第7章(1)
第2部
アージェンは、リディの部屋にある本棚から適当に本を取り出し、片あぐらの上に乗せてぱらぱらめくる。怪我はしていないが、念のためにとリディのベッドで待たされているのだ。足元には、アンリがふせている。
手にした書物の文字ばかりのページの中に、鷲の絵。掌編を流し読みしてさらにページをめくると、今度は蛇の挿し絵が出てきた。本文を読もうとしたとき、ノックの音とほぼ同時にドアが開き、リディが洗面器とタオルを手に持ち入ってきた。
「それ、シルヴィのだんなさんがくれた本なの。各地の歴史や伝承を勉強しているから」
「お前の父親の、義理の弟か。学者か?」
そう言い、本棚から違う本を取り出す。伝承、思想、政治。庶民には手に入りづらい本ばかりだ。
「専門は政治みたいだけど…。教会の視察で中央から派遣されて来たときにここに立ち寄ったのがきっかけで、シルヴィと付き合うようになったみたい。12、3年位前かな?」
「12年…」
アージェンは、本の出版年数を見た。発行日が古いものは譲り受けたものだろうか。
「シルヴィも頭がいいのよ。教会のお手伝いをしていたの。その、だんなさんが中央の大学に推薦してくれたんだけど、女性としては珍しいんだって」
「…だろうな」
棚へ本を戻し、アージェンはシャツの襟元を緩めた。
「歴史なんて、勉強しても意味ないだろう?」
「先人たちの知恵を学ぶのが、大切なのよ」
「知恵を得ても、生かさなければ意味は無い。関わりない世界で起きた過去の出来事は、ただの物語だ」
口を尖らせたリディを見て、アージェンはおかしそうに笑い改めて部屋を見回す。タンスやベッドなど、年頃の娘の寝室にしてはシンプルな家具ばかりだが、リディの普段着よりいくらか華やかなカーテンなどのリネン類が、女の子らしい雰囲気を作り出している。
「元々は、シルヴィの部屋だから。小さい頃は、私は父さんと一緒の部屋で寝てたんだけど、シルヴィが結婚して部屋が空いたから、それからはここで1人…」
へえ、とアージェンは相づちを打ちながら、腰かけているリディのベッドをポンポンと叩く。
「寂しいなら、添い寝してやるぞ」
教会で抱き合ったのを思い出して赤くなったリディだが、にやにやとしたアージェンの表情と、自宅だと言うことを意識したのか、極めてそっけなく返す。
「一緒に寝るなら、アンリがいるわ」
つれないな、と笑うアージェンを見て、リディもやや緊張していた面持ちを和らげた。
リディに促されてアージェンが血の付いたシャツを脱ぐと、足元に控えているライオンのアンリが鼻をひくつかせた。獣の匂いはするが、アージェン本人には外傷はないようだった。
濡れたタオルで、リディはアージェンの髪や頬についた返り血を優しく拭う。そのまま肩や腕を拭いていくと、鱗が一層鮮やかに浮かび上がった。
「…綺麗」
リディの呟きは、本心だろう。アージェンは言葉の続きを待った。
「動物は…そうあるべき形をもって存在してるんだと思うの。ライオンは鋭い爪や牙を、蛇は身を守る鱗や毒を」
アージェンは黙って聞いている。
「狼は…駆けて獲物をとるための四つ足を」
そこまで言い、リディはおもむろにベッドから上掛けを引っ張り、アージェンの体に巻き付ける。図らずも抱き締めたような格好になり、アージェンも不意をつかれた表情をした。
「添い寝じゃなくて、さっきの続きか?」
「…ばかっ…違うってば。コンチェッタが…」
その時、勢いよく部屋のドアが開き、香水の匂いがふわっと室内に流れ込んできた。
「リディ!!」
舞台にいるような通る声で叫び、入口に立っているのは、ひらひらとした薄ピンクのワンピースを着て、紫がかった長い黒髪をゆったりと三つ編みにした、リディと同じ年頃の少女だ。漆黒の大きなタレ気味の目はうさぎのように真っ赤だ。
「コンチェッタ…」
その、場にそぐわない格好と雰囲気にリディの頬がひきつったが、そんなことは全く気にせず、コンチェッタは悲劇のヒロインさながら大袈裟な身振りで入室してきた。
「リディ、怪我は無い?!夜中に騒がしくて目を覚ましたらアンリが来てたからびっくりしたわ!野犬が出たんだって?」
ねえ、とコンチェッタが振り向いた先にアメデオは立っており、困った表情で癖のあるやや長めの黒髪を手で撫で付けている。二人並ぶと、父娘だというのが一目瞭然だ。
この、10代の少女特有の勢いに辟易した表情をしながら、ジェルヴェも部屋に入ってきた。手には、着替えらしき洋服を持っている。
「ジェルヴェ、騒がしくてすまんな」
「謝ることはない。俺も、コンチェッタが帰ってきていたのを忘れてたからな…。それより、あれは」
ジェルヴェがコンチェッタに聞こえないように声のトーンを落として話すと、この信頼のおける友人も、同じように小声になる。
「あの狼もどきは、うちの窯に放り込んだ。女は?」
問いを返されたジェルヴェも答えた。
「女は少し離れた場所に移して、石畳の血も流した。残った血痕も、裏路地だしそのうち雨で流れるだろう」
そうか、と頷いたアメデオに、アージェンは口元に笑みを浮かべて話しかけた。
「彼女は?」
「娘のコンチェッタだ。昨日中央州から帰ってきたばかりでな」
ああ、例の、とアージェンが会釈をすると、コンチェッタはきゃっと歓声を上げた。リディはやや困ったように肩をすくめ、はっと何か気づいた表情をした。
「今何時?」
「もうじき朝だ。常連の皆には申し訳ないが、今日は臨時休業にしようと思う。自分たちの食べる分はあるから、俺達とアンリ、アージェンで朝食だ」
そう言ってジェルヴェは首を回す。
「アメデオたちは?」
はい!と、ジェルヴェが聞くのを待っていたかのように、コンチェッタが勢いよく返事をした。
「いただきます!ジェルヴェさんのご飯大好き!!」
「美味すぎて、嫁が来なくなっちまったけどなあ。うちは逃げられたけど…」
「パパ、いい加減にママを迎えに行けば?ママは美人だから、誰かにとられちゃうかもよ?それで決闘なんていうのもロマンがあって良いけれど」
「なあに、それ?」
「中央州で今流行ってる演劇よ」
やれやれ、とその場にいる全員が溜め息をついたが、物騒な出来事のあとに必要以上にピリピリするよりは良いだろう。
「ああ、コンチェッタ。ちょっと先に食堂へ行っててくれ。アージェンを着替えさせてやりたい」
ジェルヴェが、さも今気づいたというように、コンチェッタへ声を掛けた。コンチェッタは素直に頷き部屋から出ようとして、くるりと振り向く。
「リディは?」
「俺の助手だ。あと、アメデオも手伝ってくれ」
リディも女子だけどなあ、と少し首を傾げながらも部屋から出るコンチェッタを見送り、ジェルヴェは静かに内側から鍵をかけた。