第51話 我が儘の代償sideアゲイル
銀のナイフで自分の手首を掻き切るとぼたぼたと血が垂れた。ナイフの先で血を突くとナイフに血が吸い込まれていき、深紅のナイフが出来上がった。
軽く息を吹き掛ければ血はすぐに止まり、抉れるほど深く切ったはずの手首は治りつつある。
血は力の源であると共に穢れの象徴であり、神が血を利用した魔導を使うことは御法度。世界を歪める力を持つ血を使うということは、世界という絡繰の潤滑油である神の仕事に反する事であり神の位から堕とされる大罪とされる。
だが、人間の方からすれば神の血は最高級のポーションの謳い文句になる程最大の救いの手となる。神が『かなしみ』に暮れ、流した涙は何よりも強い力を持つからだ。
視線を水鏡に向け、赤く染まったナイフを水面に突き刺した。大きく水が跳ね、朱色の波紋が広がると此方と彼方を隔てていた水膜が消えていった。もう、私も潤滑油には戻れないな。
なら、
この油が燃え尽きて
この身体が灰の一粒になるまで
足掻いてやるさ。
「マリサ……一緒に堕ちてくれるかい?」
ダンスに誘う時のように手を差し出すと、クスクスと楽しげに、悲しげに泣き笑いをするマリサに胸が締め付けられるような気がした。悪いけど、拒否権はないぞミリサ。
「勿論、何処までも一緒です。
『この身が灰の一粒となるまで、魂の一欠片でも残る内はあなたと共に』。
あの日の誓いはまだ有効ですよ」
態々血で染め上げられた私の左手を両手で握った彼女は駆け落ちしたあの日、私が言った言葉を再現した。
「ハハッ、あの日と逆だな。……ありがとう、行こうか」
ぽっかりと空いた穴に足を踏み入れ、一気に落ちていく。私達が完全に堕天するまで、1時間も無いだろう。
だが、それだけあれば充分だ。
◆◆◆
sideミリサ
「マリサ……一緒に堕ちてくれるかい?」
諦めたような顔で扉を開けてしまったアゲイルは、迷子の子のような瞳で右手を出した。私と此処にいることを諦めたからあの顔だと思ったのに、彼だけ堕ちるつもりだったんだとしたら本当に怒るわよ。
バカにしないで。貴方を巻き込んどいて一人だけぬくぬくとここで高みの見物する程甘ちゃんじゃないわ。
「勿論、何処までも一緒です。
『この身が灰の一粒となるまで、魂の一欠片でも残る内はあなたと共に』。
あの日の誓いはまだ有効ですよ」
貴方が私に全てをくれたから私の全てをあげないと釣り合わないでしょう?貰う愛と捧げる愛を相等しくさせたいのは恋人として、妻として、妹として当たり前でしょ。
ああ、本当に善い人に恋に落ちた私は幸せ者ね。
私が捕まえなかったら、貴方をこんな大罪に巻き込む事も無かったのに。
貴方は私に何の怒りも持つこと無く側にいてくれて、こんな大罪を犯してでも私の為でしかないことをしてくれた。
善い人過ぎてこっちが困るわ。
◆◆◆
グワンと世界が大きく揺れ、私達は歪んだ世界を尻目に堕ちていく。雲を突き抜けた辺りで世界に色が付いた。
真っ白だった世界に深い深い海の青、人々が暮らす煉瓦の赤、野原に咲く名もない花達の黄、太陽の光を浴びて更に濃く鮮やかになる緑、人々が何度も歩いて繋がりを作った道の黄土、キラキラと輝く川の水。
それから風で唸るお揃いのサンディブロンドに私を見つめる一対のエメラルドグリーン。
人の顔が分かる程地面が近づくと大きく腕を伸ばして指を逸らした。服を羽に変え、小さな蝶に姿を変えた。右羽の端にひび割れたような模様が小さく入っていて少し力を入れたら壊れてしまいそう。
隣の彼は銀がかった白鳩に変身していた。左手首にあたる部分に一枚の赤い羽が生えているのが、不安を煽る。最後までもってちょうだいね、アゲイル。
◆◆◆
sideアゲイル
ガマズミの生け垣に止まり、穏やかなティータイムを過ごすアトラス夫妻に近寄る。
わざと羽を数枚落としながらテーブルの上を飛ぶと、『ヒュージ』はティーセットを置いて捕まえようとしてきた。
「くそっ!こらっ!止まれ!」
「そんな大きな声を出してるのに止まるわけないだろう」
『レイジナ』は呆れた顔で、机の上の羽を一箇所に纏めながら紅茶を飲み続けている。
ヒュウッヒュウッ。と口笛を吹き始めた彼女の方を見ると指先にマリサを止めて微笑んでいた。少しイラつきながらも冷静に捕まえようとする彼の腕にとまり、瞳を見つめた。
「何だよ……ッ!」
バタッ。彼女が倒れる音に振り返った彼は酷く動揺している。ごめんね、その隙を待っていた。
「ッング!」
呻き声をあげる彼の表情は酷く歪んでいて、私を強く睨みつけている。
「糞鳩野郎が」
口が悪くなったね、『秀司』くん?




