第10章(2)
奇形の狼はあれ以来現れていない。巻き込まれた女性も保護されたはずだが、野犬に襲われたと思い込んだのだろう。罰する対象がいないならおおごとになるはずもなく、人の口の端にも上らない。
警官は未だに町中を巡回しているが、ほとんど形だけのものだ。だが、以前よりは明らかに「余所者」とわかる者も増えた。
「なんだか見たことない服装の人もいるわね…」
異国のような、それこそ昔の絵に描いてあるような時代がかった服装の者もいる。大荷物を抱え、数人で舟から降りてきた。
「交易だけじゃなく、娯楽産業で稼ぎながら生きているやつらもいるからな。演劇とか…」
コンチェッタが中央州でみてきたものだろうか、とリディが想像していると、見世物とか、とアージェンはぽつりと呟いた。その視線の先に見える団体の荷物からは、鳥のような甲高い鳴き声が聞こえてきた。
彼は、リディが知らない様々なものを見ながら生きてきたのだろうが、無理して聞くには憚られリディも黙るしかない。
「お嬢さん、服はどうだい」
市場から少し外れると、道端に品物を広げている男性からリディは声を掛けられた。地元の人間なら、宿屋のリディを「お嬢さん」などと呼びはしない。やんわり断り向きを変えたとき、服を掴まれた。
「…ちょっと!」
振り向き様に振り払おうとして思いとどまる。子供なのだ。7歳かそこらだろうか。こちらも異国の神話に出てくるような、鮮やかな色どりの布を巻いた服装。驚き立ち竦んだリディの肩をアージェンは抱いて、その場から去ろうとしたが、その後ろ姿に子供が声をかけた。
「お兄さんの髪…本物?」
アージェンがゆっくり振り向き、少しだけ口角をあげて言う。
「どう思う?」
しかし子供はそれには答えない。
「いいよね。僕もそういう何か…特徴があればなあ…」
子供はなぜかアージェンではなく中空を見ていた。そして、アージェンもまた、その場から早々と移動しかけている。リディは慌てて追いかけた。
「…あの子供」
「さっきの団体の子供だろう。放っておけ」
リディは、気になりもう一度振り向いたが、劇団とおぼしき団体はすでに視界から消えている。様々な職があるのは知識としてはわかっているが、実際に小さな子供が同じように働いていることに、リディは少なからず心を痛めた。
「お前も、子供のときから宿屋の手伝いをしているだろ。外野が好き勝手に詮索することじゃない」
確かに、とリディはアージェンの言葉に頷きながらも、何か
納得できない感情を抱いていた。
「あれ、おじさん?」
見慣れた人影、と目をこらすと、向こうからアメデオが歩いてきたのが見えた。リディとアージェンを見て、手を挙げる。暑いのか、汗拭きの布を首にかけた様は労働夫のようだが、浅黒い肌にはよく似合う。
「どうしたの?」
「コンチェッタを公民館まで送ってきたとこだ。昔の家庭教師が音楽のリサイタルをするらしい」
アージェンはちょっと驚いた。
「家庭教師なんて付けてたんですか」
「奥さんがいなくなってからの子守りも兼ねてな。二人は逢い引きか?もっと大っぴらに抱き合ってくれても構わないんだぞ?」
ははは、とアージェンは笑うがリディはちょっと恥ずかしくなり、赤い顔を誤魔化そうと、少し歩きながら露店をなんとはしに見る。
すると、何か視線を感じた。
なんだろう?と振り向いたがわからない。
そのまま再び露店沿いに歩いていたが、不意に口と腕を掴まれた。
「…!!」
素早くそのまま路地の奥、ほとんどすれ違えない位の建物と建物の間に引きずるように連れ込まれる。日の光はほぼ入らず、かろうじて顔を見上げたが逆光で顔は確認できない。
「蛇の鱗を、こんなふうに加工するやつがいるのか」
「ぱっと見じゃあよくわからねえな…しかし持ち主が女とはなあ」
男達がリディの耳をつまみ、イヤリングを観察している。痛みと怒りから、リディは腕を後ろ手に掴まれたまま睨んだ。
「手を離しなさいよ!!」
乱れた茶色い髪の間から見えるリディの気の強そうな目は、男達に間違った刺激を与えたらしい。舌なめずりをし、1人が醜悪な笑みを浮かべる。
「蛇は、男じゃなく女なんじゃねえか?」
「かもな、ここで先に確かめるとするか」
「そうだな。どうせ持って帰っても、隅々まで剥かれるんだからよ」
リディには、男達の話す内容は理解できなかったが、先ほどより更に力一杯逃げようとした。だが腕を振りほどけず、逆にうつ伏せで地面に倒された。
「…痛!」
咄嗟に顔から落ちないよう背を丸めたが、額を擦ったようだ。そして男達はリディの服を肩から乱暴に脱がそうと引っ張る。
「やめて…っ」
足首を掴まれ、転がされそうになった時、建物の上を何かがかすめた。大きな、鷲。
「リディ!!」
アージェンだ。手には、少し傷のついた赤い靴。どうやらリディが引きずられているとき、路面に引っ掛かって脱げたらしい。
彼の乱れた前髪から覗く目に、怒りが滲んでいるのがわかる。リディは彼が狼を殺した時を思い出し、彼を制しようとしたが声は出ない。しかし武器を取りだし男達に飛びかかる直前、アージェンは頭に布を被せられた。
「お前は目立つ。それ巻いて後ろで待ってろ」
そう言ってアメデオは露店から拝借したのか、歯のついた工具を狭い路地裏で器用に振りかざした。扱いには慣れてるだろう、男達の脳天を割らないよう、歯は威嚇に使い、回転させると柄の部分で男の腹を突き、崩れた体を思い切り正面から蹴った。
「あばらは折れたかもな。それにしても…」
アメデオは男達の服装を見た。シャツにズボンというありふれた格好だが、見かけによらず高価な腕時計に、手にはメモ。書かれた単語の中のひとつに、目がいった。
「蛇…」
アージェンはそれを聞き、はっ、と顔を上げるが、アメデオに、被せられた布を更にぐるぐると頭に巻かれてしまった。指でつい、と布をずらした隙間から覗いたアージェンの目は、いつもの黒い色だ。
「お前は先に戻れ。俺とリディは、警官にこいつらを引き渡す。頼りない警官に任せるのは不本意だが、たまには仕事をさせたほうが良いだろう」
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アージェンは1人、頭に布を巻いたまま宿屋に戻った。
「どうした?怪我でもしたか?」
カウンター席に腰掛け、雑巾でランタンを拭いていたジェルヴェは、アージェンの様子に驚いたが、彼はジェルヴェに近づき、少しためらいながら言う。
「リディが…暴漢に襲われて」
「なっ…!」
がた、とジェルヴェが立ち上がったはずみでランタンが倒れそうになる。アージェンはそれをそっと支え、続きを話した。
「たまたまアメデオさんと会っていたので、助けて貰いました。男たちは警察に連れていくと」
「男たち?」
「二人連れです」
アージェンは一旦言葉を切り、深く息を吸った。
「俺は…目立つからと言われて。何も出来なかった。不甲斐ない…」
ジェルヴェは、下を向いたアージェンの肩を優しく叩く。「無事ならなんでもいい」
それが、と、アージェンは躊躇いながらも言葉を継いだとき、アメデオとリディ、そしてコンチェッタが店に入ってきた。
「お邪魔しまーす!」
コンチェッタは、女学生のような服装だ。家庭教師の女性から以前貰ったもので、先日中央州に行く時にも着ていったらしい。
リディはジェルヴェの顔を見て、強ばった表情を緩めた。ジェルヴェが入り口まで早足で行き、その厚い胸元に抱きしめると、リディはたまらずに嗚咽を漏らす。
「もう大丈夫だ」
ジェルヴェの声は、子供をあやす親のものだ。しばらくしてリディの肩の震えがおさまると、食堂を開ける時間が近くなり、一同慌てて準備に取りかかった。