復讐は舞台裏で
自らの人生に絶望した男がいた。
長い間、夢を見続けていた男だ。歳は既に四十を超えており、白髪の混じった不衛生な黒髪は、雨水に濡れることで海藻のように顔面に張り付いている。狭い路地裏で酔っ払ったかのように肩をぶつけながら歩を進め、その度に衣服に埃が纏わり付いたが払いもしなかった。
このような醜態、ほんの数年前の男からは想像もできないことだ。あの時の男はギラついた双眸であらゆる物事を冷静に対処し、仲間を常に良き方向へと導いていた。異性への意識が高かったため、清潔感にも人一倍気を配っていた程である。
世間体は悪かったが友情には恵まれていた。数人の異性には慕われていたし、背中を預け合う仲間も何人かいた。気苦労に耐えない日々だったが、充実している人生ではあった。
それでも男は耐えられなかった。自身に課せられた役割に、遂には憤りが限界を通り越してしまったのだ。報われない日々、他人の踏み台になる生涯。自分は自分のためではなく、常に他人のためだけに存在している。そんな哀れな己の境遇に、男は意趣返しを決意した。
ただ舞台を降りるだけでは満足しない。この身この心を蝕んだ元凶に、報いを与えてやるのだ。それが例え、目の前の見知らぬ少年の人生を狂わせるとしても、男の復讐心は留まるところを知らないだろう。最早、その瞳は汚泥の如く濁りが渦巻いていた。
「そこの君」
名も知らぬ少年に男は声をかける。
罪悪感はこれっぽっちもない。あるのはただ、束縛から解放される喜びと、これまで自分を利用してきた者達に対する怨嗟のみ。男は自らを好敵手と呼ぶ存在を頭に思い浮かべ……腸が煮えくり返った。これほど恨んでいるのに、よくもまあ今まで堪えてきたものだ。
「誰、あんた?」
片手をポケットに突っ込んだまま、少年は怪訝な視線で男を見る。まだ小学校低学年くらいだろうに、見知らぬ男に声をかけられても動じない胆力を少年は持っていた。刺々しい返答を容易に口にする少年に、男は納得する。成る程、確かにアイツが見込むだけはある。
「私が誰かなぞ、どうでもいい。それよりも、君に一つ贈り物がある」
一歩近づくと一歩距離を置かれるが、男は構わず歩み寄った。
待ち人がいるのだろうか。少年は目に見えて警戒していたが、その場を離れようとしない。
好都合だ、と男は内側で笑う。
「君はゲームが好きかい?」
「普通」
「おや、珍しいな。最近の子供は、暖を取りながら指先でピコピコしているものだとばかり思っていたよ。君は本当に優秀な子供だね」
男が褒めると、少年は満更でもない表情で頬を掻いた。
この少年は本当に優秀だ。……自らを好敵手と呼ぶ、アイツが選ぶ理由もわかる。だからこそ男の仕返しも成り立つというもの。
世界を股にかけたあの糞野郎が、やっとの思いで見つけた存在。
それを好敵手である自分に奪われるとなると――どれだけの屈辱を覚えるだろうか。
楽しみだ。これまでにないくらい、楽しみだ。
「では、質問を変えよう。少年は何か好きなものがあるかい?」
「暴露戦隊チェスレンジャー!」
「……随分とふざけた名前だね」
よほど好きなのか、少年は目を輝かせて言い切った。
娯楽文化に乏しい男の知識ではその詳しい内容まではわからないが、大まかな想像はできる。いわゆる、特撮ヒーローものだろう。休日の朝に放映されている子供向けのフィクションだ。もし男が世帯を持っていたら、縁があったのかもしれない。
「少年、君はヒーローに会いたいかい?」
「会えるの!?」
「ああ、会えるさ。今から私が、そのために必要なモノを君に与えよう」
男の掌が淡い橙の光を放つ。路地裏の薄闇を払うような明るさは持っていないが、見る人の気持ちを和らげる優しい輝きだ。見た目だけならこうも美しいものなのだな……と、男は内心で悪態を吐く。その仄かな彩りがまた苛立たしい。自分はこれに人生を狂わされたのだ。男の瞳にように、もっとどす黒い色であるべきだ。
「目を閉じて」
男の言葉に従い、両の目を閉じる少年。
橙の光が、少年の身体に吸い込まれるように消えていった。
「おめでとう。これで君は、常にヒーローの傍にいられるよ」
厳密にはヒーローだけではない。男が渡したモノは、勇者、奸雄……そして、英雄といった類を引き寄せる性質を持つ。少年からしてみれば願ったり叶ったりだろう。
ありがとう、と礼を言う少年に、男は腰を折って踵を返した。
これで成功。男の復讐は今、完了した。
「……そう。常に傍にいるが、決して重なりはしない。少年よ、君にできることは……精々、彼らを引き立てることだけだ」
さて。後継者を奪われたあの糞野郎は、それを知った時どんな顔をするのか。
路地裏に、男の卑屈な笑い声が響いた。




