少女は決意を固め、氷山を──
「な、なんてことだ……!」
「あ、あんなに近くに、氷山が……!」
航海士らは呆然としている。眼鏡をかけた若い航海士だけが振り返り、エルに詰めよってきた。
「おい、お前!! あれは、お前が魔法で見せた、デタラメの幻なんかじゃないのか!?」
エルの外套に手を伸ばす。胸倉を掴まれると思ったが、船員が間に入って守ってくれた。
「デタラメなんかじゃありません! きちんと、望遠鏡で確認してください」
「しかし、あんな大きな氷山に、気づかないわけ──」
「おい、その船員の言う通りだ。しっかり見てみろ!」
「確かに、氷山があるぞ!」
暴走しかけた眼鏡をかけた航海士を止めたのは、同じ航海士だった。
「航海士は、己の目で見たものだけを信じ、船を導く仕事だ!! お前の目は、節穴なのか!?」
「……」
「急げ! 船長に報告だ!」
氷山を避けるために船員が動き始める。今から回避行動を始めても間に合うか、わからない。
今はただただ、祈るしかなかった。
乗客も、氷山に気づき始める。
小型船で避難させてくれと懇願する者や、混乱状態となり叫ぶもの、迷子になった我が子を捜す者と、甲板は騒がしい。
エルとヨヨは騒ぎに巻き込まれないよう、樽の陰に身を隠す。
進行方向を逸らすために、船員が帆を下ろしている。
氷山に近づくにつれ、流氷が増えているようだ、進むごとにごつごつとぶつかり、船に大なり小なりの衝撃を与えている。
一回目よりも大きな流氷にぶつかり、船が傾く。海水が甲板まで跳ね上がり、乗客の体を濡らしていた。
船員は乗客に部屋で待機するように指示していたが、その声も届かないほどの大騒ぎとなっていた。
「シャーロットは大丈夫かな」
『お父さんとお兄さんがいるから、大丈夫だよ、きっと』
「うん、そうだよね」
進行方向にあった氷山だったが、だんだんと逸れていく。方向転換がうまくいっているのだろう。
事態はいい方向へと進んでいる。それなのに、乗客の精神状態も悪化していた。
僅かな変化に気づく余裕がないのだろう。
悲観した結果、反対側の海に飛び込もうとした老紳士を、船員が引き止める。
流氷が浮かぶ海に身を投げるなど、自殺行為だ。
船員は乗客にも、目を光らせていた。
「危ないっ!」
船員の声を聞いた瞬間、船が大きく傾いた。ドーン! と大きな音を立て、氷山がある方向へ傾く。
再び、大きな流氷にぶつかってしまった。
さらに、風の向きも変わった。追い風から、横凪ぎの風に変わってしまう。そのせいで進行方向がもとに戻った。
船は氷山に向かって進み始める。
どんどん、どんどん船は加速する。
風の力を受けて、速度を上げていっていた。
「うわああああああ!」
「きゃああああああ!」
もう、氷山は目の前に迫っていた。
『ええ~~、なんで!?』
「もう、船の操縦では間に合わない!」
エルは瞬時に覚悟を決め、嵐の魔石を取り出した。
『エ、エル、そ、それは』
「船の向きを変えるには、これしかない」
『でも、失敗したら』
「あとは氷山にぶつかって死ぬだけ!」
エルは魔石の表面にある呪文を指先で擦り、氷山に向かって嵐の魔石を投げた。
氷山の前に嵐が巻き起こり、船体を大きく揺らす。
「ううっ!」
『ぎゃあ!』
エルは船の縁に捕まり、激しい揺れに耐える。船体は右に、左にと大きく揺れていた。
船が進みたい方向とは逆に回り込み、今度は風の魔石をいくつも投げた。
船は嵐と風を受け、方向を変えていく。
今度は船尾に回って、風の魔石を投げる。人工的に追い風を作った。
船は少しずつ、方向を変えていった。
氷山を除け、何もないほうへと進んでいく。
エルは風の魔石を投げ、追い風を作り続けた。
そして──船は氷山の横を通過する。
何時間、奔走していたかわからない。けれど、空が白み始めていた。
船尾をぼんやり眺めていると、地平線から太陽の光が差し込み始める。
甲板の中心部からは、乗客の歓声が聞こえた。
船長と航海士を絶賛する声も聞こえる。
エルはヨヨと共に、歓声を耳にしていた。
「よかった。本当に、よかった」
『君が、この船を救ったんだ』
「うん」
ただ、エルが救ったことは、ヨヨしか知らない。
そんなことなど、今のエルにとってはどうでもよかった。
エルはヨロヨロとよろけながら部屋に戻り、布団の上に倒れ込む。
船が港に到着するまで、眠ってしまった。
◇◇◇
三日目、船は王都近くの港に到着した。
船から下りてきたエルを、駆けてきたシャーロットが抱きしめる。
「エル! よかった! 無事だったのね!」
「シャーロットも」
「ええ。わたくしは平気よ。でも、あなたはずっと一人だったでしょう?」
「ううん、ヨヨがいたから」
エルの足元で、ヨヨが『みゃーご』と猫の鳴きまねをする。
「大変な目に遭ったわね」
「本当に」
「わたくし、もうダメかと思ったわ」
「わたしも」
けれど、なんとか助かった。魔石を大量に消費してしまったが、命には代えられない。
たくさん作っていてよかったと、心から思った。
「エルは、王都に行くのよね? わたくし達と、一緒に行かない? 使用人がお母様と一緒に、馬車で迎えに来ているの」
「わたしは、いい、かな」
「どうして?」
家族水入らずの中に入るのは、悪い気がした。シャーロットは気にしなくてもいいと言ったが、エルには耐えきれないだろう。
「家族がいるシャーロットが羨ましくなるから」
「そ、そう。ごめんなさいね」
「ううん。わたしこそ、ごめんなさい。せっかく、誘ってくれたのに」
仲良くしてくれてありがとう。エルはシャーロットに深々と頭を下げた。
「エル……王都でも、逢えるわよね?」
「どうかな?」
王都に父フーゴがいないのならば、他の場所を捜しに行くだろう。ずっと、居続けるかはエルにもわからない。
「わたくし、王都にタウンハウスがあるの。社交期の間は、ずっといるから。シャモワ通りの三番地。緑色の屋根に赤煉瓦の家よ。シャーロットの友達と言ったら、わたくしの部屋に通してくれるよう頼んでおくから」
「友達?」
「ええ。わたくしとエルは、お友達よ」
シャーロットは、エルの友達だった。その言葉は、胸にじんと響く。
「王都を出る時は、ぜったいにわたくしの家に立ち寄って。そうでなくても、困ったことがあったら、わたくしを頼っていいから」
「ありがとう」
「絶対よ」
「うん、絶対」
手と手を握り、シャーロットと約束を交わす。
「今度こそ、一緒にパンを買いにいきましょう」
「行こう。おいしいパン屋を、探しておくから」
「楽しみにしているわ」
その会話を最後に、エルはシャーロットと別れる。
『エル、よかったの? 一緒の馬車に乗ったら、王都はすぐだったのに』
「うん。でも、港町でも父さんについて調べたいから」
『そっか』
フーゴ捜しの旅への一歩を踏み出そうとした瞬間、再び声をかけられた。
「お嬢ちゃん!」
振り返った先にいたのは、エルに手を貸してくれた船員と、眼鏡をかけた若い航海士だった。
「よかった。怪我もなく、無事で」
「あなたこそ」
混乱する船内で、人に押されて転倒したり、海水で濡れた床で滑って床にぶつかったりと、怪我人が五十名以上いたらしい。船員はエルの無事を喜んでいた。
航海士のほうは、ぶすっとした様子で話しかけてくる。
「その、悪かったなと」
「え?」
「氷山があると言っていたのに、信じなくて、悪かった」
「ああ」
もう、終わったことだ。気にしていない。そう返したのに、航海士の機嫌はよくならない。
「借りは返す。覚えておけ」
「はあ」
一方的に言って、航海士は去って行った。
「素直じゃなくて、申し訳ない」
「あなたは悪くないよ」
「はは。お嬢ちゃんのほうが大人だ」
船員はエルに聞いて欲しい決意があるという。
「何?」
「俺、航海士になろうと思って」
船員は幼いころ、航海士になることを夢見ていたらしい。しかし、資格取得のための金どころか、学ぶ時間すらないので諦めていたという。
「改めて、航海士が働く様子を見て、俺も航海士になりたいって思ったんだ」
「そっか」
「頑張るから」
「うん」
最後に握手を交わし、船員と別れる。
今度こそ、フーゴを捜す旅の始まりだ。エルはヨヨと共に、歩み始めた。




