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肩書戦争  作者: サケ/坂石遊作
一章 不遇のヒーロー
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不遇のヒーロー

 小学校低学年くらいの目線となった萩一真司の瞳が、一人の人影を捉えた。

 真司の三十メートル先でトコトコと歩くその女性は、時折首を傾げては立ち止まり、数秒の硬直を挟んでまた歩き出した。向かうところにあるのは大きくとも小さくともない平均的な一軒家。表札には達筆な文字で「萩一」と記されている。


「……なるほど」


 自らの妹の後ろ姿が家中に吸い込まれるのを見届けた後、真司は呟く。

 黄昏の空の下。所々ペンキの剥がれているベンチに腰掛けている真司は、真正面で両腕を前に直立する和服の少女へ顔を向ける。双方とも、疲弊しきった身体は当然ながら癒えていない。体力面には自信のある真司も、今ばかりは流石に気怠かった。

 視線を落とすと、このご時世見るのも珍しい雪駄が目に入る。

 どこで手に入れているのやら、何故そのようなものを好んで履いているのか。思考したくない脳が現実逃避として疑問を渦巻かせるも、それらを気合で押し殺した。

 夫婦連れの平和な空気に当てられないように、気を引き締める。


「つまり、観客がいなければ演じる必要はないってことか」


 フィア……もとい、白羽雪が「ご明察」と首を縦に振る。

 雪の作戦は、まさに肩書戦争のエキスパートらしい、理に適ったものだった。

 真司の所有する『悪役』は、レベル九という規格外の力は持っているものの、所詮は有り触れた極普通の肩書……舞台上でしか存在できない脆弱な代物だ。

 故に、『悪役』が因果を改変させるということは、その舞台に何かしらの不備があったからと考えるのが妥当である。例えば、悪役を任されている筈の役者が、何故か善行に走ったとしよう。すると当然、予定していたその後の展開は崩れるし、思い描いていた内容は滅茶苦茶になる。観客席からは大ブーイングが放たれるだろう。

 真司の『悪役』はそういった事態を免れるために、因果を改変する。

 仮に役者が似つかわしくない行為に走ったとしても、その後の展開に差し支えがないように辻褄を合わせようとするのだ。パズルとパズルの間に、間違ったピースを無理矢理詰め込もうとするかのように……そうして生まれる歪みが、理不尽の正体だ。

 人助けを行えば、それは悪役に相応しくないと判断され、相手に恐怖の印象を植え付ける。怪我をした子供に手を差し伸べれば、やはり相応しくないと判断され、やはり相手に恐怖の印象を植え付ける。そうすることによって、真司を悪役たらしめる。

 しかしこれは、観客が悪役を善人と誤認しないように作用しているまでのこと。

 なら、その観客がいなくなれば、どうなるのか。

 観客がいないのなら、役者の演技を見る者はいない。主人公が身近な異性にセクハラしようが、背景の木が自律移動しようが、悪役が善行に走ろうが、咎める者は誰もいない。

 咎める者がいなければ、辻褄を合わせる必要もない。


「あー……気が抜けた」


 観客である由奈に善人と認識されたら、『悪役』がまたしても因果を改変してしまう。

 好き好んで悪事という結果を残したいわけでもあるまいし、当たり前だが真司はその阻止にかかった。そのために倒れ伏した妹を放置するというのは若干抵抗を感じたが、こうして無事に帰宅したところを確認すれば思い残すことはない。

 観客不在により、舞台は破綻。

 悪事という結果を残さずに済んだ真司は、ふと、浮かんだ疑問を発した。


「もし、あの場で由奈が目覚めていたら、どんな結果になっていたんだ?」

「そうですね……まず、由奈様は、真司様が自身を助けてくれたことに気づくでしょう。その瞬間、真司様が持つ『悪役』の特典【因果悪報】が作動します」


「仮想計算機(ifシミュレーター)によれば、こんな感じですね。……まず、最初に、真司様が投擲した石ですが、どうもあの付近には、お金持ちの方が住む家があったようです。由奈様が目覚めていれば、真司様の肩書が作用し、投擲した石は、そのお金持ちの方の家の壁を突き破ったことになります。そして、その住人が家宝として扱っている彫像を粉々に破壊します。気づいた持ち主は犯人を探すべく警察に連絡を入れますが……どうやらその家宝、とんでもない値打ち物みたいで、やがては街を軽く騒がせるほどの事件となるそうです」

「……」

「また、真司様が亀裂を入れた地面ですが、どうやらあそこは、ほんの一ヶ月前に舗装しなおした道路みたいです。近くには保育園があり、工事中の道路封鎖には、子供の送り迎えが不便になると、親御さんたちから数えきれないほどの苦情がありました。それが先月、漸く終えて、再び平和になったそうなのですが……あの場で由奈様が起きていれば、きっと、再び工事をしなくてはならなかったでしょう。今回は偶々、偽造隊が素早く修復していましたが、悪役が効力を発揮していれば、恐らくそれが間に合わなかったと思われます」

「お、おぉ……」


 良かった。本当に良かった。あの場で由奈が目覚めなくて。

 戦慄する真司の隣では、雪も顔を顰めていた。どうやら、この『悪役』という肩書は、雪のような管理人にも作用するらしい。偽造隊の処置が遅れるとはそういうことだ。はっきり言って、少々、強力すぎる効果である。


「しかし、観客と、それ以外の線引きが曖昧だよな」

「そう、ですね……これは、言ってもいいのでしょうか」

「ん?」

「ちょっと待って下さい」


 不意に、雪がこめかみの辺りの人差し指で突く。そのまま瞼を閉じた彼女は、暫く口を閉ざしたままだった。まるで脳内の誰かと交信しているような様子を見せる彼女に、真司は退屈そうに空を仰ぎ見る。


「特例処置の許可が出ました。では、真司様の『悪役』について、幾らかの情報を提供しましょう」


 どうやら本当に交信していたらしい。

 真面目なトーンになった雪の口調に、真司も首を深く縦に振った。


「真司様の『悪役』には、複数の特典が存在します。その中でも、常時発動型であるのは、【悪目立ち】、【勧善懲悪】、【巡り合わせ】、【因果悪法】、【舞台創造】の五つです」

「多いな……」

「ええ。これは異例の数です。レベル九は伊達ではありませんね。……それだけでは無いようですが」


 後半、雪は言葉を濁したが、真司はそれどころではなかった。

 既に嫌な予感しかしない。なんだ、悪目立ちって。


「観客に関する特典は、五つ目の【舞台創造】です。この特典は、真司様が肩書を行使した直後、周辺の人間を幾つかの役割に分類するといった能力です。具体的には、役者、関係者、観客の三種ですね」

「観客の他にも、二つ存在するのか」

「はい。まぁ、その二つや、他の特定については個人で調べておいて下さい」


 雪の言葉に、真司は再度、頷く。


「【舞台創造】によって、観客に分類される対象は、真司様が持つ『悪役』の、能力の詳細を知らない人です。いいですか、条件は、『能力の詳細を知るか否か』です。つまり、あの時で言うならば、アグナやベックテレンの二人が、観客として作用していたことになります」

「ん? ちょっと待て。あの場に、観客はいたのか?」


 てっきり、誰も観客がいないから、悪事という結果が残らなかったと真司は思っていた。

 だが、雪は真司の疑問を肯定し、説明する。


「彼らは観客です。真司様が、悪事を働かずに済んだのは……彼らが、真司様に感謝しなかったからです」

「感謝?」

「はい。要約すれば、真司様の持つ肩書『悪役』の特典【因果悪報】は、次のような条件が整った時に、効果を生じます。即ち、観客が、真司様に対して、感謝した時です」


 成る程、と真司は納得する。

 確かに悪役が観客から感謝されるのは、舞台の破綻を意味する。

 だからこそ因果の塗替えが生じるのだろう。


「それより――気づいてないみたいですので、はっきりと言っておきますが……」


 急に、雪が冷徹な声音で告げた。

 全身から醸し出す、鋭い、怒気にも似たような気配に、真司が緊張する。


「真司様は、戦闘中、あの二人に対し、ご丁寧に能力の詳細を説明しましたね?」

「あ、ああ。いや、まぁ勢いというか……やっぱりさ、ヒーローを志す以上、演出というか、場を盛り上げるための台詞は必要だと思うんだよ。あの時の俺、中々キマってなかった?」

「キマってるも何も、そのせいで、あなたの力はもう二度と、彼らには通用しません」

「……え?」

「能力の詳細を喋ってしまったのですから。あれで、あの二人はもう、真司様の観客にはなりえません。以降、彼らを撃退するには、また別の……第三者の観客が必要になります」


 冷たく発す雪の台詞を、真司は暫く理解できなかった。

 納得するよりも先に、浮かび出た疑問点を口にする。


「ちょ、ちょっと待て。他の観客が必要ってのは、どういうことだ。観客がいなければ、俺はデメリット無しに能力が使えるんだろ? だったら、あいつらが観客でなくなるのは、寧ろいいことなんじゃ……」

「ああ、いい忘れていましたね。『悪役』は、周囲に観客がいないと力を発揮しません」

「はぁ!?」


 なんだそりゃ! ふざけんな!

 心で罵詈雑言を吐く真司。だが、僅かに納得もできる。

 そうなのだ。真司の肩書は『悪役』なのだ。舞台から降りれば、その時点で、『役』ではない。つまり真司の能力は、あくまで舞台上でしか成立しないものとなる。

 それでも、疑問は雪崩の如く押し寄せた。


「わ、わけわからん……大体、アグナやベックテレンは、どうして観客なんだよ。いくら俺の能力の詳細を知らなかったとは言え、あの状況だと、俺と同じく舞台上に立つ人間……役者と扱われるべきだろ」

「デパートの屋上で行われているヒーローショーについて、真司様は知っていますか?」

「あぁ、そりゃ、まぁ。毎週見に行ってるけど……」

「偶に、観客である子供を、舞台の上に立たせる悪役がいるでしょう? ヒーローに対する人質として。要は、そういうことですよ。……役者というのは、真司様の事情を知り、その上で、真司様と何らかの行動を共にする者です。あの時のアグナやベックテレンは、限りなく役者に近い人物でしたが、辛うじてそれには該当しませんでした。どうやら【因果悪報】を知るかどうかが、最大の鍵のようですね」

「因果の塗替えについて、か。……要は、俺が意識とは無関係に、悪事を働いているということが、伝わったら駄目なんだな。……くそっ、一番伝えたいことじゃねぇか。あー……ややこしい! どうすりゃいいんだ!」

「『配役系統』の肩書が、使いにくいと言われる所以はそこにあります。頑張って下さい」


 他人事のように言う雪に、真司は恨みがましく睨んだ。

 既に真司の頭はパンクしていた。聞かねば、そして理解せねば、自身の命に危機が及ぶ。そう分かっていても難しいものは難しい。かつて、これほどまでに、自身の頭の悪さを恨んだことがあるだろうか。……割りとある。


「この力は、本当に、アテになるのか……?」


 無意識の内に、真司の口から不安が零れた。

 ヒーローになりたいという願望は依然として存在する。寧ろそれは、肩書戦争に参加してからというものの、さらに色濃く輝き出した。だが、雪の説明を聞いて僅かに逡巡する。

 こんな力、振るわない方がいいのではないだろうか。

 感謝を避ければ、実質デメリット無しに力を振るうことができる。だが、いつか、そのようなことに気を回す暇のない、真の窮地が訪れるだろう。その時の戦いで勝利を刻むためには、躊躇なく悪事を働くしかない。いざというとき、自分にその覚悟が決められるだろうか。決めなければ敗北。決めたところで、後に待つのは尋常ではない被害だ。

 戦っても人に迷惑を掛けるようでは意味がない。悪事を働いた末のヒーローという肩書を、自分は本当に魅力的に感じるだろうか。

 なら、いっそ、こんな肩書。捨ててしまった方が――。


「迷っているのですか?」

「……ああ」

「ですが、相手は待ちませんよ」


 きっぱりと言う雪に、真司は眉を潜めた。


「『悪役』の肩書は、本物の悪人たちにとっては、この上なく魅力的です。なにせ彼らは、悪事を働くことに微塵も躊躇がないのですから。相性も相まって、真司様と比べて、何十倍もの効力を発揮するでしょう。彼らは気が向くままに、その絶大なる力を振るうことができる。……この意味が、分かりますか?」

「おいおい……笑えねぇな。でも、そりゃあ、そうか。そう、なるか」


 この肩書は、本物の悪人が使用すれば、最高に使い勝手の良い代物だ。

 だから、アグナもベックテレンも。これを欲した。

 いや、彼らだけでない。


「狙われているんだな、俺は。ありとあらゆる、悪の組織に」


 雪が首を縦に振り、口を開く。


「そして、真司様は絶対に、負けてはなりません。『悪役』が真の悪の手に渡れば、私たちの平穏は、確実に脅かされるのですから」


 そうだろうな、と納得した。

 最低の相性である自分でも、アグナとベックテレンを撃退するほどの実力を得られたのだ。あれだけの力を、最高の相性で、しかも無遠慮に使えるということが、どれだけの恐ろしさか。持ち主である真司ですら、想像もつかない。

 そして、その被害がどれほどのものなのか。想像できるわけがない。


「それこそが、今の真司様に掲げられる"正義"です。その肩書は、簡単に他の誰かの手に渡ってはならない。悪意ある者は勿論。真司様が持つ『悪役』は、善性の人間ですら、悪の道へ踏み外してしまうほどの魅力があります。――だからこそ、真司様が持つべきなのです。誰よりもヒーローを志す真司様は、誰よりも『悪役』から遠い存在なのですから」


 目を逸らすことなく、雪は伝えた。

 彼女にしては珍しく情熱的で饒舌な口調。管理人としての補佐をしているわけではない。これは、ただの個人に対する声援エール。そこに熱く、大きな感情が篭っていることが、どれだけの感謝を生むのか。きっと彼女は分かっていない。


「故に、断言しましょう」


 雪は言った。真司は、鼓動の高なりを感じながら聞き届けた。


「世界を脅かす危険因子。悪を促し、破滅を誘う、最低最悪の肩書である『悪役』は、きっと今――世界で一番、安全な場所に在ります」


 熱く、血流が全身を巡った。

 正義とは、なんとも重苦しい言葉だ。その責任の重大さが、今、漸く伝わった。自分は、こんなにも重たいものを背負おうとしていたのかと、真司は過去の考え足らずの自分を罵る。

 けれど、不思議と悪い気分ではない。

 真司は唇で小さく弧を描いた。


「は、はは……」


 苦笑する。だが、その胸中で。燻りかけていた炎が、再び滾った。

 大義名分でも何でもない。そんな自己を説得するかのような理由で動けるほど、真司は賢くない。だがこれは、そんな付け焼き刃のものではない。紛うことなき、真司が本気になって戦う理由だった。

 正義がある。正義が在る。ここに、自分の戦う理由が――。


「やるな、白羽」

「と、言いますと?」

「炊きつけるのが、上手いってことだよ」


 照れ隠しのように、視線を逸らして言う。


「今ので、まぁ、不安は残っているが……少しは、やる気が出た」


 抱え続けろ。この爆弾を。いずれ、自身が世界に誇れるヒーローになるまで。

 覚悟を灯せ。これは茨の道だ。挫けたら、世界を巻き込んだ終焉が訪れる。

 

「少し、ですか。それは残念です。もっと本気になってもらうつもりでしたが……」

「んじゃあ、訂正する。今、すっげぇやる気出てるぜ」

「どっちですか」

「どっちでもいいだろ」


 軽口を叩き合う。気がついたら、二人とも笑っていた。


「しかし、感謝されちゃ、いけないヒーローねぇ……」

「やりようは幾らでもありますよ」

「あっても、辛いもんは辛いんだよ」


 感謝される前に逃亡するか。それともいっそ、観客ごとぶっ飛ばすか。流石に後者はない。

 漲るやる気に反して、浮上する悲しい事実。そこでふと、真司は気づいた。


「……あれ? 待てよ。これって要するに、今までと同じってことか?」

「ですね」

「なんだ、そりゃ」


 今まで通り、変化なし。

 激戦を掻い潜った真司からしてみれば、あまりにも味気ない。

 真司は溜息を吐いた。ありとあらゆる鬱憤を、諦念に変えて。腹の底から吐き出した。

 だが、今はそれでもいい。自分がこうして生きながらえているだけで、報われるものがある。状況は依然として変わらないが、今は、それで納得しておこうじゃないか。


「ま、しゃーねぇか」


 再度、溜息を吐く。

 それから顔を上げた真司は、すっきりした表情を浮かべていた。



 *



 何はともあれ、一件落着である。

 歩きながら、雪は真司の様子を窺った。女の子一人をこんな時間に放っておくのは忍びないと、真司は告げたが、きっとそれは、理由の内、半分だろう。一方でこの男は、家に帰って妹の由奈から色々と詰問されたくないと思っているのだ。どうせ、ただの時間稼ぎにしかならないだろうに……とは口にせず、雪は素直に、真司の好意に従うフリをした。


「……あの、真司様」


 僅かに緊張の篭った声を、雪は口にした。

 完全勝利とはいかないものの、今回の一件で真司はビギナーとは呼べない程の活躍をしてみせた。アグナとベックテレンをその場で捕縛できなかったのは雪としても悔やんでいるが、この身が無事であるのは間違いなく真司の奮闘が起因している。

 よければ、祝勝会でもやりませんか……?

 基本的に他人行儀な台詞ばかりを発す雪にとって、その言葉はかなり恥ずかしい。というか先程、真司に対して檄を飛ばした件についても、発言の全てを撤回したいと思っている。真司の頭が子供で良かった。あんな臭い台詞を一般的な異性に告げようなら、妙な誤解をされかねない。そういう意味では雪の被害はゼロなのだが、それでも羞恥心は爆発寸前だった。穴があったら入りたい。

 それでも雪は頑張った。このまま別れてしまえば、真司の頑張りに、誰も、何も報いなかったことになってしまう。

 それは嫌だった。口にはしないが、雪は、真司の働きを認めているのだ。

 白い頬に宿る紅潮は実に分かり易く、それを自覚していながらも言葉を続けようとする。

 しかし、顔に熱を感じながらも雪が隣を見たとき、そこに真司はいなかった。


「大丈夫ですか?」

「あぁ、すまんのぅ」


 キャスター付きの旅行鞄を両手で引っ張る老婦の前で、真司が「いえいえ」と愛想よく笑う。どうやらキャスターが一部破損したらしく、うまく運べないらしい。状況を理解した真司は、実に手慣れた所作で、鞄を持ち上げ、老婦の代わりに運んでやった。

 ああ、十中八九、【因果悪報】のことを忘れているんだろうなぁ、と雪は苦笑する。

 馬鹿な男だ。馬鹿な行動だ。でも、微笑ましい。

 赤らんだ頬を保ったまま、雪は真司に追いつこうと早歩きする。


「しかし、お顔を隠す必要はあるのかぇ?」

「強面なんで。見ればきっと心臓止まっちゃいますよ」


 経験上、顔を見られたら怯えられると悟ったのだ。

 顔を隠してまで、人助けをしたいというのが真司の意志だ。小一時間前、アグナたちと戦う前に、真司とした喧嘩を思い出した。そう言えば、まだ謝罪していない。

 老婦の人助けが終わったところで、まずは謝罪しよう。そして祝勝会のお誘いだ。

 脳内で次に自分が言う台詞を何度も反芻しているとき、雪は見た。

 真司の背負う旅行鞄は、僅かに口が開いていた。その狭い隙間から、スルリと黒を貴重とした金縁の長財布が落下する。財布は重力に従い、音を立てることなく真司の学生服にあるポケットへスッポリと入った。そして、それら一連の流れを、雪の他に、もう一人の人物が見ていた。

 その人物。本当に偶々そこにいただけの通行人が、驚きを露わにして――。


「す、スリだぁぁ!!」


 直後、真司は逃げた。その声が自分に掛けられたものであると確信していないだろうに、真司は今までの経験則から一目散に逃亡することを最善手とした。

 ポケットに重みを感じると思えば、いつの間にか入っている長財布。これが元凶だと悟った真司は逃げ道を引き返し、呆然とした老婦に財布を握らせ、再度逃走する。そのあまりにも馬鹿らしく、また不憫な境遇に雪は同情の涙を隠し切れないでいた。

 どう足掻いても報われない。

 それでも愚直にヒーローを目指す。

 不器用な生き様を長い間突き進んできた真司にとって、これはその一欠片にしか過ぎないのだろう。常人ならば心が挫けてもおかしくない状況だ。


「……取り敢えず、出来る限りは助けてあげましょう」


 複数の男によって取り押さえられている真司に溜息を吐き、雪は携帯電話で偽造隊へと連絡を取る。損ばかりする無様な男だが、それでいてどこか魅力を感じるのだから不思議だ。

 祝勝会が始まる頃、真司は数回に渡る取り調べで、すっかりダウンしていた。




現在の萩一真司の肩書。

『高校生』『人見知り』『大会参加者』『悪役』

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