第4章
ジェルヴェの宿屋兼食堂は、夕食に利用する客がはけて閉店したあとは、家族団らんの場所に変わる。
昼はほとんど寝ているライオンのアンリも、夕飯のときは皆が座るテーブルの足元にふせて、与えられた食事をとるのだ。今日はそこに、銀髪の客人が加わっている。
「美味しかったです。ご馳走さま、ご主人」
満足そうに笑い、アージェンは綺麗な仕草で手を合わせた。
メインディッシュは、この東部でよく食べられている煮込み料理になったが、野菜が多くて胃に優しく、旅行客にも労働者にも好評なメニューの一つだ。アンリは鎖から解放され、リディの足元で、調理をしない生肉にそのままかじりついている。
ジェルヴェはエプロンを取り、洗いざらしのシャツとズボン姿だ。自分の皿から野菜を少しアンリに投げてやり、アージェンの方を向いた。
「口に合ったなら何よりだ。あと、俺のことはジェルヴェで構わない」
アージェンは微笑み、店内を見回す。
「いい店ですね。ところで、奥さんはいないんですか?」
「俺は結婚したことはない。家族は他に妹がいるが、だんなと子供と遠くに住んでる」
ジェルヴェは少し不機嫌に返事をするが、アージェンは意に介さない。
「独身なのは、リディのため?それとも」
アージェンは意味ありげに言う。
「男色?」
その単語に、リディが驚いて養父を見るが、流石にジェルヴェは即座に否定した。
「違う、縁がなかっただけだ。それに……特に俺がいた地方ではそういう噂が出るのすら御法度だった」
なるほど、とアージェンは笑った。
「俺も北部をかすめてきましたけどね。保守的な集落が多くて、それはよくわかりました。その代わり、男に飢えた女は気前よく買ってくれましたよ」
ジェルヴェは生まれ故郷の話を聞き、眉間に皺を寄せた。この青年が行った頃には内紛はすでにおさまっていたはずだが、混乱が市民にどう影響をもたらすかは、新聞や旅行者から常に聞かされている。
リディは国の内情を詳しく理解は出来ないようだが、男娼の仕事を隠しもせず生きてきたという彼に、好奇心よりは複雑な感情を感じているようだ。それを視界にとらえたジェルヴェは、アージェンを苛立たしそうに見る。
「そんな顔で見ないでください。残念ながら、リディには断られましたから。何もしていませんよ」
「当たり前だ。娘を泣かせるようなことをしたら、すぐにその額を撃ち抜いてやる」
アージェンはその様子をみて溜め息をつく。
「本当に北部の人たちは喧嘩っ早いですね。安心して下さい。ここに来る前に歓楽街を見つけたから、そこで慣れた女の相手をしながら稼いできます」
「稼いで、くる?」
ジェルヴェは首を傾げる。
「歓楽街へ働きに行くため、ここに寄ったんじゃないのか」アージェンは、いえ、と話を続ける。
「ここにしばらく滞在したい。そうですね……1ヶ月、いや数ヶ月になるか」
「数ヶ月?」
今度は、リディが頓狂な声をあげた。ここは地理的に通過点にあたるため、1ヶ月以上も宿に滞在する者はおらず、それこそ労働者ならともかく旅行者が長期滞在するような地域ではない。ジェルヴェも驚いた顔をしたが、少し考えたあとに口を開いた。
「断る」
え?と、リディが驚いて目を見開いた。確かに稀な申し出だが、宿代が入るあてを宿屋の主人として断ることが、意外に思えたのだろう。
「そんなに長くこの町にいて、何をする気だ?」
ジェルヴェは、まるで取り調べをするように威圧感のある声音でアージェンに問いかけている。参ったな、と自分の銀髪をいじりながら青年は笑った。
「何もするつもりはないんですがね。ここが気に入ったからじゃ、理由にならないですか」
リディは、アージェンが昼間警察官相手に言った、町もリディも気にいったという言葉を思い出したのか頬を染めた。ジェルヴェは訝しげにアージェンを見るが、彼は気に留めない。
「元々、目的地は特に決まってない。帰る場所もないからな。お前もそれでずっとここにいるんだろう?」
アージェンは、リディを見つめた。
リディは反射的にジェルヴェを見て、すぐに足元のライオンに視線を落とした。慈悲で拾われ、衣食住全てに加えて愛情を与えられた自分の恵まれた境遇を、改めて思ったのだろう。
そんなリディの気持ちを考えると、無下に断れないジェルヴェの善人さも、アージェンには見透かされているようだった。
「ずるいな」
「褒め言葉ですね」
短髪に手をやり苦笑するジェルヴェに、アージェンは柔らかい笑みを返す。その表情をどこかで見たような気がしたが、ジェルヴェはすぐには思い出せず、ただ直前の会話に返答を返した。
「わかったよ」
ジェルヴェは肩をすくめた。
「いたいなら、好きなだけいたらいい。だがな、代金はいらん。どうせ空き部屋だからな。食料になる肉だけたまに山で調達してきて貰おう」
観念した、という風な身振りをしたジェルヴェに向かって、リディはほっとしたような、不思議そうな顔をした。アージェンも、無料と聞いて首を傾げている。
「俺は金には困ってませんが……それに、この州の娼婦は金払いがいい」
「だから、それだよ」
ジェルヴェは立ち上がり、カウンターの奥から何やら紙を数枚取り出した。
テーブルに置かれた紙には、名前と、番地。そして一言二言情熱的な言葉が書いてあり、まるで恋文のようだった。
「昼間、市場で騒ぎを起こしただろう。それでだ」
再びジェルヴェは、不機嫌そうに椅子に座った。
「スリ騒ぎの苦情ですか?俺のせいじゃないですけどね……」
首を傾げるアージェンを見ながら、ジェルヴェが溜め息をつく。
「女どもが、お前に目で誘われたって言ってたらしいぞ。俺の店がそういう店だと思われたら困るんだ」
「ああ」
アージェンは笑った。
「会釈はコミュニケーションの基本ですけどね。あと、女にも選ぶ権利はある」
「どういうこと?」
振り向いた拍子に揺れ乱れたリディの髪を、アージェンは自然な仕草で撫でてやる。
「下手な男に何回も乗られるより、金を払ってでも一度はお姫様扱いしてもらいたい女が、いかに多いかってことだよ」
何かとぼけるような言い方をするアージェンを見ながら、リディはなおもきょとんとしており、ジェルヴェはというと、何が言いたそうだが歯切れ悪く口ごもっている。
「リディは無防備に色事が耳に入る環境にあって、しかも美人だ。あんまり過保護にしてると、かえって変な男に持っていかれちゃうんじゃないですか」
アージェンはいたずらっぽい表情を作った。
「俺は、リディのためならいつでも体をあけておきますけど。それこそ、下手な男より良いだろう?」
後半はリディに向けての言葉だ。話の全容が掴めた少女は、赤くなって養父に助けを求めた。
「父さん……」
困ったような、恥ずかしそうな複雑な表情で見上げる娘の前で、ジェルヴェは今度こそ本当に、猟銃をアージェンの額に突きつけた。
「お前みたいな男から金を取らないのは、いろいろな意味でリディのためを思ってのことだ。わかるか?この宿が売春宿と思われても困るが、仕事だろうがやたらに女を抱くやつを、娘の近くには置いておけんからな」
大真面目に睨みをきかせるジェルヴェを見て、アージェンはにやにやと笑い、ライオンのアンリは呆れたように欠伸をしている。
「北部の者は、情が厚いな。拾った子供にも愛情を惜しみ無く注ぐ」
「悪いか」
いや、とアージェンは銃身に手をかけ、ゆっくりと自分の顔から逸らして微笑む。
「弾が入っていないことくらい、さすがにわかります」
リディは、ほっと安心し表情を緩める。苦笑しながら彼は椅子から立ち上がり、ジェルヴェの前に立っておもむろに頬にキスをした。
薄く、柔らかい唇は、そのままジェルヴェの頬から耳元に移り、温かい吐息とともに甘い言葉を囁いた。
「リディよりあんたのほうがいいかもな。あとで来ませんか」
アージェンはすっと一歩下がると、硬直しているジェルヴェをじっと見つめ、片目をつぶる。
「冗談ですよ」
リディたち父娘は、唖然としており無言だ。軽く手を振りアージェンはそのまま階段をのぼって2階へ向かったが、途中で何か思い出したように、客室の前で階下を見下ろす。
「リディ。この近くに教会があるだろう?案内してもらいたいんだが」
「え?うん……」
じゃあまた明日、とアージェンは再びいたずらっぽくウインクをしながら言い、静かにドアを開けて室内へ入る。
かちゃ、と鍵のかかる音が聞こえると、リディは、笑っていいものか迷った挙げ句に我慢できず吹き出し、ジェルヴェはというと、気が抜けたようにテーブルに突っ伏してしまった。
「父さん。彼は、何か企んでるわけじゃないのよ。ただ、ああいう見た目と仕事だから」
「いや、俺もわかった」
ジェルヴェは深呼吸をした。
「魔性っていうのはああいうのを言うのか。女も男も、人を惑わす存在というのはいるんだな」
そしてジェルヴェは、少し考えるように自分の右腕をさすった。
「なんだか、見かけ通り、蛇みたいなやつだな」
そうね、と言いかけて、リディはジェルヴェの顔を見る。
「父さん?見たの?」
「ああ、腕の、鱗みたいなやつか?ゆうべ風呂を貸した時にな」
リディはてっきり、娘が男娼に誘われていることを父親として苛立っているのかと思ったが、そうでは無かったようだ。
「お前もそれを見たんだろ?アンリもだ」
リディは、ためらいがちに頷く。
「生まれた時からあるって……言いふらさないようにとは言われた」
そうか、とジェルヴェは言う。
「でも、わかっててよく滞在を許したわね」
「ああ、悪いやつでは無さそうだし……元々、ここは行き場の無い者が流れ着いてできたような街だしな」
交通の要所として賑わう街はかつては小さな港町で、そのまま通りすぎて行く者の方が圧倒的に多かったが、ぽつぽつと居着いていくものが増え街は栄えていったのだ。住み慣れた地を捨ててやってきた父がそうやってここに店を構えたのを、少年だったジェルヴェもよく覚えている。
生まれ故郷を懐かしみ、ふとジェルヴェの脳裏に1枚の絵が浮かんだ。
「ああ、そうだ」
土着信仰の残る北部の村にも、当然のように教会があったのだ。人を惑わす蛇の絵と同じ壁に、聖母が描かれた絵画も掲げられていた。その慈愛に満ちた横顔が、男娼と似ていると思うのは不敬だろうか。
「父さん?」
リディが首を傾げるが、なんでもない、とジェルヴェは足元にいるアンリを撫でた。
「それにしても……」
ふう、とジェルヴェはまた深く溜め息をついた。
「俺もいい加減に嫁さんもらうかな。独り身でいると、変なのに惑わされそうだ」