少女は街へ――!
黒斑病――桿菌という細菌から感染する急性感染症で、ネズミなどに付いたノミを介して人に感染。感染した人や動物からも、病原体が体に侵入する恐ろしい病気である。
「調査に行った私達が、感染しないようにしないとな」
「そうだね」
まず、感染源とされるネズミやノミとの接触を避けないといけない。
「なるべく肌の露出を避けないようにしないといけないな」
「だったら、錬金術師の外套をそのまま街へ着ていけばいいですよ」
錬金術師の塔から出る際に、借りた外套は特別な魔法が付与されたものらしい。
「錬金術師の外套には、害虫や害獣の忌避効果がある魔法が施されているんです」
「え、すごい」
「とんでもない技術が込められているんだな」
黒斑病の研究をするさいに、関わった者が感染しないように作った特別な外套らしい。
頭巾で顔が隠れるので、好都合だろう。ひとまず、感染対策は取れそうだ。
「あ、そうだ。感染対策といえば、これ、ジェラルド・ノイマーの倉庫から勝手に押収した鳥仮面なんだけれど。これにも、感染対策の魔法が施してあるの?」
魔法鞄から取り出し、キャロルに見せてみた。
「これは――いえ、魔法はかけられていないようです」
ただ、嘴の部分に乾燥させた薬草を詰めているという。調べたところ、ただの薄荷草だということがわかった。
医者に扮する者達には、これを感染対策としていたのかもしれない。なんともお粗末なものだと、エルは内心思う。
「こちらの鳥仮面は、フォースター公爵に渡しておいたほうがいいですね」
エルがこくんと頷くと、鳥仮面はフォースターの手に渡る。
「証拠品として、預かっておこう」
黒斑病の感染者が急増した原因は、感染者同士による接触ではない。
おそらく、何か原因があるはずなのだ。
出かける前に、キャロルから錬金術師の外套についてさらなる説明がなされる。
「その外套には、姿を隠す幻術も付与されています。胸の内側にある魔法陣を指先で摩ったら発動されるので、使ってみてくださいね」
「下町での調査は、姿を隠した状態で行ったほうがいいかもしれないな」
「うん、そうだね。魔法騎士もいそうだし」
ジョゼット・ニコルに見つかりでもしたら、大変だ。
一刻も早く、感染源を突き止める必要があるだろう。
それを探りに、エルとイングリットは街へと出かける。
「おふたりとも、気を付けて」
「キャロルも!」
「はい、ありがとうございます」
街中は混乱状態にある。まずはプロクスに乗って街の外へ降り立ち、そこから下町へ向かったほうが近道だろう。
「じゃあ、お祖父さん、キャロル、行ってくるね」
「ああ、気を付けて」
「無理はなさらないでくださいねえ」
エルとイングリットは、公爵家の庭から王都の郊外を目指して飛び立った。
プロクスの背中から、街を見下ろす。先ほどよりも、混乱状態にあった。
「なんだろう。みんな、慌てた様子で買い物をしている」
市場ではなく、簡易的な天幕の下で商売が行われていた。
いったい何を買い込んでいるのか。空からはわからない。
「食料を買い込んで、家に引きこもって感染しないように――しているわけないか」
「そういうの、わかっていないと思う」
感染症が不衛生な状態から移るということを、把握しているのはごくわずか。上流階級の者でさえ、知っている者は一部の者達だろう。衛生観念自体、ないようなものだとエルは思っている。
「手や顔を洗ってから食事をする。そんな基本的なことでさえ、知らない人が多い」
「手はともかくとして、顔は洗っていなかったな。エルに注意されてから、するようになったけれど」
エルは師匠であるモーリッツから、衛生観念について厳しく叩き込まれた。
しかしながら、それを他人にしてもらうことの難しさも知っている。
「うちのお父さん、お風呂が大っ嫌いだったの。一週間に一回入ればいいくらいで……」
エルは遠い目をしながら話す。
「いくら病気になるよって言っても、ぜんぜん聞かなかった」
エルの父フーゴは健康で、床の上を転がったパンを食べても病気になることはなかった。だから余計に、エルの訴えなんぞ聞かなかったのだろう。
「なんていうか、エル。大変だったんだな」
「うん……」
身内が訴えても、生活習慣を正してもらうのは難しい。
他人が言ったら、耳なんて貸さないだろう。
「でも、都合がいい話は、信じてしまうんだよね」
フーゴも王都に行ったさい、たまに怪しい商品を買って帰ることがあった。
「歯が綺麗になる飴とか、髪が美しくなる香水とか、視力がよくなる目薬とか」
「バカみたいに怪しい商品だな」
「でしょう?」
歯は毎日エルが「磨いて!」と言うので買ってきたのだという。髪が美しくなる香水や視力がよくなる目薬は、モーリッツのために購入したのだとか。
もちろん、どれも偽物でフーゴはまんまと騙されたのだ。
フーゴは幼少時からまっとうな教養を叩き込まれた貴族である。それなのに、あっさりと他人を信じてしまうのだ。
「なんだろうな。思慮分別がある人でさえ、体の不調に関してはいろいろ騙されるんだから、恐ろしい話だよ」
「うん。わたしも、そう思う」
黒斑病も、病気ではなく魔女の呪いだと言われている。その悪評は、いまだに囁かれているという。
いくら国や錬金術師が呪いではないと公式に発表しても、一度広まった話を修正するのは難しいのだろう。
エルとイングリットは街の外に下り立った。プロクスは目立たないよう幼体になってもらい、魔法鞄の中に詰め込んだ。
「イングリット、行こう」
「ああ!」