それだよ」
アメデオは、ジェルヴェから頼まれなくともアージェンを連れて数回猟へ行っているので、鷲とは度々対面している。幼い頃から猟に出ているので野鳥も人よりは詳しいはずだし、それはリディも同じだ。
少なくとも、あの鷲はこのあたりで見かけるような種類ではない。
「絵本でしか見ないような鷲を、何故あいつは連れているんだ。西部生まれっていっても、西部にもあんな鷲はいない。そもそも14歳かそこらから身一つで生きてるやつなんだ。リディには、俺も幸せになってほしいが、あいつ相手じゃあ無理かもしれねえな…」
ジェルヴェは、アージェンが滞在し始めた頃にリディと交わした会話を思い出した。
アージェンは昼間、リディ達が宿屋や食堂の清掃や準備をしている間は手空きになる。買い物の付き添いが無い時は、ふらっと出ていき、ふらっと帰ってくるのだ。リディに、彼が何をしているか知っているかと尋ねたら、教会へ行っているようだと返事が返ってきた。
「一人で、図書室に行って本を読んだりしているみたい。一緒に行った時、アージェンと会衆席に並んで座ったんだけど、じっと目を瞑っていたわ」
「信心深いのか?」
「そうなのかな…手を組んで熱心に、という感じではなかったけど」
へえ、とジェルヴェは下ごしらえの続きをしようとしたが、リディはその情景が余程印象深かったようで、話し続ける。
「なんだかちょっと、悲しそうに見えたの」
「ジェルヴェ?」
アージェンが注文を読み上げていたらしいが、ジェルヴェは聞いておらず少し慌てた。それを見て青年は艶っぽく笑う。
「俺に見とれてた?」
何を、と、助けを求めリディを探したがホールにはいない。 見ると、客に見えないパントリーの入り口で、何やら小皿に食材を取り分けている。昼間市場でまけてもらった干し肉だ。
数日おきに、店を閉めたあと自室へ行くアージェンの後ろから、階段を上り追いかけるリディをジェルヴェは見かけていた。昼間は、寝具を整えたり頼まれた洗濯物を置きにいったりとリディも部屋に出入りしているが、大抵はアージェンが不在のときだ。
夜、アージェンの部屋に入るリディを最初に目撃した際は、娘の秘め事かと狼狽えながらも見当違いな事を言ってしまい怒られたが、無粋にも覗きに行った時にわずかに開いたドアの向こうに件の鷲を見たのだった。
「今日も綺麗ね。アージェンの髪によく似た羽…」
そう言って、リディは開け放した窓際に肉を乗せた皿を置いた。その視線の先に、鷲がいる。部屋の灯りはついておらず、月明かりの逆光の中だけでもその大きさ、優雅さは目を奪われるもので、にこやかに「彼女」を見るリディを、アージェンは穏やかに見つめていたのだ。
「俺の髪色が好きなら、もっと近くに来たらいい」
リディをからかうアージェンの声は階段を下りていくジェルヴェには既に聞こえてはいなかったが、彼が無闇に素人娘を弄ぶわけではないだろう、と何故か確信はある。
ここに来た当初の不敵な雰囲気は和らぎ、襟元や袖も緩めたアージェンの姿は、本人の言葉を借りればここを気に入り「帰る場所」として心を落ち着かせたからこそだろうか。いや、場所というよりは、リディそのものかも知れない、とジェルヴェは思った。
ジェルヴェが連れ帰った幼いリディは、驚くほどすぐ懐いてくれ、それは日々の暮らしに追われていた若いジェルヴェにとっても、救われることだった。リディは未だに無垢で純粋だ。
「アージェンて、蛇の王子様なんじゃない?」
アージェンを教会に案内した日、リディはそうジェルヴェに言った。ジェルヴェの生まれ育った村に伝わる昔話だ。そういう空想も抱かせるほど、アージェンは不思議で魅力的な存在なんだろう。
すでにリディの気持ちがアージェンに絡め取られているのはジェルヴェにもわかりきっていることで、養父としては歯痒い気持ちで過ごすしかないのである。