第1章
薄汚れた壁には、1枚の地図が貼られていた。
この海に囲まれた国が、いったいどのくらい広いのか。
海があることさえ知らなかった少年には、皆目見当もつかなかった。
ただ、歩き続けていれば、いつかどこかに辿り着けると思っていた。
「ねえ、これは何?」
細い指を青年の右肩に滑らせ、いかにも身体を売る仕事を常としている風情の女が言う。ざらざらと指先をつたう違和感が不快感へと変わる直前に、青年は女の指を優しく握り、自分の肌から離した。
「子どもの頃からあるんだ。病気じゃないから安心していい」
そう言うと、青年は女の身体を愛撫し始めた。暗い部屋の床に、日の光がわずか一筋落ちている。小さな採光窓にわざわざカーテンがかけられているのは、昼夜逆転の仕事をしているからだ。
簡素なベッドは光を避けるように配置されており、その上に横たわるのは裸の男女だ。青年の、形のよい薄い唇から漏れでる吐息は豊かな胸をくすぐり、細い舌先が腹をなぞると女は身をよじった。
「…ケガ?やけど?」
呼吸を乱しながら尚も聞く女を見下ろしながら、青年は苦笑した。
「気が散るなら、このまま帰るよ。金は返す」
そう言うやいなや身体を起こし、無造作に上着を羽織った青年を、女はうらめしそうに見た。
「そんなつもりで言ったんじゃないわ。ただ…」
「細かいことは聞かないのが、この仕事の礼儀だろう?」
銀色の長髪からのぞく切れ長の目が、女をちらと見返す。無駄の無い動きで衣服を身につけて、いかにも旅行者が持つような背嚢を肩に担いで青年はドアに向かう。ガチャン、と、硬質な音が、青年が歩く度に鳴った。
「それは?」
「質問が多いな。本当に、この商売に向いてないんじゃないのか?」
床に落ちた上掛けを女に投げてやり、腰に下げた鞄から札を取り出した。
「…あなたは、若いのに慣れてるのね」
女はしぶしぶ、先ほど自分が渡した札を受け取る。自分が客を取る時は、相手が萎えて不発に終わったとしても金など返さないが、逆の状況で金を返して貰えるなら、受け取らない理由はない。
「まあな。10年位、これで生きてるからな」
10年、と女は呟いた。20代半ばの女は、商売を始めて5年ほどだが、10年前にはこんな仕事をすることになるとは想像もしていなかった。
「ひょっとして、見た目よりずっと年上なの?」
「いや、同じ位だろう。ちょうど中央の州が独立した頃の生まれだ」
女は、青年の視線の先にある地図を見る。客を取る専門の宿は別にあり、この部屋は女の住居だ。普段は男など買わないが、朝方、たまたま常宿から帰宅する途中に青年と会い、一目で気に入り、そのまま部屋に引き入れた。
いつから貼られていたのかわからない地図は、まだ中央の州が隣の州と一緒だった頃のものだ。
ここは東の州の外れの歓楽街で、中央の州との境界からは離れているため住人はあまり国政に関心はないようだが、この部屋を借りるときに、この地図は中央州改革の直前の発刊で、珍しいものだと大家が教えてくれたのだ。
女は、上掛けを羽織ると青年のほうへ歩みより、地図とその横顔を交互に見る。
地図を眺める青年の整った顔立ちは、色の白さとあいまって女性のようにも見える。銀色の長髪は角度により白くも黒くも見えるが、染めているのだろうか。先ほど触れた肌と青年の容姿、そして自分を愛撫した舌先を思い起こし、何かに似ている、と考える。
「…蛇」
そうだ、田舎の山でよく見た蛇だ、と女は思った。しなやかに獲物を狙う蛇の姿は、子どもにとって恐ろしくも魅惑的なものだった。
青年は、再び女の方を見た。一瞬、その目が光を反射して明るく光ったように見えたが、女は特に気には止めなかった。幼い頃の記憶に思いを馳せ、あどけない表情で口元を緩めた女の様子に青年は苦笑し、不意に唇を重ねて舌をねじいれた。
蛇のようだ、と女が形容した舌先が、獲物を狙うようにその口を奥まで執拗に貪り、やがて唾液を絡ませたまま離れる。喘ぐ暇すら与えられなかった女は、息を荒くしてその場に座り込んだ。
「余計なことを気軽に口にするやつも、この商売には向いてないぞ」
恍惚とした表情のまま自分を見上げる女を一瞥し、青年はドアを開けた。外は日が上りきっているようで、通りからは猫の声すら聞こえない。
そして彼は、誰もいない明るい歓楽街へと消えていった。