少女と猫は太陽に黒い点を発見する
夕方、シャーロットがエルの部屋に侍女を連れてやってきた。
礼として、チョコレートを贈ってくれた。
「これが、チョコレート!」
本で読み、一度でいいから食べてみたいとエルは思っていたのだ。
王都へ出稼ぎに行くフーゴに、何度頼んだことか。かならず、忘れて帰ってくるので、今まで一度も食べたことがなかったのだ。
「シャーロット、ありがとう」
「チョコレートくらいで喜ぶなんて」
「本の中では、チョコレートはお姫様の食べ物だと書かれていたから」
「そうなの?」
シャーロットは侍女を振り返り、話を聞く。
「お嬢様、チョコレートは高価な菓子です。庶民には、なかなか手に入らないかと」
「知らなかったわ」
さっそく、チョコレートを囲んで茶会を開くことにした。
エルは魔石ポットで湯を沸かし、茶を淹れる。
「あら、あなた、便利な物を持っているのね」
「魔石ポットのこと?」
「ええ」
一段目に火の魔石を入れ、二段目に湯を入れて沸かす。シャーロットだけでなく、彼女の侍女も初めてみたようだ。
「どこに行ったら買えるの?」
「これは、わたしの先生が作ったものだから、どこにも売っていないのかも」
「そうなのね。製品化したら、売れそうね」
シャーロットの父親は地方に工場をいくつも持っているらしい。
今回の旅も、地方の領地を視察し、新しい工場を建設するための視察にきていたようだ。
「お兄様も行くからわたくしもついてきたけれど、つまらない旅だったわ。近くの村は廃れていて流行り病が蔓延しているから、早く帰ろうってお父様が」
どうやら出港時に聞いた領主一家とは、シャーロットの家族のことだったらしい。
「お兄様といったら、おかしいの。パンを買っていったら、自分もパンくらい買えるって部屋を飛び出していって──」
シャーロットは思い出し笑いを堪えつつ、兄の失敗を語る。
「お金も持たずにパンを買いに行って大撃沈。手ぶらで帰ってきたの。しょんぼりした様子で、お前ってすごいんだなって、初めてわたくしを認めたのよ」
「よかったね」
「あなたのおかげよ。ありがとう」
シャーロットはエルの手を握り、にっこりと微笑みかける。
同世代の少女と、このように触れ合ったことがないので、どういう反応をしていいのかわからなかった。
ただ、イヤではない。握られた手は温かった。
「エル、チョコレート、食べてみて。おいしいから」
「うん」
四角く型抜きされた一口大のチョコレートを手に取る。
初めてのチョコレートは、艶があって、甘い匂いが漂っていた。
いったい、どんな味なのか。ドキドキしながら、口の中に含む。
チョコレートは舌の上でトロリととろけ、驚くほどなめらか。ハッとするような甘さがあるのに、クドくない。
「すごい。本当に、すごいお菓子!」
それ以上、言葉にできない。
選ばれた姫君のみが食べることができるチョコレートは、神がかり的なおいしさだった。
シャーロットは自らが摘まんでいたチョコレートを、エルの口元へと持って行く。
唇に押し付けられたチョコレートを、エルはそのまま食べた。
「エル、おいしい?」
「おいしい」
初めて食べたチョコレートは、想像のはるか上を行くすばらしいものだった。
「ねえ、エル。甲板に出て、夕陽を見ましょうよ。とってもきれいなのよ」
「わかった。行こう」
分厚い外套を纏い、外に出る。侍女とヨヨはシャーロットとエルのあとに続いていた。
甲板は誰もいなかった。というのも、風が冷たく、強いから。見回りの船乗りしかいない。
船は太陽が沈む方向を目指して進んでいる。
先端となる船首楼に移動して、夕陽を眺めることにした。
「さ、寒い!」
「これくらいなら、平気だけれど」
追い風を受け、船はどんどん進んでいっている。
「風のおかげで、予定よりも早く到着すると、船長が言っていたわ」
シャーロット一家は、船長と昼食を共にしたらしい。その際に、話を聞いたのだとか。
「きれい……」
「きれいだけれど、寒いわ」
夕陽は地平線に沈みつつある。もう少ししたら、海面と重なるだろう。
「エル、もう帰りましょうよ」
「あと少しだけ」
「もー!」
海に沈みゆく夕陽は、今まで見たどの夕陽よりも美しかった。
しかし、エルはあるものに気づく。
「あれ、何だろう?」
「何かあったの?」
「夕陽に、黒い点が重なって見えるんだけれど」
「黒い点?」
シャーロットは目を凝らしたが、何も見えないようだった。
「なんだろう、あれ。ねえ、シャーロットには見える?」
「いいえ、わたくしには何も見えないけれど」
侍女も見えないという。
「ごめん。わたし、もうちょっと夕陽を見ているから、シャーロットは先に帰って」
「ええ、わかったわ」
手を振って、この場で別れる。
「エル、明日、一緒にパンを買いに行きましょう」
「うん、いいよ」
「約束ね!」
「うん、約束」
エルは初めて、同じ年頃の少女と約束を交わした。
じんわりと心が温かくなったが、それに浸っている場合ではなかった。
シャーロットがいなくなったあと、エルはヨヨを抱き上げて夕陽に重なった黒い点を見てもらう。
「ヨヨ、なんか黒い点が見えるでしょう?」
『あー……うん、あるね』
「あれ、何?」
船の進行方向にある、黒い点。ヨヨは目を凝らして見つめる。
「魔物、じゃないよね?」
『生き物じゃないよ。動かないし』
「じゃあ、何?」
エルがヨヨに問いかけた瞬間、ヒュウと音を立てて強い風が吹く。
寒さに強いエルですら、ぶるりと震えてしまった。
『エル、あれは──』
「ん?」
珍しく、ヨヨの声が震えていた。
「何?」
『あれは、氷山だ』
船の進行方向に、氷山があると。
地平線へと沈みゆく太陽は、暗闇の中に氷山を隠してしまった。




