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時折、ふっと死んでしまいたくなる時がある。それは夜になると特に顕著で、夜の暗さのせいなのか、沈んだ思考だとか、そういったマイナスなイメージばかりが頭の中に滞留して、どんどん濁っていってしまう。これは我ながら駄目な癖だとは思っているけれど、どうにも治る気配がない。
今日も眠る前に案の定陰鬱な思考を広げてしまって、仰向けになりながら、自分の指だとか爪だとかをぼうっと眺めていると、いつの間にか、時計の針が深夜の2時32分を指している事に気がついて、ああ、今日もやってしまった、と後悔してしまっている。
でも、何もいけない事ではない。このまま朝まで起きていたって、別に何か問題が起きるわけでもない。私の人生……、日明万智の人生は、既に何もかも終わってしまっているのだから。
一年前。高校生だった私は通学中、交差点を曲がりきれなかった居眠り運転のトラックにはねられた。自転車と共に舞った身体は頭からアスファルトへと落ち、重体。病院へと搬送された私は、生死の境を彷徨った後、奇跡的に一命を取り留めた。しかし、脳へのダメージは深刻で、胸から下が完全に動かなくなった上に、突然不定期に意識が途切れてしまう症状が出るようになってしまい、以来、退屈で辛い入院生活を送っている。
あれからもう一年が経ってしまった。
毎日のリハビリの時間以外、ずっと仰向けになって寝ている私のもとへ訪れるのは、母親と、学校の担任、それと、クラスメイトだった友達くらいだろうか。それら全てを加味しても、一日の全てが退屈で苦しい。入院して以来の一年間、永遠とも思える苦痛の日々が続いた。そして、きっとこれからも同じように苦しい毎日を過ごす事になるのだろう。
ふっと、死んでしまいたくなった。また、悪い癖が出てしまった。しかし、そうやって自分を戒めても、心のどこかで、命を断ってしまえばこの苦痛から解放されるのではないかと考えてしまう。死後の世界なんてものはない。天国も地獄もない。あるのは多分、何もない、無。退屈だとか、楽しいだとか、苦しいだとか、そういったものを考える事すら出来ない、完全なゼロ。何よりも私が求めている環境。
でも、本当はそんなのはただの建前だ。死んでしまいたいだなんて、虚言だ。心の底で、もう一人の私はこう叫んでいる。脚が動くようになってほしい! 学校に通いたい! 友達と遠くに遊びにいきたい! きっと、そう叫んでいるのだ。負の思考が、本音を覆い隠してしまうだけなのだ。
願う事なら誰でも出来る。でも、願ったって、叶わないものは叶わない。一年間、ずっと心の底で願い続けてきたけれど、奇跡は起こらなかった。しかしそれでも、例え叶わないと分かっていても、今晩もまた祈ってしまう。
「……神様、人生をやり直させてください……」
暗く、誰もいない病室で、私はポツリと絞るように呟いた。
「……なんてね」
浅いため息をつく。絞り出した声は、静寂の中へ虚しく溶けて消えていった。
眠ってしまおう、そう思った。明日もまた同じように退屈な日になるが、最早どうにもならない。神様なんて存在しない。奇跡は起こらない。ただただ、この現状を受け入れるしかないのだ。
目頭に熱が篭り、大粒の涙が頬を伝っていく。虚しさ故の涙、悔しさ故の涙でもある。毎晩、こうやって静かに泣いてしまっているが、泣いた後は妙に疲れて、すぐに眠れてしまうから良い。
目蓋を閉じ、深呼吸をした。そうして、眠る姿勢をとるべく、胸の上に両の手を乗せようとした、その時だった。
……私の右手首へ何かが、いや、これは誰かの手だ。誰かの指、手が確かに触れたのである。
突然のあまりぎょっとしてしまい、「アッ!」だなんて情けない悲鳴を上げながら、何者とも分からぬ指を手で打ち払って、私のベッドの横に居るであろう何者かへすぐさま視線を向けると、そこには確かに人影があった。部屋が暗くてよく見えないが、間違いなく何者かが居る。佇んでいる。
「おっと、ごめんよ。ああ、君を驚かせるつもりはなかったんだ、許してね」
何者かが私へそう語りかけてきた。声質からして、男性である。
「……だ、誰……」
謎の声の主へそう投げかけながら、ベッドの柵に括り付けてあるナースコールを手に取ろうとしたものの、驚きと恐怖とが混ぜこぜになってしまっていて、ボタンを床へ落としてしまった。これは、致命的なミスである。このままでは助けを呼ぶことが出来ない。
「や、ごめんごめん。あ、何か謝ってばかりになってるねボク。あはは、まあ良いか。自己紹介をしないといけないね。ええとね、ボクはね、神様です」
声の主はやたら自慢げな口調で語った。人影は胸を張っているように見えた。
神 様 。
私は目の前の人物の言葉を疑った。当然である。真夜中に病室へ侵入し、声を掛けずにいきなり人の手を掴みににかかり、挙句、自身を神様だと名乗る人間など疑う余地の無い変人である。私の十七年の短い人生の中でも類を見ない変態である。人生で死の恐怖を覚えたのはこれで二回目である。
「私に何をするつもりなんですか? 殺すんですか?」
「は?! いや待って、いやいやいやまさか、ね? 殺すなんてとんでもない! ボクはね、本当に神様だよ。信じてもらえないのならこのまま帰るしかないけどさ。君、さっき言ってただろ? 神様、人生をやり直させて下さい……ってさ」
心臓が締め付けられるような感覚を覚えた。この男は、私がさっき呟いた願いを耳に拾っていた。あの時からずっと居たのか? 恐怖が更に色濃くなっていく。叫んで助けを求めようかと思ったが、長らく大声を出していないせいか、喉が拒絶してしまっている。
「というわけで、ボクは神様だから、君に新しい人生をプレゼントしようと思って来たわけさ! 神様は人間に常に寄り添う味方だからね、お礼は要らないよ」
「待ってください! 私は確かにさっき、ぽろっと、そんな事を言いましたけど……そんなの、無理に決まっているじゃないですか。神様なんて本当はどこにもいないんです。貴方はただの不審者で、不法侵入で、変人で、変態です」
「酷ッ! 神様をここまでコケにしたのは君が初めてだよ! ボクね、結構偉いんだからね? 地球が出来た頃から居るんだからね? 証拠は持ってきてないけど! まあ、それは後で分かるだろうさ」
変人が私の右手を取った。振り払おうとしたが、不思議と力が入らなかった。このままではいけない、この変人は私に何をするか分からない。死の恐怖を越えた何かが、私の心臓を締め上げていく。怖い、怖い、ただただ怖い。この人は何者なのか、本当に神様なのだろうか? いや、違う。変人である。神様なんてどこにもいない。目の前に居るのは紛うことなき変人、変態である。
「は、はなしてくださ……」
「あ、ごめんねホント。痛くしないから! ちょっとだけだから!」
「やっぱり私に何かするつもりなんですね……!」
「確かに何かしようとはしてるけれど、誤解を招きそうだから今の内に説明しておこうね!」
変人は手に取った私の右手をそっと両手で包み込むと、薄ぼやけて見えなかった顔を、私のすぐ目の前へと近づけてきた。まずい、このままではまずい。変人にファーストキスを奪われてしまいかねない。そう思考して、決意を固めた。唇が迫ってきたら、それに噛み付いてやろうと。手が動かせない以上、最早頼れるのは己の牙のみである。しかし、迫りくる変人の顔は私の目の前からすっと外れて、どうやら、耳元へ向かっていったようである。
変人は耳元で小さく囁いた。
「いいかい、万智ちゃん。君に新しい人生をプレゼントする、これは本当さ。ボクは神様だから出来る。だけれどね、タダであげる事はできない。世の中は常に等価交換。人生と引き換えになるのは、もちろん、君の人生……になるよね」
人生のプレゼント。人生と引き換え。
おとぎ話のような内容だ。世に無数に出版されている小説のようだ。当然、信じられない。信じる方がおかしい。この男はおかしい。私は、このままこの変人に耳を傾けてしまって良いのだろうか。
「つまるところだ。君の今までの人生、君のこれからの人生、君の今までの記憶を、全部! ボクにくれたら、君に新しい人生をあげるよ。どうだい信じられないだろう? きっと君は思っているぞ、なんだこの男は。頭がおかしいんじゃないか? ってね」
私の退屈な人生と引き換えに、新しい人生を貰える。男の言葉は何もかもが信じられない内容なのに、しかし、どこか謎の信憑性を感じるような、不思議な力が宿っているように思えた。
「それでもいいのなら。君が望むのなら、約束するよ。新しい人生の中なら、君は野原を走り回る事が出来るだろう。新たな友を見つけて、楽しい日々を過ごすことも出来るだろう。そう、かつての日のようにね。……ボクはね、心の奥底から、君を幸せにしたいと思っているんだ、神様だからね。どうだい?」
男は私の耳元から顔を離すとゆっくり遠ざかり、握っていた私の右手を、元の位置へ優しく戻した。遠ざかる男の顔は、やはり薄ぼやけてしまっていたが、うっすら微笑んでいるようだった。
「さて、ボクはそろそろ帰るとするよ。いいかい万智ちゃん、ボクの力を借りたかったら、祈りながら眠りたまえ。ボクを忘れたいのなら、失望しながら眠りたまえ。後は君の判断次第だ」
薄暗い病室の出口、その付近まで男は静かに歩みを進めると、薄暗がりに溶け込むように、ふっと消えていなくなった。扉の開く音は聞こえなかった。
謎の変人が、真夜中突然やってきて、突然いなくなった。自身の頬をつまんでみたが、震えるほど痛かった。これは夢ではなく現実。先程の男は、本当に先程までここに存在していた。自らを神様だと自称し、お前に新しい人生をくれてやると語り、祈りながら眠れと言い残し去っていった。何もかもが信じ難い出来事だ。誰に話しても信じてくれはしないだろう。
もしかしてこれが、奇跡なのだろうか。私の望んでいた奇跡なのだろうか。自分の人生を変えてくれる何かが、あの男なのだろうか。この退屈で苦しい現実から、私を救ってくれる、最後の手のひらだったのだろうか。
私は右手に残る男の温もりを確かに感じながら、それを胸の上に置き、そして目蓋を閉じて、祈った。
「……神様、人生をやり直させて下さい……」
私は絞り出すようにそう呟いて、祈りながら眠りについた。
目蓋の裏に、あの男の微笑みが見えた気がした。