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第12章(2)

「…アージェン!」

 リディが叫ぶ。アージェンの背後に、もう1匹獣が飛びかかった。空腹なのか、涎を垂らしながら獣が出した前足の爪はアージェンの背中を引き裂いたかに見えたが、血は出ない。リディはほっとしたが、彼を守ったその体の特徴を、隣にいたシルヴィが口にしたのを聞いた。

 蛇、と。

 アージェンは振り向き様に、棍棒で背後の獣をなぎ倒す。胴体を折られる形になりそのまま壁に打ち付けられた獣は、床に力なく落ちたあと、2、3回ひくりと動き、泡を吹いてこと切れた。一切の躊躇がない。あの夜、狼を殺した時もこうだったのだろうかとリディが身震いをした次の瞬間、ホールに銃声が響いた。場内を駆け回る動物たちに、次々と麻酔銃が打ち込まれたのだ。リディが見ると、その銃口はアージェンを向いている。

「やめて!!」

 アージェンが振り返る前に、銃声とともに麻酔針がその視線の先を通過した。アージェンはその場に立ったままで、倒れたのは女性である。

 アージェンが、ゆっくり体ごと向きを変えた。鋭い目付きと異様な雰囲気に、リディは一歩退く。血のついた棍棒を手にしたまま団員達に歩み寄るアージェンに、声をかけたのはシルヴィだった。


「もう、気が済んだ?」

 アージェンがシルヴィを見る。その場の緊張感をものともしない様子でシルヴィは言った。

「人に被害は出なかったけど、動物を殺すのも罪なのよ。知らなかったかしら」

 シルヴィのやや挑戦的な言い方に、アージェンは口の端を片方だけあげて笑いながら答えた。

「これは動物なのか?俺は各地を旅してきたが、少なくとも人の近くで暮らす家畜の形態からこいつらは逸脱している」

 薄暗いホールの中で、リディも動物の顔かたちをきちんと見ていた訳ではなかったが、改めて見て息を飲んだ。

 脳を割られてはいるが、犬とも狼ともつかない形相は、見覚えがある。しかしシルヴィが発したのは、答えではなく質問だった。

「世の中の全てを知っていると思ってるの?」

 多少の威圧感と様子を伺うような物言いに、リディは先ほどシルヴィがアージェンの鱗を目にしたのを確信した。アージェンはそれに気づいているかはわからないが、まだ薄暗い舞台の上で、静かに服の破れ目を合わせた。

 シルヴィはため息をつく。

「とにかく、騒ぎの発端はあなたじゃないのはわかっているけど、かと言って捨て置けないの。あとは私が処理するから、皆は先に家に戻りなさい。コンチェッタもうちに来るといいわ」

 コンチェッタは震えながらも頷いた。シルヴィはそのまま、サーカスの団員たちを見回す。象や他の動物は、麻酔で眠らされたあときつくロープで縛られたり、既に専用檻に閉じ込められているようだ。

「…その女性はどうするの」

 リディが聞くと、答えたのはあの少年だ。

「お姉ちゃんが心配することじゃないよ」

 静かで、感情のこもらない声。言いかえそうとしてリディが黙ると、少年はうなずく。

「聞いたところで何もできないなら、最初から関わらないほうがいいよ」

 容赦ない言葉だが、真実だ。女性はそのまま少年がひきずるように連れていき、アージェンはシルヴィをもう一度見ると、淡々と棍棒を畳みはじめた。その仕草や表情から、感情は読み取れない。


「リディ、パパが来たわ」

 コンチェッタを呼ぶ張りのある声は、アメデオのものだ。馬の声も聞こえるので馬車を手配してくれたのだろう。アージェンは公民館にある手洗い場にいき、水で顔と棍棒についた返り血を流した。

「馬が嫌がるからな」

 そう、周りを気遣う様はいつもの彼だ。アメデオは娘たちを見て安堵の溜め息をつき、そのまま無言で馬車に乗り込む。

「ジェルヴェのところまで様子を知らせにきてくれたご婦人がいてな。怪我がなくて良かった」

 御者も古くからの知り合いで、笑顔で挨拶をしてくれた。リディはほっとして、簡単にアメデオへ事の次第を話した。

 すでに惨事は町中に知れ渡っているだろう。女性の姿が観客からほぼ見えないため、真実を把握している者がいないのでは、という懸念がある。


「…あの夜騒がしかったのは、そういうことだったの」

 5本足の狼の話をコンチェッタにするのは初めてだったが、意外と彼女は落ち着いていた。

「シルヴィは、残って何をしてるんだろう…」

「仕事柄、動物関連の事故の処理は慣れてるのかもな」

アメデオ父娘の会話を聞きながら、リディはシルヴィが口走った言葉を思い出していた。

「蛇…」

アージェンは耳ざとくそれを聞いたが、コンチェッタと御者の前では大っぴらには言えない。どうした?と小声で顔を近づけたアージェンにリディが耳打ちすると、アメデオがからかう。

「無事だったから良いけどな、あまりシルヴィの前で仲良くすると嫉妬されるぞ。あいつはリディが大好きだからな」

リディは赤面したが、アージェンは声を出さずに笑うだけだ。

「あんな調子で、よく結婚できたと思うよ。ああ、そうだ。だんなは政治学者のはずだが、随分人が良さそうなやつだったな」

「良さそう、じゃなくて、人が良いのよクレールは」 

リディは、カバンから封筒を取り出した。先日ジェルヴェに渡されて入れたままだったのだ。

「手紙に写真も入っていたのよ。これがだんなさん。父さんより少し年上よね、確か」

 そうだったかな、とアメデオが首をかしげる位、写真に写るシルヴィの夫は確かに若く見える。学者然とした清潔感のあるスーツ姿に、耳上くらいまでの明るい色の髪は綺麗にセットされている。一緒に写っているシルヴィが隙の無いきりっとした表情なのとは対照的に、男性は全体的に柔和な印象だ。

「…へえ、男前だな」

 アージェンは、ゆっくりと写真を確認してぽつりと呟いた。

「でしょ?でもクレールがシルヴィに惚れたのよね、リディ」

 色恋に関してはコンチェッタのほうが饒舌になる。


 そんな話をしている間に、宿屋に着いた。店は夕食の時間をとうにすぎ、閉店の体裁を取っているが、騒ぎを知った常連客数人は心配してそのまま待っていたらしい。

「リディ、大丈夫か?」

 先日暴漢に襲われた時と状況は異なるが、娘たちに大事がなくてジェルヴェも他の客たちも安堵している。

 リディたちは、ジェルヴェが用意した夕飯を食べ一息ついた。そこにちょうどシルヴィが帰宅した。

「シルヴィ、久しぶりなのに散々だったな」

「だんなと子供は、留守番でいいのか?」

「けれど、事後処理もしてきたなんて、流石エリートだな」

 常連客はシルヴィの友人でもあるのだ。男性ばかりの中でも臆せずシルヴィは話すが、リディが「娘」として可愛がられる様子とは異なっていた。

「だんなは仕事よ。とんだ休暇になったけど、リディに怪我がなくて良かったわ」

 ね、とシルヴィはリディを抱き寄せ、頬や髪にキスの雨を降らせた。

「…ちょっと、シルヴィ」

 照れるリディに、常連客が茶々を入れる。

「リディにはもうアージェンがいるからなあ、シルヴィもいい加減に「妹離れ」していいんじゃないか?」

 アージェンはいつも通り、窓際のテーブルで一人夕飯を取ったところだ。こういう話題のとき、アージェンはやんわり笑って流すのだが、珍しくリディたちの前に来た。

「そうですよ。リディは俺のものなんで」

 リディはそのままアージェンに腕を引き寄せられ、胸元に抱きすくめられる。右から左へ移動させられたリディは照れてばかりで、常連客は笑っているが、シルヴィは意味ありげに片方の眉を上げた。


「でも、こんな危険な()をリディの傍に置いておくわけにいかないわ。サーカスは罰しない代わりに速やかにここから退去して貰うことにしたから、あなたにも同じように出ていって貰わないと」

 それを聞いたジェルヴェたちは驚き、シルヴィを見る。

「シルヴィ!なんで?アージェンは悪くないわ…」

「リディ、わかって頂戴。あなたが心配なの。その代わり、彼の身柄は中央州…私がいるところで預かるから」

 え?とリディは大きな目をさらに見開く。ジェルヴェや、他の客も呆気に取られた様子だが、アージェンは無言だ。

 シルヴィは、客たちを見回して半ば命令口調で言う。

「悪いんだけど、家族だけで話をしたいから、皆は帰ってもらえるかしら」

 その言い方には反論を許さない強さがあり、同時に男性から反感を買う要素も含まれていた。しかしシルヴィの気の強さは少ししか接していないアージェンにもわかるくらいで、彼女が結婚して町を出るまでの十数年ほどを近くで接してきた古馴染みの客は、リディを心配しながらもあきらめたように帰宅していった。


「ジェルヴェとは、似てるようで似ていないな」

 アージェンが、ちょっと鼻で笑うように言った。彼にしては珍しい言い方にリディは驚いたが、シルヴィもかんに障ったようだ。

「何が言いたいの」

「別に。だんなが苦労してそうだなと思って」

 ふ、と今度はシルヴィが嘲笑うように言う。

「人の家庭のことなんて、わからないでしょう?」

「ああ。だがどんな男なのかは知ってる。お人好しで、正直で…意外と性欲が強くて」

 アージェンの表情が、懐かしむような、穏やかな表情になった。シルヴィの顔から、さっと血の気が引く。

「良い男だった。あんたがどこまで知ってるかわからないが…その様子だと、だんなの嗜好はわかっているようだな。俺と会った10年前にはもう随分と手慣れていて、優しく手解きしてもらったよ」

 シルヴィは、アージェンを睨み付けたが、彼は構わず話し続ける。リディたちは、話がいまいち掴めないのか訝しげな表情だが、アージェンの言葉に息をのんだ。

「いいよ、俺を中央州に連れていけば良い。俺も最近彼のことを思い出したところなんだ。まさかジェルヴェの妹のだんなが、10年前に俺を買った男だとは考えもしなかったけどな」



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