第3章
「蛇?!」
リディの反応が面白かったのか、アージェンという名のこの青年は、下を向いて笑いだした。
アージェンの銀に透ける髪と中性的で整った見た目のせいなのか、リディの声が響いたからか、行き交う人々の視線は二人に向けられ、リディは恥ずかしくなり小走りになった。
この国は、中央、南、東、西、北と各州ごとに自治体が存在するが、中央や南部は都市特有の制約も多く、この東部の州が一番、生活水準も物価も適度で過ごしやすい。
そして東部の中でも、海にほど近いこの町は適度な賑わいをみせる交通の要所で、市場へ通じる大通りは、日頃から様々な地域の人や物で賑わっていた。
市場は、人がひしめきあっている。その中でも、愛用の赤いフードつきマントを羽織ったリディは目立つし、客商売のため知り合いも多い。注目も集めたくないが、自分が口にしたことはあまり大っぴらにしてはいけないと感じたのか、リディは小声でアージェンに聞いた。
「蛇?あなたが?神話や昔話に出るような、蛇が化けてるってこと?」
いや、とアージェンはやんわりと否定する。
「これが、蛇の鱗みたいだってだけだ。生まれた時からある。お前のペットもこれを見た途端に大人しくなっただろう。さすが百獣の王だ」
そう言って、肩にかけた背嚢を背中に回すと、長袖のシャツの上から、自分の右腕を指差す。背嚢の中に入っているのは、護身用に持ち歩いている武器のようなものらしく、硬質な音がした。
「ペットじゃないわ、家族よ」
「ライオンも一緒に拾うなんて、お前の養い親は物好きだな」
野生のライオンはこの地にはいない。宿屋で飼っている説明がてら、歩きながら、もう幾度となく繰り返したであろう自分の身の上話をリディは誇張もせず同情を誘うでもなく喋り、その姿はアージェンには好意的に映っていた。
だからだろうか、彼は意図せず見られた自分の秘密も、聞かれるままに話している。
「触るか?」
リディが、少しためらいながら周りにわからないようアージェンの袖をめくると、そこには爬虫類のような紋様があった。触れると固く、明らかに普通の肌ではない。
ちら、とアージェンは市場の店先を見渡した。吊るされた家畜の頭や、干された肉は原型がわからないものもあり、また少し離れた店の前には、何かの足が何かの調味料に漬け込まれている。その中には、蛇を漬けこんだものもあった。
「ほら、同じだろう」
しかしリディは恐れるわけでなく、その表情は子供のような好奇心に満ちており、青年もそのまま話し続ける。
「俺は別に、蛇の姿になるわけでも魔力があるわけでもない。異端扱いされるからわざわざ見せないけどな。まさか宿屋の娘に覗き趣味があるとは思わなかった」
「覗き…」
リディは黙った。アージェンは袖を直すと、馴染みのない野菜や果物を物珍しげに覗いてる。
「気味が悪いなら追い出してくれて構わないが、見たものに関して吹聴されるのは具合が悪いからな…。どうした?」
アージェンが振り返ると、リディは何故か苛立った様子で、彼を見ているが、その頬、そして耳は赤く染まっている。
「…服を着てないなんて、思わないでしょ!見たくて見たわけじゃないわよ!」
アージェンはちょっと驚き、すぐに意地悪げな顔になった。
「なにを?」
にやにやしている。リディが言うのが、アージェンの鱗模様のことではないのがわかっていってるのだ。
「なにって…」
案の定リディは、赤面したまま言葉に詰まる。知り合いが声をかけたのにも気付かないくらいだ。
「お前さ」
「…リディよ」
「リディ。お前面白いな。そして、美人だ」
そう言って、リディをじっと見つめ、その整った口元に笑みを浮かべて誘う。
「普通の女は、俺の鱗を見ると悪魔を見たかのような反応をする。怖がらない女は、身内以外では初めてだ」
アージェンは、リディが避ける間もなくその頬にキスをして、そのまま耳を軽く噛んだ。
「今朝は冗談で言ったけどな。お前が俺に興味があるなら、今日の夜、部屋に来いよ」
リディは息を飲み、立ち尽くした。常連客や、旅で立ち寄った若者から言い寄られることは少なくないが、それらとは全く異なる口説かれ方に、戸惑いを隠せない。
困惑しながらもアージェンに抵抗するように睨み付けたとき、誰かと肩がぶつかった。
「…きゃ!」
リディは勢いでつまづきそうになり、我に返った。
振り向くとそこに、たまに食堂を利用する体格のよい若者が立っていたが、彼は最近警察に登用されたばかりらしく、制服姿がぎこちない。そして、見下ろす顔は不機嫌そうだ。
「…見ない顔ですが?」
「ああ!うちに昨日から泊まってるお客さんなの。最近物騒だから、市場への買い出しに付き合って貰おうと思って」
リディは慌てて、それでも簡潔に説明をするあたりは客商売をしてる者らしくしっかりしている。アージェンは会釈をしたが、若い警察官はそれを無視してリディに向き直る。
「私たち警察がお守りしますから、よそものに頼む必要はないですよ」
警官の視線は、リディの猫のような大きな目から、男物のシャツを着た胸元、そしてショートパンツから伸びた素足をさっとかすめたが、リディ本人は気づいていないようだ。
「でも、失踪?誘拐?そういう事件もちらほらあるんでしょう?父さんが言ってました。もっとも、南北の内紛があった30年位前には、よく聞く話だったらしいけど」
「ご主人…ジェルヴェさんは、北部の出身でしたっけ…」
ちら、と若い警察官はアージェンを見下ろす。
「商人や観光客も多いこの東部でも、彼のような銀の髪色は見ませんけどね。出身は?」
威嚇するような態度だが、アージェンが微笑むと慌てたように目を逸らし、今度はリディがそれを見て笑った。
「俺は、西部の田舎で育ったんだ。身寄りがいないから気ままに旅をしている。東部はいいところだと聞いたんでね」
「へえ!そんなに他の州まで評判が届いてるの?」
リディは嬉しそうだが、青年はすまして言葉を続ける。
「内紛の影響を受けてないから、という話だからな。交易で人が集まるからか、活気もある」
「うちも一時期は客室3つが連日満室になるくらいだったのよ、今は食堂がメインだけど」
リディが自慢気に言った。リディの店は、宿屋が本業だが、立ち寄る労働者たちに朝夕の食事を提供することで収入の足しにしてきた。しかし、移住者が増え、最近は宿泊の利用者は減っている。
リディの説明にアージェンは頷いたが、若い警官は、アージェンに面白くない感情を抱いているようだ。
「確かに住みやすいとは思いますが」
警官が話す間、アージェンはあちこち物珍しげに見て、たまに目が合う人に魅力的な笑顔を返している。
「…あなたみたいな余所者は、この町に長くいるべきではないんじゃないですかね」
威圧的な態度の警官を、アージェンは振り向き見つめる。整った目鼻立ちは先ほどとは異なり、冷たい印象だ。思わずひるんだ警官は、アージェンが担ぐ背嚢に手をかけたのを見て、警棒を持ち直したが、そこに女性の声が割り込んだ。リディだ。
「私も余所者なのは知ってるでしょ。出ていくべき?」
大きな目で警官を見上げるリディは、静かな声で反抗と非難を伝えた。警官はたじろぎ、アージェンはというと、口に手をあて吹き出した。
「え?ちょっと…人が真面目に話してるのに!」
「ああ、ごめんな。警官の間抜け面が面白くて…」
警官は、アージェンが背嚢に手をかけたままなのを見ながら、侮辱されたことには言い返さずに、威厳を取り戻そうと咳払いをした。
「その背嚢は?」
「護身用だ。リディのためにね。あいにく、俺はこの町と、リディが気に入っている」
アージェンは、ふっ、と口元を緩めると、挑発的に言った。
「こんな頼りない寄せ集めの警官でも治安が維持できるくらい安全な町なのは、よくわかったしな」
若い警察官はさすがに今度こそ肩を震わせたが、アージェンは意に介さない。
その時、店が並ぶ奥の方から叫び声が聞こえた。同時に誰かが二人がいるほうへすごい勢いで走ってくる。
スリよ!!と中年女性の声が聞こえ、リディは咄嗟に身構えたが、その眼前に立つアージェンの腕に遮られた。
「馬鹿か。そんなんで止められるわけないだろう」
あきれたようなアージェンの背中をリディがむっとして睨むと、アージェンが肩から背嚢をずらし、その紐を握ったまま数歩進み片ひざをつくように屈む。無駄のない動きに合わせ、銀の長髪が揺れた。
彼がその場を支点にして、弧を描くように背嚢を水平にスライドさせると、前のめりで駆けてきたスリは、そのまま背嚢に足払いをかけられたような形になり、手をつく間もなく顔面から派手に石畳へ突っ込んだ。若い警官は、呆然とその手際のよい一連の動作を見つめている。
「…あ!」
リディが空を見上げた。
見事な手際によりスリの手元から離れた財布が、宙を舞う。リディは逆光に目を細めながらその様を目で追いかけたが、屋根より高く放られたあと、人混みに落ちるかと思われた財布を、空を横切った影が掴んだ。
鷲だ。山でよく見るものと違い、首もとが少しくびれており、大きく綺麗な白銀のからだに羽の先だけが黒く、同じように先だけ黒い細い羽根ペンのような頭飾りが数本なびいている。しかしその悠然と羽ばたく姿は鷲の風格を確かに備えており、リディはしばし目を奪われた。
「綺麗…」
惚けたようなリディの呟きに、アージェンは微笑して空を見上げた。
市場、そして市街地の向こうに見える教会らしき尖塔より高い空を、鷲は優雅に羽ばたいている。
「ありがとうな」
手を空に向かって差しだしながら、まるで友人に話しかけるような口調で鷲に礼を言う。
「絵本に出てくる鳥みたい…」
リディがそう呟くのも無理もないくらい、雑然とした街を空から見下ろす大鷲は現実味がなく、同じく市場の喧騒にそぐわないアージェンの姿によく似ていた。
「こいつが、俺の家族で、相棒だ」
鷲はゆったりと旋回しながら、体の半分もありそうな細く長い足を、つい、と伸ばし、その鋭い爪で掴んでいた財布を、彼の白い掌に落とした。アージェンと見つめあう目元の周りは、オレンジ色で彩られて妖艶さを醸し出している。
メスだろうか、とリディは思った。
「ほら、お前のライオンと同じくらい、良い働きをするだろう?」
手元の財布を、息を切らせながら走ってきた持ち主に返してやり、アージェンはリディに向かって微笑んだ。