シャンデリアと白い少女
今私が着ているのは、湯上り後、怒り心頭のハルから無造作に手渡された洋服である。彼女と体型がほぼ合致しているせいか、特にサイズの違和感は感じない。彼女の私服は、どうやらどれも色鮮やか……もとい、派手なものが多いようで、顔立ちの良いハルが着るならばまさに波に千鳥、梅に鶯であるのだが、私が着るとどうにも浮いてしまう。黒髪が目立ってしまうのだろうか。
「あぁー……もう! 最悪よ最悪!」
広い廊下いっぱいに怒声が鳴り響く。怒声の主は、ハルである。ハルはしっとりと潤った金色の髪をタオルで拭いながら、大きめの歩幅で廊下をずんずんと歩いていく。私はその後ろを、やや萎縮しながらついていった。
先程私が桶を爆発させてから、彼女はずっとこの調子だ。いやまあ、仕方がないと言えば仕方がないのだが、言い訳が許されるのなら、あの桶に欠陥がある事は間違いないのではないかと思う。
ハルは怪我こそしてはいなかったものの、あの一撃は彼女の怒りに火を点けるには充分すぎる衝撃だった。何せ、プライドの高い彼女を、何とも無様な恰好で湯船に突っ込ませてしまったのだから。その後、彼女は女神の微笑みと隠し切れぬ憤怒とが入り混じった形相で、浴場の壁を破壊しかねない程の大声で私を叱り飛ばした。何をどうしたら桶が爆発するのよこの馬鹿! と。……こっちが聞きたいくらいである。
「いやでもホント、私何もしてないんだよ? ハルの言う通り桶を掴んだら、勝手に爆発したんだよ?」
「はいはいはい! わかったわかった! でも私が吹っ飛ばされて失神しかけた事は事実でしょ!」
ハルはこちらを見ずにむすりとした口調で言った。これは相当ご立腹のようである。
「とりあえずアンタにはもう物は触らせない事にしたかんね。もしかしたらアンタ、触れた物を爆発させるとか、そういう能力を持ってるのかもしれないし」
「そ、そんな物騒な力なんて持ってないよ!? ほら、アレだよアレ。私、何か凄いいっぱいの力を持ってるんでしょ? 桶が耐えられなかったんじゃないかな」
「あの桶は使用者が桶に深力を送り込む仕様じゃなくて、桶が使用者の深力を、必要な分だけ自動的に抜き取る仕様なんだから、そもそも桶自体が過吸収で自爆する事なんてあり得ないの。まあ、不良品だった可能性もなくはないけど……とにかく! 危険なのでアンタは様子見するから」
「そんなあ……」
酷い言いがかりだ、濡れ衣だ。と続けようとしたが、下手に返しても彼女を更に刺激するだけになりそうなので、ここは引いておくことにした。
しかし、ハルの言うことは正しい。正直、自分でさえも自分自身の事が分からないのだから、もしかしたら本当に、私は物を爆発させる力が使えるのかもしれない。ハルが空を自在に飛んでいたように、この世界ではああいった能力が一般的に使えるのだとしたら、私にも何か能力があってもおかしくない。
……試しにハルにばれないよう、廊下の壁に掛けられていた絵にそっと触れて、じっと集中してみる。もしも爆発してしまったら、それこそハルにメコメコに怒られかねないが、この際、はっきりさせておきたかった。……のだが、結果は、間が空くだけで期待していた事は起こらなかった。
やはり、単に桶の不良だったのかもしれない。私は、相も変わらず凡人のようである。
「ところで。ベルに言われてるから、アンタに色々教えなくちゃあいけないんだけど……先に街を歩き回る前に、ご飯食べましょ、ご飯。アンタ、お腹空いてるでしょ?」
「え?」
言われてみれば確かにそうかもしれない。今の今まで全く意識をしていなかったが、意識をした途端、胃を持ち上げられるような空腹感がどっと押し寄せてきた。走り続け空を飛び、歩き、爆発しと、カロリーを大量に消費しかねない体験をしてきたせいだろう。
「確かに、お腹空いてるかも……」
「でしょ? じゃあご飯にしましょ、丁度いい時間だし。今用意させるから、あの扉を開けたところの部屋で待ってなさいな」
ハルの目線の向く先を見てみると、両開きの大きな扉があった。他の扉とは違い重厚な雰囲気を感じる。彼女の言動から察するに、食事をするところなのだろう。
「ただーし! 中の物には絶対に触れない事! 私が戻ってきた時に部屋が消し炭になってたら、もうグーで殴るからね! グーで!」
「だ、大丈夫だよ……! じっとしてるから!」
当然だが、未だに疑惑を拭いきれていないようである。一刻も早くこの誤解を解きたいのだが、いかんせんその為の証拠を一つも用意できないのが現状である。
ハルはくるりと踵を返すと、廊下の奥の方へと姿を消した。
「……えーと、まあ、じゃあ……入って待ってよ」
私は彼女の言われた通り、指定された部屋の前へと向かった。重厚な扉は黒塗りの木製で、触るとつるつるとしていた。全体を眺めてみると、この扉、ドアノブではなく引手がついている。つまるところ、引き戸だ。食事を運びやすくするための工夫なのだろうか。
引手に手をかけて扉を開ける。見た目に反して、扉はスムーズに動いた。
真っ先に目に飛び込んできたのは、天井からさがる大きな金色のシャンデリアだった。無数の灯りと金の細工が美しく調和し、部屋一帯を高貴に染め上げている。部屋の壁は真紅で統一され、巨大な絵画が幾つか掛けられていた。部屋の中央には、丁度20人くらいは座れそうな長方形の食卓と、純白のクロス、そしてその周りには高級なオーラを纏った椅子の数々が綺麗に並べられている。
あまりの輝きに立ち眩みをしそうになった。
「とんでもない大金持ちなんだなあ、ハルって……」
私は辺りをきょろきょろと見回しながら、巨大な卓の一番隅の椅子に腰掛けた。ふわ、と背中全体を優しく包むような、柔らかい感触が心地よい。このまま眠りにつく事ができそうだ。
しかし、今の私は、端から見ればさぞ挙動不審な動きをしているように見えるだろう。腰かけてなおきょろきょろと辺りを見渡し、それでいて、自身の着ている服をしきりにつまんだりしている。まるで借りてきた猫のようだ。
ほっと一息をついて、天井を見上げる。金色のシャンデリアから放たれる光が、眼球にきしきしと刺さる。私は瞼を閉じて、腕をだらんと下ろし、リラックスをする姿勢に変えた。ほんの少しばかり眠気を感じていたので、待っている間、眠っておくのが最善だろう。
うつらうつらと眠気が私の意識を侵食し始める。このままなら、ハルが帰ってくるまで問題なく眠れるだろう。
……と思ったのだが、何だろう。今、うとうととしている私の足元に、異様な違和感を感じる。
間違いなく私の足元に何かがある。いや、何かがいるのだろうか。くるぶしを毛のような触感の物体が撫でていったのを、一瞬だが感じた。動物? 犬か何かか? しかし、ここは食事をする部屋である。犬が居る事なんてあり得るのだろうか? というより、この世界には犬が存在するのだろうか。
当然、このままでは快適な眠りへと落ちることは不可能である。私は、この目で違和感の主を確認し、必要であれば排さなければならない。
私は恐る恐る瞼を開いて、自身の足元の違和感へと視線を落とした。
……少女、である。
輝く白髪、白い肌、そして、薄紅の瞳。この少女は、見たことがある。そう、私がハルとハードな空中遊泳をした後、意識を取り戻した時に居た部屋。そこで、この少女とは会っている。
「あっ、ばれちゃった……おはようお姉さん、ナタリィです、えへへ」
「あ、ええ、どうも……」
ナタリィははにかみながら私を見上げる。唐突の事だったので、自身より一回り、二回りも小さいような少女にへりくだってしまった。
「……ナタリィちゃん、どうしてここに?」
「ええとね、なんとなくです。お姉さんの事が心配になってしまったので、様子を見に来ました」
私はこの年齢の少女に心配されるほどの存在らしい。いや、気にかけてくれる事自体は、新しい世界で右往左往しつつある私にとって涙が出てくる程嬉しいのだが。
ナタリィは卓の下から這い出ると、私の隣に椅子を引きずって、そこにちょこん、と座る。目を合わせると、にへらと笑った。子供特有の純粋な眩しさが光る。
「ところで、お姉さん」
ナタリィがずい、と身を乗り出して私に話しかけてきた。
「なあに?」
「今のお姉さんは、きっと、ナタリィよりもお勉強が出来ません」
「えっ?」
「ナタリィの方が、多分かしこいと思います。なのでお姉さんがお姉さんというよりは、どちらかというと、ナタリィの方がお姉さんなのではないのでしょうか」
突然の指摘。言葉の真意を汲み取る事は出来なかったが、私なりに解釈をすると、つまるところ、『貴方は今現在、自分自身が置かれている状況について何も知らない、まるでお勉強の出来ない乳幼児レベルの知識と経験しか持ち得ていないので、私の事を姉として接するべきではありませんか?』という意味ではなかろうか。
「つまり……どういう事かな?」
「つまり、お姉さんはナタリィの事を、ナタリィお姉さんと呼ぶのが最適なのだと思います!」
「あっやっぱりそういう意味なんだ……」
確かに、この世界の知識量に関しては間違いなく彼女の方がリードしていると思うが、しかし、相手は年端もいかぬ少女である。彼女をお姉さんと呼んでいる姿を、ハルに見られたら、からかわれること間違いない。……とはいっても、ここでノーを突きつけるのも大人げない気がする。
「んー、じゃあ……良いよ。今からナタリィちゃんの事、ナタリィ姉さんって呼ぶね」
「良いの!? やった! えへへ、じゃあナタリィはあなたの事……あれ。なんて呼べば良いんでしょう。あなた、お名前がないんですよね」
名前。そういえば、自身のフルネームこそ分からないものの、先程、脱衣所で自身の着ていたよれよれのパジャマに、まち……と、名前らしきものが記載されていた事を思い出した。
「んーん、ナタリィ姉さん。私、まち……って言うんだ、名前」
「マッチ?」
「いやいや、まち」
「マッチの方が可愛いと思います! あなたは、今からマッチです」
どうやら勝手に命名されたようである。彼女はハルと正反対の性格だと思っていたが、色々と似ている点があるようだ。主に、強引なところが。いやしかし、これは子供特有の強引さである。いわば、可愛い個性である。性格が成熟しているハルと比べてはいけない。
「ナタリィはお姉さんなので、勿論、妹であるあなたに色々とお勉強を教えるのが義務になると思います。分からない事があったら、ナタリィに聞いてね!」
彼女のドヤ顔、そして広い額が、シャンデリアの灯りに照らされて輝いた。何とも可愛らしい少女だ。この世界で、この純粋な少女に相対する者が居るのだとしたら、それはきっと悪であろう。
「そういえばマッチ、ハルはどこに行ったの?」
「ああ、今ハルはご飯を準備しているから、あともうちょっとしたら帰ってくるかな」
「ご飯! ナタリィもお腹が空きました。一緒に食べても良いですか?」
「良いと思うよ、きっと」
「やった!」
特に確証はないが多分大丈夫だろう。これだけの豪邸なのだから、きっと出てくる食事も量が多いと思うし、何よりナタリィのような華奢な少女なら、育ち盛りとはいえ、食べる量も少ない筈である。
「じゃあハルが帰ってくるまでお話でもしてようか、ナタリィ姉さん」
「うん!」
まだ姉さん、と呼ぶことに慣れていないが、まあ、その内これも忘れられるだろう。
私はハルが帰ってくるまでの間、ナタリィと一緒に他愛のない話をする事にした。