第五章 冬姫覚醒 1
一
六月も後半に突入した、四季が丘中学校。
とある朝。登校して教室に入ると、賑わった風景が広がっていた。
病気を流行らせる妖怪――病魔の影響で欠席する生徒が増えて、一時期はとても閑散としていた教室。今では、スカスカだった空席の机も埋まり、元気な話し声や笑い声が響いていた。
「椿のお陰で流行り病も治まったし、やっと学校らしくなってきたね」
榎は自分の机に座って、明るい雰囲気の教室を、改めて見渡した。ただでさえ人数の少ないクラスなのに、さらに人数が減り、少人数の個人塾みたいになっていた学校の有様を思い出しながら、しみじみと喜びを感じていた。
「本来の一年一組の姿よね。みんな無事に登校でき始めて、本当に良かったわ」
榎の隣に座る椿も、嬉しそうに榎の考えに同意した。
ふと、榎はもう反対側の隣席に注意を払った。その場所には机と椅子が一組、置いてある。
だが、榎は入学してから一度も、その机に人が座っている姿を見ていない。
「あたしの隣の席、入学式のときからずーっと空いたままだけど。余りの席?」
気になって訊ねると、椿は少し怒って、榎の軽い言葉を嗜めた。
「えのちゃん、酷いわよ。ちゃんと座る子がいるの! ひいちゃん、って言う女の子でね、入学式からずっと出てきてないの」
椿は心配そうに、ひいちゃん、とやらが座るはずの席を見つめていた。椿の様子から察するに、病気や怪我などが原因で、出席できずにいるのだろうか。
「病魔の蒔いた病気に感染して、重症化しているのかな」
病魔はとても強い病をばら撒いていた。抵抗力のない感染者だと、亡くなっている人もいるくらいだ。命までは奪われないにしても、生死の境を彷徨うほど酷い症状に苦しんでいるのかもしれない。
もっと早くに対処するべきだった。榎の実力不足が悔やまれた。
ひいちゃんはきっと、体の弱い可憐な女の子なのだろう。苦しんでいる姿を想像して、榎は心を痛めた。
「病原菌が原因なら、春姫の力で浄化したから、症状が悪くてもそろそろ完治しているはずよね」
椿も欠席の詳しい理由は知らないらしく、不安そうな表情を浮かべていた。
「柊はんやったら、今日から出席しはりますえ。なんでも、風邪やら肺炎やら盲腸やら、色々とこじらせて、入院生活が長引いとったそうで」
二人の会話を聞きつけ、周が側へやってきて、詳しい事情を説明してくれた。
周の言葉を聞いた途端、榎は体を強張らせた。
「ひいちゃん、入学早々、大変だったのね。……えのちゃん、どうかしたの?」
安心して息をついていた椿だったが、榎の急激な態度の変化に気付いて、不思議そうに訊ねてきた。榎は全身から汗を噴き出して、挙動不審に椿たちを見た。
「柊、なんて、珍しい名前だよね?」
突然の榎の発言に、椿と周は顔を見合わせていた。
「確かに、珍しいわね。椿も、ひいちゃんくらいしか知らないわ」
「もしかしてだけど、そいつの苗字って、師走……?」
恐る恐る訊ねると、周は眉を顰めながらも、頷いた。
「その通りどす。……榎はん。柊はんとお知り合いどすか?」
そう訊き返された瞬間。榎は椅子を盛大に倒して、立ち上がった。教室の後ろの棚から鞄を引っ張り出し、机の中の教科書を素早く詰め込んだ。
「どうしたの、えのちゃん! 急に帰り支度なんかして……」
驚いて止めに掛かってくる椿の手を振り解き、榎は「早退する!」と声を張り上げて、教室を出ようとした。
その女には、会いたくない。榎の直感が正しければ、榎の隣に座るであろう人物は、決して顔を突き合わせてはならない、魔性の人間だ。
「落ち着きなはれ、榎はん。どないしやはったんや!」
周までもが前に立ちはだかり、教室からの脱出を妨害した。
焦った。なぜみんな、榎の邪魔をするんだ。
急がないと、手遅れになる。早く教室から、学校から逃げなければ。
あいつがやってくる――。
「よぉ、みんな、ひっさしぶりやなぁ! 師走 柊、本日より学校生活復帰や! よろしゅう頼むでー!」
教室の戸が開き、豪快な関西弁の声が、教室に響き渡った。室内の全員の視線が、声の方角へと集中した。
入り口には、肩に掛かるくらいの髪を、大人っぽく結い上げた少女が立っていた。
師走柊――。
間違いなく、榎の知っている、もっとも会いたくない人間だった。
今逃げ出せば、逆に目立ってしまう。もはや、逃げ出せる隙がない。
榎は脱力して鞄を床に落とし、外への逃避を断念した。




