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第8章

 まだ夜が明ける前、手元のランタンの灯りの下で、保存庫から取り出した漬けこみ肉と卵を、ジェルヴェは手際よく炒める。

 肉に火を通してる間に、生野菜を切り、オニオンスープを温める。そうしているうちに、コーヒーを入れるための湯が沸いた。

 採光窓から日の光が差し込んできたので、テーブルに置かれた小さなランプの灯りを、アージェンは吹き消した。

 目を伏せて軽く唇をとがらせ、優しく息を吹いただけなのに、彼の横顔と仕草はなぜか厳粛なものに感じられ、リディがしばし食事を乗せたトレイを持ったまま立っていると、横からコンチェッタがからかってきた。

「彼氏に見とれてんの?」

 えっ、と動揺するリディに気づいたのか、アージェンも優しく微笑む。彼の向こうに見える窓枠がまるで額縁のようで、教会に掲げられた聖母図のような錯覚を覚えた。


「ねえ、いつからそういう関係?」

 ナイフとフォークで綺麗に肉を食べながら、コンチェッタはリディに聞いた。夜中からずっと、聞きたくてうずうずしていたようで、既に興奮で頬は紅潮している。

「いつからって…」

 リディは困惑して、窓際の小さなテーブルに1人座るアージェンを見た。すでに食べ終わり、新聞を読んでいる。

 女子二人は、ホールの真ん中にある丸テーブルに座り、父親達はカウンター席を使っているが、それぞれが違うテーブルを気にしているようだ。

「今までリディに言い寄る男は沢山いたけど、ジェルヴェさんも許すなんて初めてだもの。しかもこんな良い男!」

  コンチェッタの声はよく通る。ジェルヴェにとって彼女は、生まれた時から友人の娘として、またリディを養育するようになってからは娘の親友として接してきた相手だ。そのコンチェッタには、堅苦しい自身の性格も知られすぎており、耳にした本人は苦笑したが、次にコンチェッタが言った言葉を聞いた時には手にした皿を落としそうになった。

「もう寝た?した?」

 リディは絶句し、アメデオは呆れ、ジェルヴェは動きを止めた。そしてアージェンは、聞こえないふりをしているのか、表情を変えず、新聞に目を落としたままだ。

「コンチェッタ、中央州では慎みを学んではこなかったのか?」

 アメデオは振り向いて娘をたしなめる。父親としてコンチェッタの性格は十分承知しているが、それにしても明け透けな物言いだ。

「沢山学んだわよ。堅苦しいマナーも飽きるほどね」

 コンチェッタが座ったままワンピースの裾を軽くつまんでお辞儀をすると、やり取りを聞いていたアージェンはさすがに笑いだした。新聞を閉じて顔を上げ、アメデオ親娘を交互に見る。

「コンチェッタは、奥さん似?」

「ああ。じゃじゃ馬で手に負えないところはそっくりだ」

「成る程」

 ふふ、と笑うアージェンに、コンチェッタは質問を浴びせる。

「ねえ、あなたからアプローチしたの?リディはガードが固いし純情なのに、よく落とせたわね」

 店にくる年配の女性客のような言い方に、アメデオは咳払いをしたが、観念したようにアージェンは笑いながら言った。

「俺がリディに惚れてるんだ。ガードを外すのはこれからだな」

 リディは真っ赤になり、きゃ、とコンチェッタは更に騒ぎだす。今ホールにいるのは身内だけだが、表からは馬車の音や人の話し声が聞こえてきた。臨時休業なのにあまり騒がしくしていると、変な噂を立てられ兼ねない。ジェルヴェはリディを呼び、コーヒーのお代わりを淹れるよう言ってポットを渡す。

「アージェン、コーヒーどうぞ」

「ありがとう」

 コンチェッタにはああ言っていたが、そつのない笑顔でコーヒーを受けとるアージェンは、昨日の狼のこと、そしてその前に交わした秘め事など、既に気にしていないかに見える。何となくよそよそしく感じ、物足りない気持ちでテーブルの上の新聞を片付けようとしたリディの目に、写真付きの記事が飛び込んできた。

 大統領。

 そして、その脇には狼。

 いや、狼らしき(・・・)もの。


 大統領の余暇を隠し撮りしたのか、視線はカメラを向いていない。ホテルのような豪華な建物の入り口付近で撮られたものだ。不自然に動きを止めたリディの手を、アージェンが握った。目があったが、彼は穏やかに、そして何も聞かないよう、無言でリディを制する。コンチェッタがいるからだ。

「…リディ、今日の予定は?」

 アージェンに聞かれ、リディは意図がわからずしどろもどろになる。するとコンチェッタが明るく言い出した。

「そうだ!リディ、今日買い物に付き合ってよ。一緒に選んで欲しいものがあるの」

 なあに?とリディが聞くと、今度はコンチェッタが頬を染める。

「彼へのプレゼントなんだけど…」

「彼ぇ?!」

 声を裏返したのはアメデオだ。カウンター席から立ち上がり、ずかずかとコンチェッタに詰め寄った。コンチェッタはリディより少し背が低いが、椅子から立ち上がると、頭1つ高い父親に向かって得意げな顔をする。

「中央州の大学生でね。私に一目惚れしたんだって。しかも、出身は東部なのよ。運命的だと思わない?」

「はああ?」

 二人はそれから、コンチェッタのいつもの恋愛への批判や、アメデオが妻に逃げられた話など大声で言い合いを始めた。この宿では見慣れた親子喧嘩だったが、今朝は静かにしたいと考えていたジェルヴェは辟易する。

 通りはさらに賑やかになってきた。夜は食堂を開けなければ、町の人は不審に思い、下手したら今後の客足にも影響を及ぼし兼ねない。

「アージェン、今日はリディたちのお守りをして、帰りに市場に寄ってきてくれるか?」

 アージェンは椅子から立ち上がると肩をすくめ、新聞片手にジェルヴェのほうへ来た。

「他の男へのプレゼントを一緒に選ぶなんて、嫌ですよ。それより、アメデオの工房を見てみたい」

 そこで新聞のページを少しずらして、カウンターに置く。大統領と顔の歪んだ狼が並んで写るその写真を見たジェルヴェは息を呑んだが、アージェンの身体でその表情はコンチェッタには見えないはずだ。

「うちに?良いけどどうして?」

 コンチェッタはアージェンの顔を見て首を傾げた。アージェンがにっこり笑って返事をした時には、新聞はジェルヴェがすでに畳んで後ろにしまったあとだ。

「俺の村にも鍛冶屋があったから、懐かしくてね」

「鍛冶屋なんて、どこにでもあるんじゃないないの?」

 コンチェッタは不思議そうに言うが、アメデオは渋い顔をして言う。

「大きな工場が出来た町では、どんどん廃業してるよ。中央州の都市部には無かっただろう?」

「そういえばそうかも…。えー、うちの工房が無くなるのは寂しいなあ」

 父親二人はそれを聞いて、嬉しそうな照れ臭そうな顔をする。アージェンは笑みを浮かべながら、窓際に立ったままのリディの元へ戻り、話しかける。

「今日は別行動だ」

「うん、わかった。でも…」

 昨日の今日だ。コンチェッタと久しぶりに話せる嬉しさはあるが、アージェンと離れることの不安もある。そして、何故か少しホッとしている自分もいた。

 その複雑な心中を察したのか、アージェンはリディの頭を優しく引き寄せキスをした。滑らかで優しく、綺麗に重なった二人の唇に残り3人は目が釘付けになる。

「…リディ…!」

 さすがに目の前で娘のキスを初めて見たジェルヴェは我に返ると激しく動揺し、コンチェッタとアメデオは呆けたまま、ただの観衆と化していた。

「…あれがプロの技ってやつか。成る程…」

「プロ?なんの?」

 アメデオ父娘の会話とジェルヴェの慌てぶりをよそに、アージェンはリディを抱き寄せ、赤く染まった耳元に唇を寄せて囁く。

「まじないだ。決して1人にはなるなよ」





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