第八章 秋姫対峙 4
四
翌朝。榎はまた一人で、放浪者みたいに外に出た。
目的があったわけではない。でも気がつくと、妙霊山にやってきていた。
キャンプ場や、山頂近くの展望台に続く遊歩道は、観光客で賑わっている。だが、ちょっと裏手にある道を超えて行くと、人っ子一人、見当たらない。閑散としていた。
榎は、了封寺の門前にやってきた。
初めて、萩と出会った場所だ。みんなが、酷い目に遭わされた場所でもある。
寺は人の気配がなく、静かなものだ。了生は、どこかに出かけているのだろうか。
榎は寺の門の脇に鎮座する、大きな苔むした石に座り込んで、呆然と山の木々を見つめていた。
正直、絶望していた。
榎の力では、どうにもならない。距離を縮めようと、精一杯頑張ってみても、萩の気持ちは微塵も動かなかった。
諦めが早いかもしれない。もっと、方法を変えたり、時間を掛けて粘らなくては効果はないのかもしれない。
でも、頑張ろうと思えば思うほど、体が震えて動かなくなった。
椿の気持ちが、強烈に理解できた。萩の姿を脳裏に描くと、体が竦む。
恐怖の感情。
他のみんなが、すぐに分かっていた結果なのに、榎は、コテンパンに伸されるまで実感もできなかった。なんて鈍いんだろう。
だが、こんな状況になっても、榎は気持ちの片隅で、萩を放っておけなかった。
どうすればいいだろう。どうすれば、物事はうまくいくのだろう。
別の方法を模索しようと考えたって、悪い頭では、浮かばない。周囲からはとっくに、匙を投げられているのだから、尚更、難しい問題だ。
途方に暮れたまま、榎は呆然と山を抜ける風に吹かれていた。
ふと、足音が聞こえた。
寺の中から、了生が出てきた。気配はなかったが、中にいたらしい。以前と同じ、作務衣姿だ。
眠いのか退屈なのか、大きな欠伸をしていた。
手には、竹箒を握り締めている。落ち葉の掃除に、出てきたのか。
榎は何の反応もできず、視線を逸らして俯いた。
「夏姫様……? どうなさいました、お一人ですか?」
そんな榎に気付き、了生は声を掛けてきた。
先日、了生の力には頼らないと、断言したばかりだ。なのに、邪険にするでもなく、了生は気さくに、榎に接してくれた。
拒まれなかった。榎は安心していた。
「すいません、なんか、ぼーっとしてたら、こんな場所まで来ていて」
わざとらしくいうが、きっと本当は、了生に会いたかったのだと思う。
了生は榎よりも大人だし、親切だ。事情も知っているし、今の八方塞りになっている榎に、何か新しい道を示してくれるのではと、身勝手な期待を寄せていた。
「何か、お悩みですか?」
了生も、榎の雰囲気から、心境を感じ取ったのだろう。第一声に、的を射て尋ねてくれた。
「タイムマシンとか、どこかにないかな、と思って」
だが、いざ本心をぶつけよう思っても、うまく言葉が出てこない。
挙句の果てには、さっきまでおぼろげに考えていた、くだらない話が、そのまま口から出てきてしまった始末だ。
了生が要領を得なくても当然だ。頭に疑問符を浮かべていた。
「いや、劣等生の机の引き出しが、一番有力なんですけれどね。残念ながら、あたしの机にはなくって。だからって、こんな山の中にきたって、あるはずもないんですけれど……」
言ってしまったからには、具体的に説明せねば、と思って、頭の中に浮かんだ言葉をとりあえず吐き出すが、ますます、墓穴を掘るばかりだった。掘った穴に、すぐにでも飛び込みたい気分だ。
「柊の、変な趣味が移ったかな。馬鹿みたいだ」
榎だって、テレビアニメばっかり見て過ごしているわけではないが、何かにつけて想像を逞しくしてしまうくらいには、人の作ったフィクションの世界に影響を受けているのだろう。
いい加減、榎自身の思考にうんざりして、首を項垂れた。
「……相当、思い詰めていらっしゃいますな」
返事に困っていた了生だったが、考えを纏めた様子で、榎に語りかけてきた。
「要するに、過去に戻って、何かをやり直したい、とか、考えていらっしゃるんですかね」
何だかんだで、しっかりと理解してくれている。流石は了生だ。
榎が期待を込めて頷くと。了生は表情を濁した。
「……仮に、過去に戻れるとして。夏姫様は何時の、どんなところに、お戻りになるつもりなんですか?」
隣に屈みこんで、了生は尋ねてくる。
現実的に追及されると、榎は動揺して、戸惑った。
「この寺に初めて、いらした時ですか。夏姫様として、覚醒された時ですか。――それとも、前世の四季姫様たちが生きておられた、千年前ですか」
本当だ。あっさりといわれてみれば、いったい、どこに戻るつもりだったのだろう。
どこが原因で、榎は苦しんでいるのだろう。どの時間を改善すれば、正常な流れが得られるのだろう。
「分かりません。何かを良く変えられるなら、いつでもいい気もします」
「なら、現在でもよろしいんと、違いますか?」
率直に応えると、すぐに問いかけが戻ってきた。
「あの時、ああしておけばよかった、こうしておけばよかった。誰でも一度は思います。人はその感情を、〝後悔〟と呼びます。人はなぜ、後悔すると思いますか? ――日々、成長しておるからやと、俺は思うております」
成長するから、後悔する――。榎には分からなかった。難しい話だ。
「時間を掛けて成長して、昔には思いつかんかった発想を手に入れたから、人はかつて失敗した頃に戻り、やり直したいと思うわけです。でも、別に戻る必要なんて、ないんです。未来で再び、挑戦すればよいのですから」
失敗は、未来で取り戻せばいい。
正論だし、気楽な発想だと思えた。
でも、本当に、失敗をもう一度、やり直せるのだろうか。
また、失敗に終わるだけなのではないのか。
だとしたら、過去に戻っても同じか。
榎の頭が、こんがらがる。
「もちろん、取り返しのつかん過ちもあります。一度、失敗したがために、二度と戻ってこないもんも、ある。――せやけど、あなたの望むものは、過去に戻らねば絶対に手に入らないものですか? この先の努力で、修正できるものと違いますか?」
了生の表情は、少し寂しげに思えた。
もしかしたら、了生のなかにも、何らかの強い後悔があるのかもしれない。
過去に、二度と取り戻せないものを失った、とか。
榎は、確かに失敗した。挫折した。
もう、何もできないと思うほどに、絶望した。
でも、絶対に、もう二度と、望んだものが手に入らない、なんて境遇に陥ったわけでもない。
まだ、手を伸ばせば届く場所に、全部ある。
「とはいっても、過去を振り返って、立ち止まる時間も、ときには必要です。妖怪たちも、今は大人しい。焦らず、何が大切かをしっかりと考えて、地固めをされては如何ですか」
了生は、優しく、榎の足取りを緩めてくれる。
でも、立ち止まれない。榎の中では、もうきっと、答は出ているんだ。
諦めずに、前に進むしか、道はないと。
だけど、まだ、足りない。どんな道を辿ればいいのか、展望が見えない。
霧に包まれたみたいに視界がぼんやりして、確実な一歩を踏み出せない。
了生にはとても感謝しているのに、踏ん切りがつかなかった。焦りだけが、先走りしそうになっていた。
――なんだろう、前にも、同じ気持ちを抱いた時が、あった気がする。
「了生さんって、おいくつですか?」
ぶしつけに、榎は尋ねた。
「今年、二十一になります」
「じゃあ、大学生ですか?」
「ええ。仏教を学ぶ大学に通っております」
「そんな大学、あるんですねぇ。椚兄ちゃんと、同じ歳だな」
榎は懐かしい存在を、脳裏に蘇らせた。
椚は、水無月家次男。榎の二人目の兄だ。
家が健在だった頃は、いちおう自宅から大学に通っていたが、友人の家を点々とする日々が続いていたので、榎は滅多に顔を合わさなかった。
だが、強烈に印象に残る性格をしているので、派手な兄の姿は、いつも鮮明に脳裏に浮かんでいた。
「お兄さんが、いらっしゃるんですね。何をされているんですか?」
「大学に通って、何を勉強しているかは知りませんけど。サークルで、ヘビメタ? って活動してます。悪魔メイクして、毎晩毎晩、ステージに立って発狂してるそうです」
記憶を頼りに、榎は漠然と説明する。
「……なかなか、個性的な方なんですね」
想像の域を出ない椚のイメージを把握できずに、了生は少し苦しんでいる様子だった。
「いつもテンションが高くて、周りの空気が読めないけれど、落ち込んでいる時に見かけると、元気をもらえたんですよね。了生さんとは、根本的な部分は、似ていると思います」
「似てますか、俺と……」
少し、嫌そうだった。分からなくもないが。
でも、別に了生がヘビメタ向きな顔をしているなんて、言いたいわけではない。あくまで、内側の話だ。
「礼儀正しくて、親切なところが、ですよ」
榎が補足すると、了生は少し考えて、照れた顔をした。榎も、笑い返した。
「ありがとうございます。了生さんと話して、少しだけ、気持ちが晴れた気がします」
了生と会話をしながら昔を思い出していると、なんとなく、心の整理がついた。榎は素直に、お礼を言った。
「俺でよければ、話くらいなら、いつでも」
了生は友好的に、微笑んでくれる。その穏やかさには、一遍の曇りもない。仏僧だから、人の悩みや迷いを聞き慣れているのだろう。
「――ですが、夏姫様。あなたが本当に縋りたいと思うている人は、別におるのではないですか?」
了生に指摘されて、既視感の正体が、おぼろげに見えた。決して、気のせいではない。前にも確実に、同じ状況に突き当たっていた。
名古屋で暮らしていた頃。小学校で悩み事があって、誰にも相談できずに、もやもやしていると、椚が話を聞いてくれた。今の状況と、かなり良く似ていた。
何となく話はしたものの、榎は物足りなかった。本来、椚に聞いてもらうべき話では、なかった気がしていた。
椚にも、「他に適任な相談相手がいるだろう」と打診され、困った記憶がある。
「……話を聞いてもらいたい人は、います。相談すれば、きっと真剣に、話を聞いてくれると思うんです。でも、あたしの話を受け入れたせいで、その人が負担に思うかもしれないから……」
躊躇いながら、榎は了生に本音を話す。
昔も、榎は、話を聞いてくれる椚に申し訳ないと思いながら、同じ意味の言葉を発した。
――だんだん、思い出す。
そうだ、本当に、悩みを打ち明けたい人は、他にいた。でも、迷惑がられる気がして、怖くていえなかった。
「人は誰しも、あらゆる負担に押し潰されそうになっております。何が原因の重圧が最も苦しいかは、人によって違うものです。あなたの、その気遣いが、お相手の方にとって、より重荷になる可能性もある。あなたが大切に思う人は、あなたを想い、心配するからこそ、真剣に話を聞いてくれるのでしょう。そんな優しい人が、口を閉ざして一人で何もかも背負うているあなたを見たら、どう思いますかね? あなたの躊躇いが、いっそう、その人を苦しめる結果になるかもしれません」
静かに、了生は説いた。
了生と同様の意見を、かつて、椚は榎に提示してくれた。そのお陰で、昔の榎は気付けた。
大切な人に、悩みをぶつけて困らせたくない。でも、落ち込んでいる榎を見て、大切な人が辛い顔をするなんて、もっと嫌だった。
小学生の頃、榎が本当に悩みを聞いて欲しかった相手は、椚ではなく、長兄の樹だった。
椚に後押ししてもらい、榎は樹に、悩みを聞いてもらえた。
正しいと、心から思える答を、教えてもらえた。
今の榎も、同じ状況だ。了生は悩みをぶちまけるには程よい対象で、話しやすいが、本当に聞いてもらいたい相手ではない。
榎の頭の中には、頼りたい人の姿が、しっかりと映っていた。
静かな病室で、いつも微笑んで迎えてくれる、榎を心配してくれる、優しい人――。
「話せる範囲でええんです。相手が、あなたの心の悲鳴を聞き逃さない人であるならば、素直に胸を借りてみてください」
榎の進む道が、はっきりと定まった。
「……あたしは、昔から、ちっとも変わっていないんだな」
思わず、嘲笑が漏れる。
昔は、分かっていたはずなのに、また、忘れていた。全く進歩がない。
情けなくて、泣きそうになった。でも、少しだけ、心が晴れた。
無性に、綴に会いたくなった。話を、聞いてもらいたくなった。
迷惑になるかと思ったけれど、もう、我慢できそうになかった。
了生に再びお礼をいい、榎は妙霊山を後にした。




