少女はダークエルフと契約する
共同生活を送るにあたって、決まりごとを作る。
「何か、絶対に守ってほしいこととかある?」
「いや、あんまりそういうのはないけれど……」
「けれど?」
「あんたの名前くらいは聞いておきたい。ずっと、お嬢ちゃんなんて呼ぶわけにもいかないだろう?」
「あ!」
名乗っていなかったことを、すっかり失念していた。
「どうしてもというわけではない」
イングリットのことは信用してもいいだろう。初対面の相手に名乗ってはいけないと教えられたが、エルはイングリットには教えてもいいと思った。
「まあ、偽名でもいいが」
「大丈夫。私はエル。エル・ハルツハイル」
「呼び方は、エル、でいいか?」
「うん、いいよ。あなたは、イングリットさん?」
「いいや、呼び捨てでいい。さん付けされると、くすぐったくなるから」
「わかった。イングリット、これからよろしく」
「エル、よろしくな!」
これで、めでたく下宿先が始まる──わけではなかった。
「契約書作って」
「いいよ、めんどくさい」
「ダメ。こういうのは、きちんとしなくては」
エルは魔法鞄の中から、羊皮紙と羽ペン、インク壺を取り出す。そして、イングリットに契約書を書かせた。
「契約書って、何を書くんだ?」
「家の中の設備使用についてと、解約、退去についての決まりと、違約金についてと」
「そんな細かく決めなくてもいいって」
「ダメ! こういう契約書を交わしておかないと、損するのはイングリットだから!」
「私のために、そこまでしてくれるなんて、エルはいい人だ」
「いい人じゃない。あとで、いろいろ揉めたくないだけ」
「そうか……。そうだよなあ」
イングリットはこたつの中でぐったりしながら、契約書を渋々といった様子で書いていく。
一時間ほどかけて、ようやく完成した。
「エル、これでいいか?」
「まあ、うん、いいかな」
エルは自分で書くことを指示した契約書の内容を読み直し、署名した。これで、二人の間で契約が結ばれる。
「エルは、いったい何をしに王都に来たんだ?」
「父を、捜しに」
「たった一人で?」
「そう。保護者が、死んでしまったから」
「そうか。大変だったな。まだ、十二、三くらいだろう? 私が王都に来た年よりも、ずっと若いし」
「うん」
「まあ、私もできる限り協力してやるから。悪いことをしようと近づく奴は、ぶっとばす。ここに滞在している限り、エルのことは守ってやるから」
イングリットはそう言って、エルの頭をぐりぐりと撫でた。
その撫で方は、どこかフーゴがエルを撫でる時の無骨な手に似ていた。そう気づいた瞬間、エルの眦からポロポロと涙が零れる。
「え、うわっ!! エル、どうしたんだ!?」
聞かれても、答えることができない。ただただ、涙が溢れて困っているとしか言いようがなかった。
どうしたらいいのか、あたふたしているイングリットに、ヨヨが近づいて話しかける。
『エルはきっと、ホッとしたから泣いちゃったんだ。今まで、頼れる大人がいなかったから』
「そうか。いや、そうだよな。私だって、ジェラルドが一緒でも、王都に来る時は怖かったから、エルはもっともっと怖かっただろう」
肩を震わせて泣きじゃくるエルに、イングリットは優しく声をかけた。
「夕食は、食べたか?」
「た、食べた」
「だったら、今日はゆっくり眠るといい。特別に、今日は私の寝台を貸してあげよう」
イングリットは優しくエルの手を引き、立ち上がらせる。
寝室へと移動したが、イングリットの寝室は一階の部屋以上に雑然としていた。
それは、エルの涙が引っ込んでしまうレベルだった。
寝室は寝台があるばかりなのに、研究道具が持ち込まれていた。
木箱や本が積み上げられ、丸められた羊皮紙がいくつも転がっている。足の踏み場はない。加えて、寝台の上までいろいろと睡眠に不必要な物が置かれていた。
「ここ……汚い」
「そうか?」
「掃除しないと、眠れない」
エルはそう呟き、イングリットが返事をする前に掃除を始めた。
魔法鞄に入れていた木箱を取り出し、どんどん物を詰めていく。
「あ、私も手伝う──」
「イングリットは動かないで、そこにいて!」
「はい」
床の上の物がなくなると、エルは箒を取り出して掃き始める。次に、床をぬれ雑巾で拭き、布団は窓にかけて埃を払った。本当は力いっぱい叩きたかったが、夜なので自粛した。
一時間ほどで、寝室はきれいになった。
「おお、すごいな」
「すごくない。毎日掃除していたら、こんなことにならないのに」
「いや、まあ、すまない」
布団、シーツ、枕も洗った記憶がないというので、エルが魔石を使って素早く洗った。
「この寝台、二人くらいだったら眠れる」
「そうか? 狭くないか?」
「大丈夫」
「だったら、二人で眠るか」
そのまま寝台に足をかけようとしたイングリットの腕を、エルはむんずと掴んだ。
「まだ、何かあるのか?」
「お風呂は?」
「昨日の夕方入ったが」
「毎日入らないと、ダメ! 特に、外に出かけた時は、汚れているから」
「まあ……そうだな」
家に風呂はないというので、台所で入ることにした。
エルが家から持ってきた大型の桶に湯を作る。
「あの、これ、小さくないか?」
「いいから、服を脱いで入って」
「お、おう」




