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第6章(1)

 気候は初夏の蒸し暑さに変わり、街には相変わらず警察が闊歩しているが、「宿屋にいる銀髪の青年」はすぐに街に馴染み、リディの知人すらアージェンへ先に挨拶するほどだ。

 アメデオはアージェンの素性を気にしていたが、実際にリディに対する彼の態度は見た目よりは真面目なもののようで、取り越し苦労だったなら、とむしろ上手くいくことを望み始めた。

 相変わらず食堂でアージェンを誘う女性客は多いが、彼は給仕係としてそつなくあしらうだけだ。


「そんなに愛想ばかり振り撒いて、あとで困ったことにならないの?」

 月明かりの中、誰もいない波止場の柵に寄りかかりながら、リディはアージェンに聞いてみる。ランタンは地面に置いたが、目が慣れてきたので、月の光でお互いの顔は充分に見えた。

「女が寄ってくる分には、俺は困らない」

 同じように柵にもたれてとぼけるように言うアージェンに対し、リディは口を尖らせたまま、足元に寝ているライオンのアンリを撫でる。

「大人しいな」

「アンリは元々、穏やかなのよ。以前出歩いていたときも、他の家畜に手を出すことは無かったし。家できちんとご飯をあげてるからかしら」

 鎖を外されたアンリは走り回るかと思いきや、静かに伸びをしてそのまま臥せて目を閉じた。そもそもライオンはかなりの時間を寝て過ごす、とリディはジェルヴェの妹であるシルヴィから教わっていたが、狩りの必要もないため今のようになったのだろうか。

「以前は、夜、人通りが少ない場所を選んでアンリの散歩によく出ていたの。でも、治安が悪くなったからって父さんに止められていたのよね」

「警官が増えたころか?」

「そうね。失踪とか、拐われるとか、変な噂が出たころ」

 しぶしぶ自粛していたところ、アージェンの同行を条件に、ここしばらくはまた夜道へ出られるようになったのである。

「お前は可愛いから、ジェルヴェの気持ちもよくわかるな。でも、俺でもいいのか?」

 アージェンは、誘惑するような笑みを浮かべる。

「どこかに拐っていくかもしれないぞ」

 覗きこまれてリディは赤くなったが、アージェンの言い方は明らかに面白がってる口調だ。

「そんなことすると、アンリに噛みつかれるわよ?」

 リディも軽口で応戦し、ねえ、とアンリを撫で回す。アンリはされるがままだが、機嫌は良さそうだ。図らずも人目を忍んだデートのようになったが、アンリと出掛けられる喜びのほうを全面に出すリディを、アージェンも微笑ましく見ている。


 夜の波止場には、何艘か漁船が停泊している。近海の漁が中心のこの地域は小舟が主だが、時折帆船も立ち寄り、その週には他国の珍しい食材が市場に並ぶのだ。リディが乗っていたのは、どこから来た船だったのだろうか。

「アンリは何歳だ?」

アージェンもアンリを撫でながら言う。アンリはもう、彼に撫でられても吠えたり嫌がったりも全くしない。野生から離れたとはいえ、獣の本能を信じ、ジェルヴェもアージェンに信頼を寄せている部分はあるだろう。

 アンリが喉を鳴らすさまは、まるで飼い猫のようだ。

「うーん、15歳以上ではあるわよね。シルヴィのだんなさんがこの子を初めて見たとき、すごく興味を持っていたわ」

 飼育下にいる獣はいくらか長命だろう、とジェルヴェは言う。しかし本来の生育環境とかけ離れた生活をしているわりに不自由さがないのも、アンリ特有の性質なのだろうか。

「私には何だっていいけどね。どんな子でも大事な家族」

 柵から体を離して伸びをするリディを、アージェンは優しく見つめた。


 肩が半分出るほどゆったりした白いシャツは、レースやフリルが全く無い男物で、ジェルヴェのお下がりのようだ。ショートパンツも、男の子が履くものをウエストで無理やり絞っている。動きやすさ重視で選んでいるらしいが、同じ年頃の娘がするような着飾った服装より、宿屋の仕事を楽しんでいるリディに活動的な格好はとても似合っていた。揺れる茶色の髪に、アージェンは指を絡める。

「美人だな」

「なあに、突然」

 リディは照れながらも嬉しそうだ。

「ジェルヴェには似てない。顔も、髪も」

「当たり前でしょう?でも、父さんも男前よ。モテるんだから」

「だろうな」

 くくっ、とアージェンは笑った。食堂に来る女性客は、ジェルヴェ目当ても勿論多い。ただ、それに気づかないジェルヴェがまた面白い、とアメデオも笑っていた。

 リディは、養い親とは勿論外見は似ていない上に、肩より長い明るい茶色の髪も、青みがかった大きな目も、アージェンほどではないが黒髪が多いこの地域ではそれなりに人目をひく。しかし、リディに接する者達は出自もわからない彼女に愛情を注いできた。

 アージェンのような外貌に特徴を持つ者や、獣にすら分け隔てなく接するリディの気質はおそらく生来のものであり、それがジェルヴェにより温かく育まれたのは幸運だったろう。

「お前みたいなやつが、俺の村にいたら良かったのかもな」

 柵から一歩離れ、夜空を見上げながらアージェンは呟いた。リディにその声は聞き取れなかったのか、大きい目を見開いて歩き回りながら楽しそうに星を数えている。

「リディ」

 月を映し碧色に近くなったリディの目を見ながら、アージェンは静かに名前を呼んだ。なに?と、無邪気な様子で近づいてきたその頬を、彼の両手のひらが優しく包む。

 夜、たまに彼の部屋で二人きりになるとき、こうして誰もいない夜道で行動を共にするとき、不意に見つめあうことがあった。リディも、異性に淡い恋心を抱いたことはあるが、それとは異なり、アージェンと目が合うと胸がざわつき、熱くなる。

 今、彼に触れられたリディは、緊張した面持ちでされるがままにじっとしていたが、アージェンはそのままゆっくりと顔を寄せ、リディの小振りな唇に、かろうじて触れるくらいのとても短いキスをした。

 ほんの一瞬、初めて異性とキスをしたリディの体はかすかに震えた。数秒、いや、数十秒ほど声も出せず、やっと目の前にいる彼の名前を形作ったリディの赤い唇に、再びアージェンは口づける。

 二度、三度、ついばむような優しいキスを、リディも目を閉じて受け入れる。すると、アージェンはおもむろにリディの唇を食むように開かせ、そのまま舌を絡ませてきた。逞しい右腕でリディの頭を引き寄せながら、左腕でシャツの裾を捲りあげ華奢な腰を抱く。

 突然の執拗なキスと強引な抱擁に、リディは息を荒くした。考える間もなく体が反応する。

 覆い被さるように密着してくる厚い胸元から自分に伝わるのは、アージェンの心臓の音だろうか。普段感情を露にしない彼の鼓動を肌で感じ、リディは吐息を漏らしながらアージェンの体に腕を回す。

   

ふと、リディの左腕がアージェンの右脇腹に触れた。

 衣服と何かが擦れる感触がほんのわずかリディに伝わり、思わずリディは連想された単語を口走った。

 蛇、と。

 それを聞いた、アージェンの体が強ばった。

「…あ」

 リディが呟いた時はすでに、アージェンは唇を離していた。そして、自分の体にふれているリディの腕に手をかけ、ゆっくり下ろす。

「蛇か」

 静かに呟いたアージェンの、表情が読み取れない顔を見て、リディは泣きそうになった。ごめんなさい、と謝った。何故か、謝らなければならない気がしたのだ。

 それには答えず、アージェンはゆっくりと歩きだす。静かに一部始終を見守っていたアンリが、すっと体を起こしてリディを促すと、頭上で鷲の羽音が聞こえる。

 月は、すでに雲で隠れていた。


 ::::::::::::


 1日の仕事を終えたアメデオが、いつものようにジェルヴェの店へ食事をしにきた。白身魚のフライを食べながら、カウンター下に臥せているアンリを撫でる。

「今日も、行かないのか?アンリが不満そうだぞ」

 アメデオは声を掛けたが、リディは事務的な会釈をしたあと、客が減り始めたのを見計らい、さっさと自室にこもってしまった。

 あれから数日、リディは夜の散歩には出ていない。市場への買い物も、アメデオや他の常連客に同行を頼んでいる。何故なら、アージェンが「用事がある」と昼間はどこかへ行ってしまうからだ。そして、夜は同じ場所にいながらも、以前のような親密な雰囲気はない。

「なんか、あったな。痴情のもつれか」

「良い雰囲気だったがなあ」

あっち(・・・)が合わなかったんじゃない?」

「なに?今なら狙い目ってこと?」

 リディを心配する男性客と、アージェンに色目を使う女性客の好き勝手な憶測が下世話に飛び交う店では、二人は必要以上の会話をせず、傍目にもよそよそしい。そして、店主でリディの父でもあるジェルヴェは、調理に集中しているといった雰囲気を無理矢理作り何も喋らない。

「喋らないんじゃなくて、喋れないんだな。リディから何も聞けないんだろう?」

「うるせえな」

 アメデオは同情するような表情をしながら今日もカウンターで手酌をしており、その横にアージェンが伝票を片手に来た。

「ジェルヴェ、料理の追加を」

 アージェンは淡々と仕事をこなすが、女性客に向ける愛想笑いが空々しい。苛ついてる訳でも動揺しているわけでもない様子が、なおのこと二人の関係の複雑さを想起させた。

「ご主人」

 ジェルヴェが溜め息をついていると、目の前に大柄な男が立つ。

「勘定をたのむ」

 警察の制服から財布を取り出しながら、男はジェルヴェに意味ありげに言った。

「なんなら、何か罪状を作ってしょっぴいて行きましょうか?」

 そのにやけた顔をした若い警官は、以前からリディに好意を寄せている奴だ。金を受け取りながら、ジェルヴェは何のことかわからないと知らぬふりをすると、警官はしぶしぶ出ていった。

「ああいう職は誰でもいいわけじゃないのにな」

 ああ、とジェルヴェもアメデオに同意した。

「とにかく、変に周りが騒ぎ立てないうちに話を聞くべきか…」

 ジェルヴェは悩み、こういう時に妹のシルヴィがいたら、と思わずにいられなかった。


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