第二十六章 夏姫革命 9
九
壁一枚隔てた、部屋の外に出ただけなのに、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静まり返っている。
その部屋は地下にあるらしい。真っ暗な空間だった。隙間もなく、日の光も射しこまない。黴臭い、小さそうな部屋だ。
紬姫は掌に小さな炎を浮かべて、周囲を照らした。岩造りの壁が、微かに見える。
その明かりを挟んで、榎は紬姫と真正面から対峙した。
「其方の来訪は、以前より視えておった。二人で話をする時間ができたのは、都合が良い」
紬姫が、ゆっくりと口を開いた。
その言葉に驚きを抱きつつも、どこか納得のいく話だとも思った。
「貴方の持つ、予知の能力で……?」
榎が呟くと、紬姫は頷いた。榎が紬姫の持つ力について知っていても、驚きも動揺も見せなかった。
その事実さえ知り、受け止めているのだろう。
「先見の力を持ってしても、其方からは妾に向ける敵意は感じ取れなかった。それ以上に、同じ心持ちを感じた。同じ目的のために、ことを為そうとしておるような、そんな気さえした」
だから、榎に実際に会ってみようという気持ちになったのだという。予言の力で垣間見た榎の姿は、紬姫の興味と関心を大いに引いたらしい。
「妾の先見の力では、其方が何者かまでは分からなかった。話せ、其方が何者で、なぜ妾を助けるためにやってきたのか」
「あなたと、あなたのお腹の赤ちゃんを、助けるために。あなたと、約束したんです。必ず守ると」
「妾と……?」
榎は、ただひたすらに、この目で見てきたありのままの事実を、紬姫に話して聞かせた。
要領が悪く、うまく話せたかどうか自信はない。だが、紬姫は終始無言で、榎の言葉にじっと耳を傾けていた。
話せる限りの内容を話し終えると、ようやく、紬姫は深く息を吐いた。
「時渡りの禁術――。そうか、実際に成功する術であったか」
あたかも他人事みたいな物言いで呟く紬姫の瞳は、どこか遠くを見つめていた。
術自体は以前から確立されていたというが、時を渡った者が戻ってこないという性質上、その結果を知る術はどこにもなかった。
だから、実際に時渡りを行ってやってきた榎を、物珍しく、かつ感嘆を込めた表情で見つめていた。
「そして、妾もこれより千年後の世に飛び、そこでこの子を産むのだな。無事に、産めるのだな」
「はい、大丈夫。歴史が正常に流れれば、あなたも、お腹の子も、助かるんです」
膨らみの目立つお腹を、紬姫は愛おしそうに優しく擦る。紬姫の表情に微かに浮かぶ不安を払拭するために、榎は自信をもって頷いた。
「その時渡りを妨げにやって来たのもまた、我が子というわけか。子孫との間に成した子が、妾に牙を剥く、か。まこと、狂った一族だな、伝師とは」
呆れた様子で、紬姫は初めて笑った。
「語くんの件は、あたしたちがきちんとけじめをつけて、暴走を止めて元の時代に連れ戻します。だから紬姫は気にせず、無事に時を渡ることだけを考えてください」
榎の言葉に、紬姫は静かに頷いて、目を伏せた。
「よかろう。腹の子を守り抜くために時渡りの儀が必要であるならば、妾は喜んで応じよう。だが、その前に、この時代でけじめをつけておかねばならぬことがある。其方が妾を助け、正しき道へ導くためにやってきたというのなら、妾の清算に力を貸せ」
紬姫の清算とは、伝師一族のことだろうか。
他にも、月麿に四季姫を蘇らせるために時渡りをするように命じるなど、歴史を正すための後始末も必要だ。
「あたしにできることなら、お手伝いします。まず、語くんを止めないといけないし、麿も助けなくちゃ」
「いいや、もっと大切なことだ」
意気込む榎に、紬姫は首を横に振った。
顔を上げた紬姫の表情には、静かな殺気が込み上げていた。
「あの愚かな裏切り者――夏を殺す。その手伝いをしてもらう」
榎は絶句した。背筋が凍り付き、身動きができなくなる。
「妾の計画を全て台無しにした反逆者たち――四季姫どもを生かしたまま、この地を去るわけにはいかぬ。他の女どもは捨て置いても構わんとしても、夏だけは、奴だけは、絶対に許さぬ! 妾の手で、引導を下す」
恐ろしいほどの執念。それほどまでに、紬姫は夏の行いを恨み、その存在を憎んでいるのか。
夏の気持ちとは裏腹に、紬姫は本当に、心から夏を拒絶するのか。
「待って下さい、あなたは誤解している。夏さんも四季姫たちも、あなたのためを思って、鬼閻を封じたんです。鬼閻を体に取り込んだりしたら、あなたの身がもたない。あなたの命を助けるために、あなたを裏切ったんですよ!」
「妾には一言もなしにか。何の打ち明けもせずにか!」
「それはきっと、話せばあなたが拒むと思ったから……」
四季姫を庇えば庇うほど、榎が紬姫に責められる立場に置かれる。榎だって、四季姫たちの真の意図を全て知っているわけではないし、四季姫たちの本心をこの場で代弁できる資格もない。
困っている榎の様子を見て、紬姫は苛立ちを抑え込むように鼻を鳴らした。
「其方のような小娘には、分からぬであろうな。妾は生まれた時から、この家を、伝師を繁栄させ、長きにわたって存続させる、ただそれだけのために生かされてきたのだ。それが人として通ってはならぬ禁忌の道であったとしても、妾に歩みを止めることは、許されてはおらぬし、止まる気もなかった。この生き方だけが、妾の唯一の存在理由なのだから。――それを、助けたい? 救いたい? そうして何になる? 進むべき道を失った妾に、どうしろと?」
口に出して恨み言を吐く度に、苛立ちが増すらしく、紬姫の声色が荒々しくなってくる。
「鬼閻が封じられた結果、伝師は滅びの道を歩むしかなくなった。もう、ここまでことが大きくなった以上、帝の信用も得られぬ。陰陽師一族としての栄光が、全て水の泡と化したのだぞ、その後で生き延びたとて、何の意味がある! こんな未来、妾は望んではおらなんだ! なのに、あやつは、勝手に恩を押し付けて……」
紬姫の怒りが、沈痛な悲しみへと変わっていく。
紬姫にとっては、伝師という家は、自身の命や人生と同じだけの価値のある存在だったのだろう。代々続いてきた由緒ある家柄を存続させていくという考え方は、一昔前までは当たり前にあったことだし、榎には実感はないが、現代でもそういった家系はいくつも存在している。
だから、いくら命を救われたとしても、命と同様の家を潰されたとあっては、やりきれない思いがあっても当然なのかもしれない。
夏の想いも分かるし、紬姫の心境も、それとなく理解できる。
どちらが悪い、といった極端な結論をつけるわけにはいかない、難しい話だ。
声を掛け損ねているうちに、紬姫の中では考えが纏まったらしく、まっすぐ榎に意志をぶつけてきた。
「其方は、夏姫の生まれ変わりなのであろう? すなわち、あの愚か者たちは死して魂を転生させ、再び蘇るわけだ。本当なら、転生もできぬよう、魂を完全に消滅させてやりたいところだったが、そこは譲ってやろう。だが、この世での奴の死は、譲るわけにはいかぬ」
「そんな――」
「行くぞ、娘。あの童を黙らせ、夏を殺し、妾は時を渡る」
有無を言わせず、紬姫は再び、混乱を極める伝師の屋敷へと戻っていった。
榎も黙って、後を追うしかできなかった。




