第一章 夏姫覚醒 2
二
約三十分の移動で、榎は京都駅に到着した。
京都の山中は、愛知より寒いと母に言われていた。なので、いつもの格好に加えてコートやマフラーなど、多めに着込んできた。
降り立ってみると確かに、名古屋より気温が低い気がした。
改札を出て、榎は梢に説明された道順を思いだしていた。
駅からは、ローカル線に乗って一時間。終点で降りたら、バスに乗って、さらに終点まで。地図を頼りに徒歩でお寺まで約二十分。確かそんな感じだったと記憶していた。まだまだ、長い道程だった。
まずは、ローカル電車に乗るべく切符を買おうと、榎は券売機の前に立ち、鞄の中に手を伸ばした。
しばらく鞄の内部をまさぐった後、ぴたりと体の動きを止めた。
財布がない。榎は挙動不審に周囲を見渡した。助けてくれる人など、いるわけもなかった。
後ろがつかえるので、いったん脇に移動して、再度、鞄の中を隅々まで調べた。やっばり、財布はどこにもなかった。
「どうしよう。お母さんが工面してくれた、なけなしのお金を……」
榎は泣きそうになった。ただでさえお金がなくて困窮している、水無月家の限りある財産を、使いもせずに紛失するだなんて。とんでもない過ちを犯した気分だった。
梢に電話しようか。一度は携帯電話を取りだしかけたが、やめた。
財布をなくしたと報告したところで、新たにお金が手に入るわけでもない。怒られて、心配させて終わりだ。
榎は諦めて、寺まで歩こうかと考え始めた。目的の寺まで、徒歩でどれくらいかかるのだろう。一日で着くのは、たぶん無理な気がした。でも、行くしかなかった。
決心を固めて、歩き出そうとした矢先。
「あなた。落し物をなさいましたわね?」
背後から声を掛けられ、反射的に振り返った。
榎のすぐ後ろに、女の人が立っていた。高校生くらいの人で、真っ黒のスーツを着て、真っ黒の長い髪を縦ロールに巻いていた。神秘的な雰囲気を醸し出す、榎が見惚れるほどの美人さんだった。
「はい、財布を落として。……もしかして、拾ってくださったんですか?」
だとしたら、この人は救いの神だ。榎は縋る思いで見つめた。女の人は残念そうに、首を横に振った。
「わたくしは、拾っていませんのよ。ただ、見えましたの。あなたが金銭面で、とてもお困りになる姿と、持ち主の分からない財布を、拾って駅員さんにお届けになった、心優しいどなたかのお姿が」
「見えた……? どなたかって、どなたですか?」
女の人が何を言っているのか、榎にはさっばり、分からなかった。
「奏、理論性に欠ける発言をして、相手を困らせてはいけない」
すぐ側で、別の声がした。
奏、と呼ばれた女の人が、ゆっくりと榎から目を逸らし、横を見た。
同じく榎も、視線を移動させた。奏の隣に、車椅子に乗った、黒いスーツ姿の青年がいた。
「まあ、綴お兄様ったら。まるで、わたくしが常識のない駄目な女だ、と言われているみたいに聞こえましてよ? 心外ですわ」
「駄目人間だと思われたくなければ、もう少し人に伝える言葉の大切さを学ぶべきだよ、奏」
優しい口調で穏やかに諭す、突然現れた綴という名の青年。艶のある黒い髪と穏やかな瞳、白い肌を持つ、美青年だった。
榎の体中を電流が走り、全身が、かあっと熱くなった。初めて覚えた、妙な感じだった。
「妹が突然、失礼な物言いをして申し訳ありませんでした。一寸、言葉足らずなところがある娘でして」
綴は榎に向けて、深く頭を下げてきた。
「先程、通路に落ちていた財布を、通行人が拾って落し物センターに持っていく姿を見かけたのです。誰の財布だろうかと二人で話していたところ、あなたが偶然、お困りの様子で立っていらしたので、もしかしてと思って声を掛けた。というわけなのですよ」
「なるほど。そういう理由だったんですか……」
ややこしい話には変わりなかったが、矛盾もしていないし、おかしな点もない。自然と納得のいく説明だった。
「もし財布をお探しなら、落し物センターに行って、確認してもらうといいですよ」
「どうも、わざわざ、ありがとうございます……」
お礼を述べ、榎は頭を下げた。ほぼ同時に、奏が腕時計を見て、慌てた声をあげた。
「お兄様。そろそろ、電車のお時間ですわ。駅員さんを待たせてはいけません」
「分かった、行こうか。ぶしつけに声を掛けてしまい、申し訳ありませんでした。――よい旅を、お嬢さん」
奏に車椅子を押され、綴は去っていった。
二人の後ろ姿を呆然と見つめ、榎はしばらく、立ち尽くしていた。
「……なんで、あたしが女だって、分かったんだろう」
榎が女だと分かりそうな言動は、いっさいしなかったはずなのに、どうしてだろう。不思議に思うと同時に、妙に心臓が激しく高鳴った。
謎めいた人だった。何もかも見透かされているのではと思える、魅力的な目をしていた。