少女と猫の特別な夜
炎から逃れるように、エルとヨヨは寒空の下を走って、走って、走って、走った。
どれだけ走ったか、わからない。
振り返ったら、森が真っ赤に染まっていた。炎がモーリッツの家から燃え広がっているのだろう。
まだ、先へと逃げたほうがいい。
エルは重たくなった体を引きずるように、先へと進んだ。
途中で川を発見し、ヨヨに水を飲んだほうがいいと言われる。
「はあ、はあ、はあ、はあ……!」
走り続けたので、なかなか息が整わない。膝はガクガクで、暑いのに寒いというよくわからない感覚に苛まれる。
灰を吸い込んだからか、喉もイガイガしていた。げほげほと、激しく咳き込んでしまう。
『エル、水を飲んで。喉もよくなるから』
ふいに、エルは村に流れていた濁った水を思い出す。とても川の水を飲む気にはなれなかった。流れる川をしばしじっと眺めていたが、首を横に振る。
「川の水は、無理。水質がどんなものか、わからないし」
『そっか。暗いと、水がきれいかもわからないよね』
「うん」
基本、生活水はモーリッツが作った、井戸から汲んだ水しか口にしていない。
二十年前に作られたモーリッツ式井戸と呼ばれる水源は、底に魔法陣があって呪文が刻まれているバケツを落とすと、呪文と魔法陣が摩擦状態となり魔法が発動する。
瞬く間に、バケツの中に新鮮な水が作られるという仕組みだった。
森を流れる川は、たまに魚の罠を仕掛けに行くくらいで、洗濯水にも使っていなかった。
そのため、川の生水を飲むというのは、なかなか勇気がいる行為なのだ。
「水は、魔石を使って飲むから」
『そうだ。魔石があったね』
エルは魔法鞄の中から木の器と、水の魔石を取り出す。
魔石の表面にある呪文を指先で擦り、器の中へと滑らせた。すると、魔石に刻まれた魔法が発動し、器の中は水で満たされる。
エルはごくごくと水を一気飲みする。すべて飲み干しても、喉の渇きは癒やされなかった。
結局、三杯の水を飲んだ。
『エル、落ち着いた?』
「うん」
『今日は、どうする?』
エルは背後を振り返る。遠くにうっすらと、夜闇の中に炎の赤が差し込んでいた。
もう、これだけ離れたら、大丈夫だろう。火の手はここまで追ってはこない。
「ここで、一晩明かす。もう、くたくた」
『そのほうがいいね』
さっそく、野宿の準備を行う。
まず、魔物除けの結界を作った。魔法鞄の中からモーリッツから譲り受けた、先端に水晶が付いたクリスタルロッドを取り出して魔法陣を描く。エルとヨヨが身を縮めて寝転がれるほどの、小さな結界である。四方に火魔石を置いて、結界の中を温める。
『ああ~、温かい』
「そうだね」
ヨヨがいたおかげで、エルは救われた。彼が起こしてくれなかったら、今頃火の海の中で溺れ死んでいただろう。
「ヨヨ、ありがとう」
『何が?』
「燃える家の中で、私を起こしてくれたでしょう?」
『ああ、それね』
「でも、ヨヨはどうして気づいたの?」
妖精であるヨヨも、人と同じように睡眠を取る。しかし、人とは違うものを感じて、目覚めたらしい。
『人の恨みと悪意を感じたからね。妖精は、そういう悪い感情に敏感なんだ』
「そっか」
もう、何もする気にならない。エルは魔法陣の上に綿入りの敷物を広げ、横になる。隣にヨヨも寝転がった。頭から毛布を被って、目を閉じた。
すぐに眠りたい。けれども、炎に包まれた森を思い出してしまい眠れなかった。
『エル、眠れないの?』
「うん。目を閉じると、炎に包まれた森が見える」
ここまで走ってきたので、疲れている。すぐに眠りたいのに、眠れない。
こういうことは、生まれて初めてだった。
燃えるモーリッツの家に、怒号をぶつける村人。
生まれて初めて受けた、強烈なできごとだった。
「わたし、どうして嫌われているんだろう?」
『モーリッツとフーゴのせいだから、気にしなくてもいいよ』
「そう、かな?」
『そうだよ。気にする必要はまったくない。それに、僕はエルのことだいすきだから』
「え?」
『え? ってなんだよ』
「だって、ヨヨはモーリッツに頼まれたから、わたしと一緒にいるのでしょう?」
『そうだけれど、それだけでずっと一緒にいる義理はないよ。エルと一緒にいたいと思うのは、あくまで僕の強い意志』
「そうだったんだ。嬉しい」
ぎゅっと、ヨヨの体を抱きしめる。いつもは抱きしめると嫌がるが、今日は許してくれた。
「ヨヨは、いつモーリッツに出会ったの?」
『森の中で、服にキノコを生やした状態のモーリッツを発見した時?』
「服にキノコ? 何それ?」
『僕も、キノコを生やしている人間を初めて見たからさ。しかも、毒キノコだった』
毒キノコを生やすモーリッツを想像すると、笑えてくる。今まで暗い気分のまま、底なし沼に沈むように落ち込んでいた。それなのに、くすりと笑ってしまう。
『死体かと思っていたからさ、見なかった振りをしようって素通りしかけたら、モーリッツに尻尾を摑まれて──』
私を今すぐ助けろと、脅されたらしい。
『森の中に誰も住んでいない木こり小屋があったから、案内したんだ。それで終わりだと思いきや、あれやこれやと注文つけてきてさ。気づいたら何十年も一緒にいたんだ』
「先生とヨヨは、そんなに前からこの森に住んでいたんだ」
『まあね』
モーリッツはヨヨに主従契約を持ちかけたが、すぐに断ったらしい。
『あの性悪モーリッツと契約するなんて、ゾッとするね。彼の魔法や知識は尊敬に値するけれどさ』
妖精は魔法使いと契約を交わすと、魔力の恩恵を受けることができる。自分で集めなくても、自動的に供給されるのだ。
ただし、一度契約してしまうと、生涯を共にすることとなる。
契約者が死んだら、妖精も死んでしまうのだ。
『モーリッツと契約したら、僕も死んでいたね』
「契約していなくて、本当によかった」
『そうだね。でも、エルとだったら、契約してあげてもいいよ』
「ヨヨ、本気?」
『本気さ』
ヨヨと契約したら、今以上に深い関係になれる。
普段からぎゅっと抱きしめても、嫌がらないかもしれない。
けれど──。
「私が死んだらヨヨも死んじゃうからイヤ」
『エルが死んだら、寂しくて死んじゃうよ。それならいっそ、一緒に死んだほうがいい』
「ヨヨ、それって本当?」
『僕が噓を吐いたことある?』
「ない」
ならば、契約を結んだほうがいいのか。エルは悩む。
『じゃあ、言い方を変えようか。エル、僕と契約して。お願い!』
「どうしても、わたしと契約したい?」
『したい!』
だったら、仕方がない。エルは、ヨヨに契約を持ちかける。
「では、契約するよ」
『うん、お願い』
「……」
『……』
「ヨヨ、契約って、どうするの?」
『知らなかったんかい!』
「知らなかった」
ごくごくシンプルな契約をヨヨは伝授してくれる。
『エルの血を、舐めさせて』
「それだけでいいの? 呪文は?」
『いらない。血の中に、エルについてのすべての情報があるから』
契約に必要なのは、契約者の血と妖精と契約したいと望む心。それだけで、主従の契約は完了する。
エルは起き上がり、魔法鞄の中からナイフを取り出した。
しばしの躊躇いのあと、指先にナイフを突き刺す。
柔らかな皮膚は傷つけられ、ポツリと珠のような血が浮かび出る。
「ヨヨ」
『うん、ありがとう』
差し出した指先を、ヨヨが舐める。すると、エルとヨヨの間に魔法陣が生まれた。
白く発光したあと、パチンと音を立てて弾けた。
これで、主従契約は完了らしい。
『エル、どう?』
「よく、わからない」
『そうなんだ。僕のほうは、すごいよ。エルの魔力が流れ込んできて──』
「ヨヨ、どうかしたの?」
『ううん、なんでもない』
こうして、エルとヨヨは生涯を共に過ごすパートナーとなった。
その絆は、何があっても壊れることはない。
「ヨヨ、改めてだけれど、よろしくね」
『うん、よろしく』
それから、身を寄せあっているうちに、エルは眠ってしまった。
慌ただしく大変な一日は、静かに幕を閉じる。