第10章(1)
夏の市場は、一層賑やかだ。
野菜も色鮮やかなものが増え、人々の装いも軽くなる。
リディの格好も、マントは着ずにシャツとショートパンツ、そして足元には真新しい青緑の靴だ。アージェンはというと、相変わらず長袖長ズボンにブーツ姿である。
「暑くない?」
「暑くないと思うか?」
リディを見下ろすアージェンの顔は涼しげだが、声はやや不機嫌だ。本音を出してくれるアージェンと、ちょっとした変化にも気づけるようになった自分自身も嬉しく思い、リディは笑った。
「半袖にして、何か巻く?包帯とか…」
「それも暑いし、変に勘繰られるしな…っと」
ふいに体格の良い男性が目の前に立ちはだかった。3日に1度は食事に来る労働夫で、よく日に焼けた顔から白い歯を見せて豪快に笑う。
「おおリディ、仲良くやってるな」
食堂の常連たちにはリディとアージェンは親公認の仲ということになっており、ひとたび外で知り合いに会うと、挨拶をかわすたびにリディの袋に何か入れてくれる。果物ひとつ、牛乳1本のときもある。今日「差し入れだ」と入れられたのは、外国の言葉が書かれた小さな瓶と、何か入った紙袋。
「これ、なに?」
リディが持ち上げると、中の液体がとろっと揺れた。
「精力剤だな」
「…えっ!」
「そっちのは避妊具だ」
アージェンは、袋の中を覗きこむ。
「詳しいのね…」
「仕事道具だからな」
むう、とリディは口を尖らせ、早足で人混みをすり抜けていき、その後ろ姿を面白そうに見ながら、アージェンも石畳の道を歩いていく。アージェンにアプローチする客も相変わらず多いが、常連客達の大半は二人の仲を見守っている。
事実、リディは、ここ最近とみに色っぽくなったと店の常連客からも評判だ。町中で少年のような格好をしていても人目を引くのは、その茶色い髪や目鼻立ちのせいだけではなくなっていた。
しかし、アージェンはいまだにリディを抱こうとしない。男を知らない少女は抱かない主義かといえばそうではない、というのはリディもわかっている。
「こんにちは」
リディ達を微笑ましく見ながら、また羨むような顔で挨拶をする修道女は、ジェルヴェより少し年上の移住者だ。こんにちは、とリディも挨拶を返す。アージェンも会釈をした。
「彼女、内紛で夫を亡くしたらしいな」
教会によく行っているらしいアージェンは、話を聞いたのだろうか。
「身寄りを亡くした女は、男より不遇だ。まあ俺はそれで稼いできたってのもあるけど…」
アージェンが旅先の歓楽街をうろついていると、いかにも慣れていない女に声を掛けられることがあるのだ。男を知らないままは嫌だという女に、アージェンは買われたことが幾度となくあるらしい、とリディはジェルヴェから聞いていた。
そして、そのまま自らが売る側になる女がかなりいるということも。アージェンを思うリディは複雑な気持ちだが、拾われた我が身に照らし合わせると、一概に何も言えないのであった。
「リディ」
アージェンの手が、リディの腕を掴んだ。石畳の僅かな段差に靴の踵が引っ掛かったのか、バランスを崩したのだ。
「ありがとう。まだ慣れなくて…」
「そのうち慣れる。似合ってるぞ、良かったな」
ふふ、と嬉しそうなリディを見てアージェンは苦笑した。
「ジェルヴェも不器用だよな。何か買ってあげたいなら普段から言えばいいのに」
「それは私が遠慮してるから…。父さんがそれを感じて遠慮しちゃって」
「面倒臭いな」
アージェンは、言葉と反対の優しい笑みを浮かべ、リディに顔を近づける。
「親子揃ってな」
リディは照れ臭そうだ。
狼騒動の次の日、娘たちの他愛のない話は場を和ませ、大人たちも相好を崩しながら食事は進んだ。そして、リディが固辞した靴を、ジェルヴェが買ってやると言い出したのだ。
当初リディは今のもので十分だからと断り、ジェルヴェも珍しく強い口調になったことで一時は口論のようになったが、突然ジェルヴェが寂しそうな顔でぼそりと呟いた。
「俺もさ、娘に何か買ってやりたいんだよ…アメデオみたいにさ」
それがあまりにも切なそうだったので、リディは狼狽え、アメデオは笑いだし、コンチェッタは緩んだ口元を押さえ、アージェンはと言うと、肩を震わせ笑いを噛み殺す、という状況になった。
結局その数日後に、店の空き時間を見計らいリディは父親と靴屋に出かけたのだ。
「父さんとお店の用事以外で買い物したの、すごい久しぶりだったなあ。シルヴィが結婚してからは店の常連さんの奥さんに連れていってもらってたし」
「ジェルヴェが女物の買い物をしてる姿か…見たかったような気もする…」
アージェンは想像したのか、また笑いだした。
「でもねえ、父さんは女性の服や小物を選ぶのも上手なのよ?やっぱり妹がいるからかな」
「どうかな。お前が可愛いからだろう」
そう言って、アージェンはリディの耳に触れた。花の形をしたイヤリングの中心に、鱗のような珍しい石が、光に反射している。
「…やっぱり悪趣味じゃないか?これは」
アージェンは心底嫌そうな顔をしたが、リディは意に介さずご機嫌だ。余った1枚の鱗は、売るとアージェンの言うようにそれなりの値がついたが、リディが金を受けとるのを断ったのでジェルヴェに渡してある。
市場から帰る途中、最近二人はわざと人通りの少ない路地を選んで歩く。そこで、どちらともなく立ち止まり、抱き合ってキスをした。
「アージェン…」
もう何度もこれを繰り返しているうちに、リディはアージェンがいつこの先へ進んでくれるのかもどかしく感じていた。彼は魅力的だが、その見た目に惹かれたわけではない、とリディは自分でも思う。しかし、では何故好きになったかと聞かれても上手く説明は出来ないのだった。何より、アージェンについてはまだ知らないことが多すぎる。
そのうちアージェンの手はリディの服の下に入り込み、乳房を包んで弄び始めた。
労働夫達の節くれた手とは違って、女性のような細くて白い手指はリディが感じる場所を的確に探り当てる。いつもされるがままのリディも、今日はアージェンの腰に触れ、そのままズボンの中に少し手を入れた。鱗は腰骨まであった気がするが、ベッドでゆっくり彼の体を楽しみたいと思い始めている。
アージェンが、くすぐったそうな笑い声をあげた。
「…これ以上触られると、帰れなくなる」
帰らなくていいのに、とリディは思わず本音を漏らし、アージェンに笑われた。
「そのうちな」
路地を抜け再び大通りを歩きながら、何がそのうちなのだろうとリディは思う。アージェンは、リディが蛇の魔力に誑かされているのだとまだ疑っているのだろうか。それとも、狼が何か関係しているのだろうか。