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肩書戦争  作者: サケ/坂石遊作
一章 不遇のヒーロー
4/16

スポットライトは照らさない(2)

 休日明けの月曜日。

 先日の不愉快な思いは一晩で回復し、今日は学生としての本分を果たすために外出する。春だった季節も夏に寄りつつあり、適当な私服の上に黒の学生服を羽織るくらいが丁度いい。


「それじゃあお兄ちゃん、私は英傑さんの家に寄ってくから」


 軽く屈伸してからそう言った由奈は、返事をする前にトタトタと駆け足でリビングから去っていった。毎日一人で登下校している俺とは違い、由奈は近隣の友人たちと一緒に行動することが多い。別に寂しいわけじゃないが、たまには兄妹で一緒に登校してみてもいいんじゃないかと思う。本人曰く恥ずかしいとのことなので、無理強いはしない。

 由奈がいなくなったので、俺は普段通り一人で学校に向かった。私立高峰学園は小中高一貫のエスカレーター式の教育機関で、俺と由奈は初等部の頃からそこに通っていた。両親が不在なだけで、萩一家は困窮しているわけではない。寧ろ収入はいい方だと聞いている。俺と由奈がこの学園に通えるのも、両親のせめてもの配慮だろう。家事に追われる身としては、徒歩で通えるというだけで大きなメリットになる。


「何だこれ、危ねぇな」


 僅かに縁が枠から外れているマンホールを跨ぐ。足でも引っ掛けたりしたら大変だ。マンホールは相当重いと聞いているが、最悪誰かが穴に落ちるかもしれない。

 心配だ。授業開始までまだ余裕もあるし、直してみるか。


「きゃっ!?」


 決心して振り返るものの、少し遅かった。目の前でマンホールに足を引っ掛けた子供は、小さな悲鳴とともに全身を地面に打ち付けた。盛大に転んだ女の子はゆっくりと起き上がるものの、泣きそうになって服を握りしめている。


「大丈夫か?」


 擦りむいた膝が痛々しい。こんな朝から可哀想に。俺は涙目でこちらを見る女の子に、制服の内側ポケットから絆創膏を取り出した。

 しかしながら、


「……」


 ぷるぷると震えながら、女の子はランドセルに下げている防犯ブザーに手を伸ばす。あまりにもあんまりな光景に、俺は戦略的撤退をせざるを得なかった。置き土産として、可愛らしい星柄の絆創膏と、半分くらい使用済みの消毒液と、ガーゼと紙テープをくれてやる。

 どうしてこんな朝早くから全力疾走しないといけないのか。

 幸先の悪さは普段通り。とは言え納得できるわけもない。それでも、学校に着けば、嫌な気分も無理矢理押し殺すしかない。ストレスを抱え、それを学友に当たり散らすのは、ヒーローとしてあるまじき行為だ。

 だから俺は、盛大に扉を開き、声を発した。


「おはよう! 今日もいい朝だな!」


 教室中に立ち込める気怠さを吹き飛ばすように、大きく挨拶。

 納得はいかないが、どうも容姿というか、雰囲気から怖がられている俺は、印象払拭のために日々こうして自分のキャラを覆す行動をしているのだ。

 だが……誰も、返事をしない。

 普段よりも早く学校に来たからか、教室にいる生徒の数はいつもより少ないものの、十人近くはいる。にも関わらず、返ってくるのは無言の静寂ばかりで、それどころかクラスメイトたちは絶対に俺と目を合わせようとしなかった。

 俺は自分の席に腰を下ろし、机に突っ伏した。

 右ポケットから携帯音楽機器を取り出し、テンションが上がるような激しいロックを大音量で再生する。小刻みのハイハットが舌打ちと重なり、バスドラムが心を砕いてしまうほど響いた。スクリーモを聞いていると、自分も叫びたくなる衝動に駆られる。

 あの防犯ブザーの子(仮称)に対して抱いていた感想を撤回する。朝から可哀想なのは寧ろ俺の方だ。膝のかすり傷なぞ、心を抉られるよりかはマシに決まっている。


「――おはよう」


 寝ているフリをする俺の腕が痺れてきたとき、イヤホンの向こうからでもわかる透き通った声が聞こえた。顔を伏せていてよかったと思う。今の俺の顔は苦虫を噛み潰したようなものに違いない。俺は携帯音楽機器を弄り、音量を更に上げた。


「おはよう直江君」

「おはよー」

「おっす英傑」


 それでも聞こえる、クラスメイトたちの暖かな反応。

 ちくしょう。この差は何なんだ。俺のどこが悪くて、アイツのどこがいいんだ。

 こっそりと机と腕の隙間から教室を覗くと、案の定アイツはちやほやされていた。女子生徒からのさりげないボディタッチにも眉一つ動かすことなく、あくまで紳士を貫いている。

 昔から変わらない、親友の振る舞い。変わったのは俺だけなのか。


「おはよう、真司。起きてるよね?」


 イヤホンを無理矢理外され、声をかけてくる。幼馴染なだけあって、俺のことはある程度お見通しらしい。これで女性だったら好意でも持っていたかもしれないが、如何せん相手は同性だ。同性で自分よりも人気者である幼馴染なんて、嫉妬の対象にしかならない。


「……おう」

「相変わらず、不機嫌そうな顔だね」


 原因がすぐ傍にいるのだが、鈍感なこいつが理解しているわけがない。

 起き上がった俺は机に頬杖を立て、隣でニコニコと笑みを浮かべる親友を睨む。この男――直江英傑は、かつて俺がヒーローごっこに巻き込んだ幼馴染だ。地毛の金髪は日本人には一際魅力的に見え、中性的で端正な顔立ちは、どのような感情に染まろうと女子の視線を釘付けにする。認めたくはないが、英傑は世間一般で言うイケメンというやつだった。


「普段より遅かったな。何かあったのか?」

「ああ、それがね。学校に来る途中に小学生くらいの女の子と会ったんだけど、怪我をしていてさ。幸い治療に必要な道具は持ってたみたいだけど、あまり慣れてない様子だったから手伝うことにしたんだ。膝を擦りむいた程度だったし、元気になってくれてよかったよ」


 防犯ブザーの子か。あの子、英傑の助けは素直に受けたらしい。

 まあ、無事ならばそれでいいか。


「それにしても、最近の小学生は消毒液を持ち歩いているんだね。昔の真司を思い出すなぁ」

「……近くに縁が外れているマンホールなかったか?」

「え? あ、ああ、確かにあったよ。危なそうだったから直しといたけど」

「そうか」


 英傑ならあのくらい造作も無いだろう。線の細い体型のくせに力はある。

 容姿端麗でありながらスポーツ万能。おまけに頭脳明晰であるこの完璧人間は、更に性格まで良いときた。文武両道、才色兼備、神は英傑に二物どころか五物も十物も与えたようだ。アガペーって言葉知ってるか? それ、多分英傑のことだぜ。


「ところで真司、今度暇なら家に来ない?」

「別に予定は入ってねぇけど……何でお前の家なんだ?」

「遥が真司に会いたいって」


 遥……英傑の妹だ。兄と同じく金の髪をしているが、兄とは違って生まれつき身体が病弱なせいで満足に外出できない子でもある。人形のように麗しい外見やウェーブのかかった髪はまるで西洋のお姫様を連想させ、子供の頃はよく「姫」と呼んでいたものだ。

 しかし、彼女が俺に会いたいと言うのはおかしい。


「嘘つくなよ。姫は俺のこと嫌いだろ?」


 実は未だに彼女のことを「姫」と呼んでいるのはここだけの秘密だ。

 残念なことに、姫……もとい、遥は俺のことを嫌っている。

 発端は、俺が英傑をヒーローごっこに巻き込んだことだろう。俺は、ただでさえ外出が不自由な彼女から、兄という大切な家族を遠ざけてしまったのだ。家の中ではカルガモ親子のように常に一緒に行動していたほどだ。さぞや俺を恨んでいるに違いない。


「だからそれは、昔の話だって」

「どこがだよ。この前だって、俺が英傑と話してたら凄い不機嫌そうだったじゃねぇか」

「いや、それはその……どちらかと言えば、僕に対してというか……」


 何か逡巡するように説明する英傑だが、俺にはただの誤魔化しにしか聞こえなかった。英傑のことだから、きっと俺と姫の仲を取り持とうと考えているのだろう。それが姫にとってのストレスになっていることに、英傑も早く気づけばいいのだが……。

 とにかく、反省した俺はもうこれ以上、兄妹の仲を引き裂くような真似はしない。

 ヒーローは人との絆を大切にするのだ。


 *


「……眠い」


 放課後を迎えた教室からは、クラスメイトたちの気の抜けた声がちらほらと聞こえた。

 教室を去っていく担任教師を尻目に、俺は教科書と筆記用具を鞄に詰め込む。


「お疲れ、真司」


 丁度全ての荷物をまとめたところで、英傑から声がかかる。


「ああ、お疲れ」

「今日もまた随分と爆睡してたね」

「だってあれ、聞いても意味わかんねぇし」


 三角関数を定義したらしいオイラーには尊敬の念を抱く。彼ら数学者たちは、数式を編み出し紐解くことを娯楽と感じているのだろう。しかし今の時代、そんなものに打ち込むような人はそういないのだ。学ぶにしても、せめてもっと将来の役に立ちそうな技術がいい。


「そんなこと言ってると、また呼び出されるよ?」


 返す言葉が見つからない。かと言って、反省もしないのだが。勉強なんて大嫌いだ。


「直江さん、そろそろ……」


 内心で勉学に喧嘩を売っていると、英傑の背後からおずおずと一人の女子生徒が話かけてきた。英傑はそんな彼女の言葉に「そうだね」と頷く。

 よく見れば、英傑の背後には二、三人の女子生徒が突っ立っていた。


「真司も、よければ一緒に帰らない?」


 英傑の台詞に、背後の女子生徒たちがギョッとした表情をする。その一緒というのは、俺と、英傑と、そして彼女たちを指しているのだろう。基本的に俺と英傑は一緒に帰ることが多いため、誘われることはそう不思議なことではない。

 だが、少しは空気を読めと思う。


「遠慮しとく。今日はちょっと寄り道したい気分だし」

「そっか。うん、わかった。それじゃあまた明日」

「おう」


 昨日の今日ので寄り道をするつもりはなかったが、言ってしまった以上はどこかに寄り道した方がいい。英傑と俺の家は近いため、後から顔を合わせてしまえば気まずくなる。

 俺とは違って皆に慕われる英傑は、正直羨ましいし、妬ましい。けれども、英傑は俺の親友だ。俺を恐れることなく普通に接してくれる、数少ない気心の知れた大切な幼馴染だ。そういった身近な人に限って、気を遣ったことが悟られると恥ずかしくなるのは仕方ないと思う。

 女子たちに囲まれて笑う英傑の後ろ姿に、俺は妹の存在を思い浮かべた。

 あの中の誰よりも、由奈は英傑のことを想い慕っているだろう。なにせ、年季が違う。由奈はもう、三年近くも英傑に好意を抱いているのだから。

 長い期間だ。だから、少し不安だ。さっさと恋人を作って落ち着いてくれればいいものの、英傑に特別な誰かが出来たといった噂は金輪際聞いたことがない。そのせいで、いつまで経っても女子たちは英傑を囲い続けるし、そしていつだって英傑を中心に牽制し合う。

 英傑になら由奈を任せてもいい。俺よりも器用で、俺と同じくらい強い英傑ならどんな困難だって打ち破ってくれるだろう。由奈を任せるなら頼もしいことこの上ない相手だ。

 英傑と数人の女子たちが仲睦まじく教室を出たのを確認してから、俺はのんびりと帰路についた。放課後を迎えた学び舎では、部活動による活発な生徒たちの声があちらこちらから聞こえてくる。高校生活で既に一年以上の帰宅部歴を誇る俺にとって、それは珍しくも何ともない平々凡々とした光景だった。

 校門を抜けた後、この後どこに立ち寄るかを検討する。子供の頃から駆け回っていただけあって街の全貌には詳しいが、いざ足を運ぶとなると候補のレパートリーが少ない。


「結局、またここか」


 昨日と同じベンチに座り、俺は年寄りのように息を吐いて空を仰ぎ見た。夕方よりも早いこの時間帯の公園は、ご近所に住む奥さん方の溜まり場だ。夫のシャツのアイロンがけが面倒臭いとか、お勧めの冷凍食品などといった話題を語らっている。家事をこなす身としては中々有益な情報だ。適当に時間が過ぎるまで、聞き耳を立てることにした。

 美味しい卵焼きの作り方を聞いたところで、無意識に欠伸をする。


「隣、いいですか?」

「あ……どうぞ」


 俺は身体と足元の鞄をベンチの左側に寄せ、右隣に座る女性を見た。

 薄い化粧に、大人びた雰囲気を感じる。大学生くらいだろうか。その黒い長髪は肩甲骨付近で一度束ねられており、背は高くスラッとした女性だ。白い清楚なブラウスを纏っており、下には長い脚を強調するジーンズを履いている。


「ふふ、ありがとう」


 優しげなその微笑みに、俺の脳は一瞬で色を変えた。桃色の広がる脳内で、とてつもなく大きな感動に包まれる。初対面の人が、俺を怖がっていない。こうして視線を交えていても、彼女は一向に立ち去る気配を見せない……!

 俺は上を向いた。心の汗が垂れないように、俺は黙って空を仰いだ。


「ねえ、少しお話しない?」

「えっ!?」


 舞い上がりそうな喜びを隠すように、俺は腕に巻いてある時計を見た。時刻は夕方手前。今日は溜まりに溜まった課題を消化しようと思ったのだが……隣の女性を一瞥する。

 俺の中で、一つの天秤が生まれた。左には「課題」が。右には「異性とのお喋り」が乗せられている。俺は眉間を摘み、天秤の行く末に全てを委ねた。「課題」が星になって消えた。


「いいですよ、俺も暇ですし」


 課題は徹夜でやることにしよう。

 ヒーローだって、骨休めは必要なのだ。


「私ね、昨日見てたの」

「昨日……ですか?」

「ほら、商店街の近くにある路地裏で」


 そこで彼女の言いたいことを理解する。昨日、路地裏ときたら一つしか無い。二人組の不良から一人の女性を救おうとした、あの一件のことだろう。あまり思い出したくない出来事なので、俺は「あー」と適当に返事をした。

 それにしても、彼女があの場にいるとは全く気づかなかった。

 後から入って来れば気づくから、きっと彼女は最初からあの場にいたのだろう。そして俺が去ってから、彼女も路地裏を後にしたのだ。

 ということは、彼女は事の顛末を全て見ていたということになる。

 俺が不良を撃退したところだけを見ていた、なんて都合のいい話にはならないか。


「君って、いつもあんなことをしているの?」


 あんなこと、とは何のことか。

 誰かを救うために悪漢を成敗することか。

 それとも、その後に必ずといっていいほど相手に逃げられることか。

 どちらにせよ……。


「まあ、そうです」


 俺の答えがお気に召したのか、女性は口に手を当てて上品に微笑んだ。

 その笑顔の可愛いこと。そしてふと意識すると、ベンチにひと組の男女が座って談笑するというこの状況だ。もしかして今、結構いい感じではないだろうか。


「で、でも、いつも最後に失敗するんですよ」


 れ、れれれ、冷静になれ……!

 平常心が崩れゆく己の心情に、冷や汗を垂らしながら虚勢を張る。

 そんな焦燥に駆られた俺を他所に、隣の美女は真っ直ぐに俺を見据えていた。


「君って女の子ばかり助けてるよね?」

「そ、それは偶然です!」


 嘘偽りのない真実だ。俺は男でも女でも、その人が助けを乞いている限り平等に救おうと心掛けている。猛々しい大男であろうが関係無い。邪な故意一切ないと断言する。……まあ、その、突発的な事情(主にそっち方面の)に対しては未だに免疫がついていないのだが。

 彼女の言い分は全て、偶然の一言でしか片付けられない。


「実は女の子に好かれたくて助けてるとか?」


 疑いではなく、純粋な好奇心で尋ねられる。まるでどう答えても満足してくれそうなその微笑みに、俺は心が掻き乱される気分だった。俺が「はい」と答えた場合、彼女の反応はどういったものになるのだろう。そんな悪戯心を押し殺し、キッパリと否定する。


「そんなことありません」

「本当に?」


 ズイ、と顔を近づけられる。

 その潤った桃色の唇が、少し動けば届く距離にまで接近していた。

 思わず目を下に逸らす。すると今度は、白いブラウスの胸元に視線が釘付けとなった。

 流石に目の前に本人がいる状況で、堂々とその先を見つめるなんて醜態は晒せない。しかし、その服の合間から見える神々しい光景。

 天使が言う。誠実であれ。悪魔が叫ぶ。現実から目を逸らすな。

 尤もらしいことを宣う悪魔に、俺は負けた。


「……ほら。女の子のコト、興味あるんでしょう?」


 そう言って、女性は近づけていた顔を離し、ブラウスの胸元を上に持ち上げた。

 女性は得意げな笑みを浮かべて、俺の鼻を突いた。……は、図られたっ!?

 俺は自身の醜態を自覚し、恥ずかしさのあまり口をポカンと開けて硬直する。なんという魔性の女。大人の女性とは、こうも男を手玉に取ってしまうのか。恐るべし……!


「……ん?」


 唐突に違和感を覚え、俺は首を傾げる。

 今の一連の会話で、何かおかしいことがあった。


「女の子ばっかりって、もしかして昨日の一件以外も見てたんですか?」


 我ながら、自意識過剰な質問だ。しかし彼女は俺に「いつもあんな感じなの?」と尋ねてきた以上、ちょっとした矛盾か生じてしまう。ただの言い間違いだろうと考えつつも、俺は女性の回答をのんびりと待った。


「え、えーっと……」


 あからさまに狼狽する女性。頭の中で言葉を選んでいるのだろう。

 しかし一方、俺の頭の中では激しい妄想ワールドが展開されていた。

 もし、仮に、彼女が俺のことをいつも見ているのだとしたら……それは俺の「ファン」ということだ。漲る興奮が手に汗を握らせる。ついに俺の行いが報われたのか。


「――あ、もう駄目。無理、面倒臭くなっちゃった」


 途端に声の質を変えて、右隣に座る女性は吐き捨てるように言った。

 美しい黒髪を右手で掻き毟り、十メートル離れていても聞こえるくらい大きな溜息を吐く。そんな彼女の豹変ぶりに俺は動揺し、思わず腕にぶら下げていた鞄を地面に落とした。


「あーあ、だから私じゃ無理だって言ったのになぁ」


 清廉潔白を彷彿とさせていたその仕草、口調はあっという間にがさつで男勝りなものへ。

 これが所謂ギャップというやつか、と考える程度の余裕はあったものの、何故か冷や汗が止まらない。得体の知れない恐怖に、俺は気がつけば全身を震わせていた。

 目の前には魅力的な大人の女性。

 周りには平和の象徴たる鳩の群れ。

 つい先程まではいい雰囲気だと勝手に思い上がって胸を高鳴らせていたものの、今は別の意味で鼓動が加速している。お化け屋敷を前にした時の感情に似ていて、ジェットコースターで急降下する直前の感情にも似ていて……ああ、そうだ。思い出した。

 これは、昔、田舎で熊に襲われた時の感情とそっくりだ。


「話を切ってくれてありがと。おかげで私も、時間に余裕を持ってあなたを殺せそうだわ」


 殺す。彼女は確かにそう言った。

 気のせいでも何でもない。身の毛のよだつこの悪寒は本物だ。

 自分の抱く感情を理解した直後、何かが俺の頬を掠めた。


「……え?」


 生暖かい液体が頬を垂れる。

 同時に、背後で大きな衝撃音がした。

 ベンチに体重を預けていた俺は、突如宙に浮いたかの様な感覚に陥った。尻餅をついた俺の腕が地面以外の何かに触れる。……ペンキの塗られた木片、粉砕されたベンチの残骸だ。


「はいはい、大人しくしといてねー」


 目の前のお姉さんは、活き活きとした表情で俺を見た。腕には灰色の鎖がぐるぐるに巻きつけられており、それは俺の隣でピンと張っている。

 恐る恐る後ろに振り返ってみると、そこには鎖に繋がれた棘付きの鉄球が転がっていた。柄が無いものの、棘付き鉄球と鎖が連結したこの武器は……確か、モーニングスター。

 こんなもの女性が振り回すものじゃない。というか普通、振り回せやしない。


「んしょっと」


 鎖に巻きつけられた右腕を、女性は軽々と持ち上げた。

 たったそれだけの動作で、人間の頭よりも大きい鉄球が彼女の手元に跳ねるように戻る。

 鳴り止まない警鐘が脳を焦がす。ジリジリと喧しい音色は目覚まし時計よりも不快で、目を背けたいという気持ちに駆られてしまう。それでも思考を手放すことはできず、目の前の現実は刻一刻と俺の中で噛み砕かれていった。

 何だ……これ。

 あの人は、今……何をした。

 あの鉄球を、俺に向かって飛ばしてきた。

 俺を、殺すために……?


「あ、ああ、うわあああああああああっ!?」


 正しい判断なのか、自信はない。

 ただ、今はひたすら逃げることだけを考える。

 理性が働かない。代わりに本能が身体を動かした。アレはやばい。アレには近づくな。先程の彼女の言葉と、その行動が脳裏に過る。あの女性は、俺を殺そうとしているのだ。

 涙を堪えながら走る。震える足は思うように動かない。それでも前へ進む。

 それにしても、おかしい。いくらなんでも人気が無さ過ぎる。あれだけ大きな音が響いたにも関わらず、騒ぎが起きない。幾ら公園が安閑とした空気であったとしても、鉄球が地面を抉り、ベンチが大破すれば人の注目くらい浴びる筈だ。


「――ッ!?」


 次の瞬間、俺は無意識に真横に転がっていた。

 砂埃が視界を覆うが、二秒と経たない内に轟音と共に霧散する。

 地響きで尻が浮く。眼前には、鉄球によって抉られた地面。

 転がっていなければ今頃お陀仏だ。


「おかしいなぁ。発動してないみたいだし……場慣れってやつ?」


 心底不思議そうな……しかし愉快そうでもある声が公園に響く。世間の賑わいと隔離されたようなこの空間で、それは死神の足音さながら、不気味な奏だった。


「大丈夫だって。痛くないから」

「い、痛いとか、そういう問題じゃ……」


 起き上がり、再び逃走しようとするが……拙い。立ち上がれないっ!?


「ん? あれ、まさか……腰抜けちゃった?」


 最悪なことに、彼女の言う通りらしい。

 女性は以前とはまるで違い、どこか醜悪な印象を醸し出す。SMクラブの女王様って、こんな感じなのだろうか。これで悦ぶとか馬鹿じゃねぇの。

 蔑まれる視線から逃れるように、俺は後方へ芋虫のように這いずった。


「それじゃあ、そろそろ終わらせるね」


 その一言には感情が込められていなかった。俺をそこらの害虫とでも思っているのか。それとも、人間を殺すことに対した関心を持っていないのか。

 淡々とした作業。彼女にとって、鉄球を振り回すとはそういうことなのか。

 分かるのは一つだけ。後数秒もしない内に、俺は死ぬということだ。


「ふ、ざける……な」


 歯を食いしばり、俺は上半身だけでも後ろに向ける。

 例えすぐに死ぬとしても、せめてもの抵抗を見せつけたかった。

 無様に死ぬことだけは御免だ。だってそれは、ヒーローらしくない。

 悪魔のような女は、一言も放たずに鉄球を射出した。右手首から生える灰色の鎖がジャラジャラと音を立てて伸び、鉄球は乱回転しながら顔面に飛来する。

 死ぬ間際。俺は何一つ考えることなく、無心で鉄球を待ち構えていた。

 何の感情も抱かない。恐怖とか、後悔とか、そういった人間らしいものと切り離されたような錯覚があった。生きているという実感が、俺が俺であるという実感がまるで沸かない。もしかして既に死んでいるのか、とさえ思うってしまう。

 走馬灯が浮かばなければ、世界がスローモーションになったりもしない。

 何だよ、全部嘘っぱちかよ……。

 世間では色々と言われているが、死ぬ間際の現象というのは全部嘘らしい。

 折角知ったのに、誰にも伝えられないのは勿体無い。死人に口なしとは不憫なことだ。

 そんなことを考えつつ、俺は――鉄球が、真横に弾き飛ばされるのを見た。


「……は?」


 その声は俺が漏らしたのか、鉄球の持ち主が零したのか。

 勢い良く横に弾き飛ばされた鉄球は、公園の木々を破壊しながら突き進む。繋がれている鎖は途中で止まることなく、延々と女性の手首から引き出されていた。

 た、助かったのか……?

 安心感によって視野の広まった俺の目は、自分のすぐ隣に立つ銀髪の女性を映し出した。

 体格からして、女性と呼ぶよりも少女と呼ぶべきか。だが、ただの少女ではない。俺は確かに見た。……あの鉄球を指先だけで弾き飛ばした、彼女の姿を。

 少女は身に纏う和服を翻し、冷酷な視線で鉄球の持ち主を睨む。


「嘘、こんなに早く嗅ぎつけるなんて……」

「お生憎様です。この世界は一般人に対する神秘系統の秘匿が、特に厳重なのですよ」


 銀髪の少女が足を進める。雪駄が砂粒を踏み潰す音が、静寂を切った。

 黒髪の女性が、身を大きく後方へ跳ねさせる。その腕に巻かれていた鉄球はいつの間にか消えていた。焦って後退する彼女の姿が、先程までの俺の姿と被る。俺を殺めようとしたあの悪魔のような女性は今、明らかに逃げていた。


「逃がしません」


 雪のような長髪が揺れる。

 次に俺が見た光景は、空中で逆立ちした少女と、首に鎖を巻きつけられた女性。

 舞うように回転しながら宙に浮く少女は、黒髪の女性と同じように手首から鎖を放つ。

 あの鉄球に繋がれていた鎖とは違い、少女の操るそれは繊細な造りをしていた。俺でも簡単に千切れそうな細さだが、その鎖は速い。獲物に喰らいつく蛇の如く女性に巻き付いた。

 純白の鎖がとぐろを巻くように女性に絡み、やがてそこに残ったのは白い鎖のオブジェクトのみ。隙間なんてどこにもあらず、内側にある美しい黒髪は一切見えない。


「……ふぅ」


 汗なんてかいていないだろうに、少女は額を手の甲で拭う。

 銀髪に和服、おまけに雪駄という奇抜な姿をした彼女は、公園をバックにしてはとても目立っていた。浮世離れした容貌はただでさえ薄れている現実味に、とどめを刺すかのように俺の脳内に強く焼き付けられる。奇抜で物珍しく……とても、綺麗だ。

 和服から僅かにはみ出る肌の色は、髪と同じ白。その白さは美しさを通り越し、まるで氷のような冷たさを思わせる。美しいがゆえに、触れれば壊れてしまいそうな儚さだ。

 雪が人に化けた姿。そんなイメージを俺は持つ。

 少女は鎖の塊を一瞥し、次に俺の方を向いてツカツカと歩み寄ってきた。


「気分はどうですか?」


 その問が俺に向けられているものだと、最初は理解できなかった。

 現状は一つも把握できていない。あの黒髪の女性がどうなっているかも良く分からないし、目の前の銀髪の少女だって誰だか分からない。

 でも……可愛い。今までに見てきた女の子と比べ、凄く可愛い外見をしている。

 それに、先程のあの動き。少し怖かったが、それ以上に俺は綺麗だと感じていた。サーカスや雑技団の動きに似た、脈動感と緊張感の織り交ざった殺陣。

 吊り橋効果が適用したのか、無意識の内に俺は本音を晒していた。


「あなたに惚れそうです」


 ピシリ、と空気が凍った。

 やっぱり彼女は雪の精なのか。気温も十度は下がった気がする。


「……取り敢えず、マニュアル通りに進行させて頂きます」


 無視である。だが、おかげ様で俺も少しは余裕を取り戻せたみたいだ。

 俺は地べたに座ったまま、少女に見下ろされる形で耳を傾けた。


「あなたは萩一真司様で間違いありませんね?」

「あ、はい。そうです」


 そういうあなたは何者なのでしょうか。

 そう聞こうとしたが、どうやらまだ彼女の話は終わっていないらしい。

 少女は身動き一つすることなく、続けざまに声を発した。


「身長百六十五、体重五十五、座高は八十四の萩一真司様で間違いありませんね?」

「多分合ってます」

「家族構成は、実の両親二人に義理の妹が一人の、萩一真司様で間違いありませんね?」

「合ってます」

「幼少期の頃から特撮ヒーローものが大好きで、いつも夜遅くにこっそりと必殺技の練習をしているものの、先週ついに妹の萩一由奈様にそれを目撃されてしまい、土下座で内緒にしてくれるようにと頼んだ、無様で情けない萩一真司様で間違いありませんね?」

「待て待て待て。合ってるけどちょっと待てお前」


 この女、とんでもないマニュアルを持ってやがる……!

 それにしても、一体どこで俺の情報を……はっ、まさか!?


「そうか……お前、俺のファンだな?」

「違います」


 更に気温が下がった気がした。


「では、これにて本人確認終了です」


 しれっと続ける少女に、俺はかつてない不安を抱く。


「萩一真司様、あなたには二つの選択肢があります」


 白磁のような二本の指を伸ばし、少女は真っ直ぐに俺を見据える。

 一陣の風が吹き、瞼の上では黒い髪が、目の前では銀の髪が斜めに揺れた。


「――全てを忘れるか、全てを知るか」


 極端な二択の選択を強いられる。何を言っているのか、と笑い飛ばすような気持ちは沸かなかった。少女の眼差しが、只ならぬ気配を醸し出していたからだ。

 焦点の合わない瞳でピンと伸ばされた指を見る。

 どちらを選ぼうが、結果どうなるかは予想すらできない。

 俺は――。


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