第三章 春姫覚醒 7
七
榎は、学校の裏山へと向かった。
夕刻に差し掛かり、辺りはかなり、薄暗くなりはじめていた。周囲に人気がないか確認し、榎は夏姫に変身し、山道を駆け抜けた。
坂道を登っていくと、踊り場みたいになっている場所へ着いた。視界が開けて、里山の景色が一望できる広場だった。
「随分と、遅かったな。夏姫」
広場の脇に立つ巨木の枝に腰掛け、宵月夜が榎を待ち構えていた。足元には、不気味な笑みを浮かべた病魔もいた。
「うるさいな。お前らにばっかり、かまけているわけにはいかないんだよ。あたしだって、忙しいんだ」
榎は言い返した。だが、宵月夜の耳にはあまり聞こえていない様子だった。宵月夜は落ち着かない動きで、しきりに周囲に注意を払っていた。
「……何をきょろきょろしているんだ? 宵月夜」
気になって、尋ねた。宵月夜は少し遠慮がちに、榎に視線を向けてきた。
「……あの、変な人間は来ていないのか」
変な人間、と聞いて、不謹慎だが、真っ先に周のにやけ顔が脳裏をよぎった。
気配もなく、いつの間にか、すぐ側にまで接近してくる周が、宵月夜にはトラウマと化しているらしい。半端ない警戒心だった。
「委員長は、今日はこないよ。テスト前で忙しいから」
「そうか、 こないのか……」
榎が説明すると、宵月夜は少し、つまらなさそうに呟いた。
「何で残念がっているんだ? ひょっとして、来てほしかったのか?」
漠然と尋ねると、宵月夜は体を震わせて、榎を睨みつけてきた。
「馬鹿いうんじゃねえよ! うるさいのが、ここ、こなくて、安心していただけだ!」
面白いほど、裏返った声が飛んできた。
「別に、ムキにならなくてもいいだろうに……」
榎が思っているほど、宵月夜は周を嫌悪しているわけではなさそうだった。むしろ、興味を示している様子さえ感じ取れた。
「夏姫、あの人間に伝えておけ。……あの八つ橋とかいう菓子、美味かったと」
少し躊躇いながら、宵月夜は言った。
「自分で伝えれば? 次は来るだろうから」
さらりと返すと、宵月夜は少し不愉快そうな顔をした。だが、必要以上に突っ掛かって来る気配はなく、落ち着いていた。
「二度も、同じ言葉を吐くつもりはない」
「もちろんですとも。次など、ないと思いますよ、宵月夜さま」
宵月夜の真下で、病魔が甲高い笑い声をあげた。
「お前の言う通りだな、病魔。残念だが、お前があの人間と会う機会も、二度とないだろう」
宵月夜の表情にも、余裕の笑みが浮かんだ。
「お前は今、この場でくたばるんだからな。夏姫!」
瞬時に、周囲の空気が変わった。榎は警戒し、剣を握って身構えた。
「遅れてきてくださったお陰で、最強の病原菌の開発に成功いたしましたよ。食らいなさい、夏姫」
病魔は大事そうに腕に抱いていた、壷の蓋を空けた。中から謎の粉を鷲掴みにして取り出し、空気中に撒き散らした。
「うわっ! なんだ、花粉みたいなのが飛んできた……!」
白い粉は、暮れゆく夕日に照らされて、まばゆく輝いていた。縦横無尽に飛散する粉を避ける術などなく、榎は怪しい粉を咥内に吸い込んでしまった。
直後、急に体中が熱を帯び、頭が朦朧としてきた。
「体が、だるい。息が、苦しい……」
榎は剣を突き刺し、地面に膝を突いた。手が震え、視界もぶれて、焦点を合わせられなくなっていた。
「流石の夏姫も、最強の病原菌の前では、成す術なしですなあ」
「苦しいか、夏姫。そのままもがき続けて、果てるがいい」
病魔と、宵月夜の声が、頭の中で響いて、頭痛がした。
悔しかった。こんな場所で、病魔に屈して敗北するのか。まだ、何も目的を果たせていないのに。
四季姫としての戦いも中歩半端で、他の仲間も見つけられていない。椿だって、助けられない。あまりのふがいなさに、榎は歯ぎしりした。体に力が入らず、顎の力まで衰えていた。
「えのちゃん! しっかりして」
突然、耳元で声が響いて、頭の中で反響した。聞き覚えのある高い声は、薄れゆく榎の意識を、現実へと引き戻してくれた。
榎の側には、屈み込んで榎を支えてくれている、椿の姿があった。
「椿……どうして? 駄目だよ、寝ていなくちゃ……」
「えのちゃんが、何か危険に巻き込まれてるのかも、って考えたら、心配で。寝たふりして、こっそり、あとをつけてきたの」
椿はパジャマ姿に、上からカーディガンを引っ掛けた格好だった。息は絶え絶えで、体に力が入っていない様子だった。熱ではっきりしない意識の中、必死で榎を追い掛けてきたのだと察した。
「また、おかしな人間が来やがった」
椿の突然の登場に、宵月夜は忌ま忌ましげに舌を打った。
「気にする必要はありません、宵月夜さま。この人間、既に私のばら撒いた病原菌に感染しております。割り込んできたところで、体が弱って、何もできますまい」
病魔は椿を蝕む病気にいち早く気づき、余裕の表情を浮かべていた。
椿は、背後で騒ぐ宵月夜たちを振り返り、大きな瞳で睨みつけた。
「なんなの、あんたたち! えのちゃんに、ひどい真似しないで!」
椿にも、妖怪たちの姿が見えるのか。朦朧とする意識の中で、榎は漠然と、事実を受け入れていた。
「私の病原菌を受けて、まだ元気に動き回れるのですか。ならばあなたにも、最強の病気を食らわせてさしあげましょう」
病魔が、壷の中の粉を掴み、椿めがけて振り撒こうとした。椿は警戒して、榎の前に立って両手を広げた。
「やめろ。椿、逃げて……」
「逃げないよ! えのちゃんは、椿が守るんだから!」
強気な声を張り上げる椿だったが、肩は小刻みに震えていた。限界の体力と恐怖の中、必死で榎をかばおうとしていた。
榎はどうにかして起き上がろうと、もがいた。でも努力は虚しく、足腰に力が入らなかった。まるで、重い空気にのしかかられているみたいな感覚だった。
榎たちの足掻きは虚しく、病魔は楽しそうな顔をして、にじり寄ってきた。椿は虚勢を張りながらも、上擦った声をあげた。
「こないで! これ以上、えのちゃんに近づいたら、椿が許さないんだから!」
「何もできない無力な人間が。威勢だけで不利な状況を打破できるなどと、勘違いするなよ」
病魔の背後で、宵月夜が椿に毒を吐いた。
「うるさい! あんたたちが誰だか知らないけれど、えのちゃんを、よってたかっていじめるなんて、絶対に許せないわ! えのちゃんは、椿の大切なお友達なのよ!」
椿の声が、周囲にこだました。
直後、椿の体が淡い光に包まれた。
「この光、まさか……!」
宵月夜と病魔は驚きの声をあげて、後ろへ引いた。
榎の霞む視界を、ひらひらと、何かが降る残像が通り過ぎた。
光を帯びた、花弁に思えた。
今の季節、既に散ったはずの、桜の花弁だった。




