少女と猫のささやかなる日常
エルはモーリッツが魔法の力で掘った坑道で、魔鉱石を採掘していた。
もちろん、一人ではない。
モーリッツと共に生活する猫の妖精、ヨヨが一緒である。
彼はいつも、エルを心配してついてきてくれるのだ。
そんなヨヨは、エルの周囲をウロウロしながら声をかけてくる。
『エル、もう暗くなるから帰ろうよお。狼がでるよ。ここ、空気が悪いし、長時間いないほうがいいって』
「うん、あと少し」
『それ、さっきも聞いたよ~』
ヨヨは小山猫と呼ばれる妖精で、家猫より一回り大きい。
世にも珍しい小山猫の特徴は、丸い耳に額に通る白と黒のしま模様があり、首から背中は斑点模様。しま模様の尻尾は太く手足は短い。むくむく太っているように見えるが、ほとんどは毛である。
「ヨヨは先に帰って。わたしはもう少しだけ」
『ええ~、やだよ~、一緒に帰ろうよ~』
「だったらもう少し待って」
魔鉱石の発掘作業は、繊細な作業である。
特別な魔石灯で岩肌を照らし、キラリと光る場所に魔鉱石があるのだ。
発見したら、力を付与させた金槌で叩いて魔鉱石を発掘する。
魔鉱石を入れるのは、モーリッツから譲ってもらった仕事鞄である。一見して、ごくごく普通の革の肩掛け鞄にしか見えない。
しかし、これは空間魔法がかけられた『魔法の鞄』なのだ。
無限に荷物が詰められるというわけではないが、荷馬車いっぱいに積めるような荷物は余裕で収納できる。
もちろん、重さを感じることはない。
エルの制作した魔石や貯金、魔法書などの秘密道具は、すべてこの魔法の鞄の中に詰まっていた。
「よし、これくらいでいいかな」
『帰る? 帰るでしょう?』
「うん、帰るよ」
『やったー!』
ヨヨは跳びはねながら、エルと共に家路に就いた。
帰宅後は、魔法で作った水で手洗いうがいをする。使う石鹸は、モーリッツに習った手作り石鹸である。森に自生している野薔薇の香りを封じ込めた、とっておきの一品だ。
ヨヨは毛足が長い猫なので、森から帰ってきたら手足をきれいに洗い、櫛でノミ取りを行う。
『エル、どう?』
「ノミ、ついてない」
『よかったー』
毛皮に付くノミを気にするヨヨ。繊細な妖精なのだ。
帰ったら最初に、モーリッツに声をかける。
「先生、ただいま」
「……」
エルが話しかけても、目を開いてチラリと視線を向けるばかりである。
すでに、モーリッツは弱りきっていて、喋ることができなくなっていた。
彼が持つ医学書を片っ端から読み漁った結果、わかったのは老衰であることだった。
食事もほとんど喉を通らず、日に日に弱っていくのを見守ることしかできない。
せっかく覚えた回復魔法も、まったく役に立たなかった。
「先生、わたし、今日も魔石を作ったの。炎の力を、付与した」
モーリッツはゆっくりと瞬きするのみ。それ以外、変化はない。ここから何かの感情を読み取ることは至難の業だ。
いつもモーリッツはエルの魔石を見て、すぐさま鑑定し、値段を付けた。
モーリッツは優しい師匠ではない。
はっきりと、「これは質が悪い。銅貨一枚ですら買い取れない」だの、「もっとマシな魔石を作れ」だの、辛辣な言葉ばかりエルに言っていた。
あまりにも厳しくて、涙を流す日もあった。
しかし、それらはエルの強さへ繋がるものでもあった。
今はもう、魔石を見ても鑑定してくれない。
自然と、涙が溢れてくる。
それは、モーリッツに怒られて流す涙よりも、悲しいものだった。
◇◇◇
エルは虚ろな目で、夕食の支度をする。
食事は薄く切ったパンと、野草のスープ、それから干し肉がひと欠片。
『ねえ、エル。君はもっとお肉を食べたほうがいいよ』
ヨヨがそう助言すると、エルは干し肉を示して見せた。
『そういうお肉じゃなくて、肉汁滴る新鮮なお肉!』
「食べたくない」
『もー!』
ヨヨが苦手な狩猟をして野ウサギを狩ってきても、エルは保存食にしてしまう。
モーリッツが食事を満足に取ることができなくなってから、エルはいつも粗食しか口にしない。
『モーリッツだけじゃなくて、君までしおしおになるからね』
「お父さんが帰ってくるまで、しおしおにはなれない」
『そうでしょう? だったら、骨付き肉にかぶりつくくらいの食欲を見せてほしいよ』
「今日は無理。これだけしか、食べられない」
『なんぎな人だ』
ヨヨの言うとおり、エルは難儀な部類の人間であった。生き方が、不器用なのだ。
人は、食べ物を食べなければ生きていけない。
分かっているからこそ、エルは食欲が失せていた。
モーリッツはもう、三日もまともに食事をしていない。
茶と水しか、口にしないのだ。
刻々と、モーリッツとの別れの時が迫っていることを感じていた。
それを考えたら、エルはすべてのことを放棄して、泣き出したくなる。
唯一の肉親である父フーゴは、一年も帰っていない。
心の拠り所だった師匠モーリッツは最期の時を迎えようとしている。
十二歳の少女が抱えるには、あまりにも辛い現実だ。
いつもの日課で、ヨヨと共に自宅に父親が帰っていないか見に行く。
誰もいない。
今日はフーゴから誕生日にもらったうさぎのぬいぐるみを、モーリッツの家に連れて帰る。
トボトボ歩いて帰っているうちに、太陽が沈んでいく。一日が終わろうとしていた。
森の木々の間に、陽光が差し込む。だんだん薄暗くなり、ついには真っ暗になった。
家の前に辿り着いた瞬間、違和感を覚えた。
ヨヨもハッとなる。
「先生!」
『モーリッツ!!』
空気中に溶け込んだモーリッツの魔力が、消えつつあった。
うさぎのぬいぐるみを放りだして寝室に駆けつけると、モーリッツはまだ生きていた。
モーリッツから授かった杖を掲げ、話しかける。
「先生、今、大魔法を使うから!」
リザレクション──回復魔法の最上位である。その力は、死者をも甦らせる強力な魔法であると云われている。エルはモーリッツのために使おうと、必死の思いで習得したのだ。
『エル、魔力の無駄だから止めるんだ!』
「でも!」
『モーリッツは、苦しいんだ。逝かせてやって』
「!」
生きることは、楽ではない。モーリッツは動かない体を忌まわしく思いながらも、必死に生きてきた。
それを止める権利は、エルにはない。
最後に、モーリッツは目を開く。視線の先にあるエルを見て、口の端がわずかに上がった。
あわく微笑んだように見える。
エルは布団の中にあった、モーリッツの手を握った。
その瞬間、モーリッツは掠れる声で囁く。
「エルネスティーネ。汝の、人生に、光……あれ」
その瞬間、モーリッツは儚くなった。
エルは泣き叫ぶ。ヨヨは深い溜息を吐いていた。
「先生! 先生! わたしを、一人にしないで!」
『エル、止めるんだ。ゆっくり、寝かせておいてあげて』
「でも! でも! 寂しい……」
エルがそう言うのと同時に、モーリッツの亡骸が光り輝く。
体全体が光の粒となって部屋の中に浮かぶ。
月明かりが差し込むだけの暗い部屋の中で、それは幻想的に輝いていた。
「こ、これは……!?」
『エル、窓を開けてあげて』
「え?」
『いいから早く!』
窓を開くと、モーリッツだった光の粒は外に流れていった。あとを追うように、エルは外に出た。
モーリッツだった光は、月を目指すかのように天へと上がっていく。
信じがたい光景だった。
『……奇跡だ!』
「ヨヨ、あれは、何?」
『精霊化だよ!』
「精霊化?」
『ああ。選ばれた人間は、精霊化する。天に昇って月の魔力を浴びて、また地上に降り立つんだ!』
「先生に、また会えるってこと?」
『あーうん。同じモーリッツではなくなるかもしれないけれど、会えるよ、きっと』
「そう、なんだ。また、先生に、会えるんだ……!」
エルの人生に、一筋の光が差し込む。それは紛れもない、希望でもあった。