第十四章 春姫進化 6
六
鳥の鳴き声が消え、木々が妙にざわめきはじめる。
椿と朝は、同時に立ち止まった。辺りを見渡しながら、感覚を研ぎ澄ます。
「妖怪の気配? ……囲まれているわ!」
みんながいない時に、妖怪に狙われるなんて、本当に運が悪い。
先日の、雀の妖怪だろうか。
妖気を感知する能力が弱い春姫には、妖怪が個体ごとに発する気配が正確に読み取れない。楸がいてくれれば、相手の居場所も正体も実力も、すぐに分かったのに。
とにかく、既に狙いを定められている以上、生身のままでいては危険だ。
椿は懐から桜の花の形をした髪飾りを取り出し、手に包み込んで念じた。
「病む現 淡き光に 散る桜 彼方の心 癒さんことを」
桜の花吹雪が吹き荒れる、淡いピンクの光に包まれ、椿の体に温かい力が漲ってくる。
風が収まると、椿は桃色を貴重とした十二単を身に纏っていた。
「春姫、見參です!」
変身して身構えると同時に、周囲の山から、妖怪が飛び出してきて椿を囲んだ。
先日の巨大な雀もいた。他にも河童みたいな緑色の肌と水かきを持った妖怪や、二足歩行するトカゲ、初めて見る妖怪たちが揃い踏みだった。
「みんな、中等以上の妖怪です。笛の音だけでは倒せません」
妖怪たちの強さを見極められない椿に代わって、朝が敵の状況を教えてくれた。
どのみち、椿一人で戦闘なんて無理だ。何とか逃げ道を探そうと辺りを見渡すが、完全に囲まれて退路がない。
榎や柊みたいに、強行突破なんて芸当ができるわけもない。八方塞がりで、椿の心は折れそうになった。
「椿さん、奴らを撹乱して、時間を稼ぎましょう。隙を見つけて、髪飾りで榎さんたちを呼んでください」
朝の指示を受けて、ようやく、椿の手が動いた。笛を口に当てて、精神を集中させる。
「分かったわ。〝誘眠の調べ〟!」
椿は妖怪退治は苦手だが、笛の音に陰陽師の力を込め、空気中に拡散させることで、相手に様々な作用をもたらせる。
どんなに堅固な肉体や防御力を持つ妖怪でも、内部は意外と脆い。波長を脳に直接送り込むと、音波の影響で聞いた者が正常に行動できなくなる。
椿は妖怪たちにリラックス効果を与え、戦意を減らすとともに、眠りに誘う音色を奏でた。
だが、笛の音を聞いても、妖怪たちの様子には、何の変化も見られなかった。
「春姫の技が効かないわ!」
個別差はあるにしても、少しくらい影響があるはずなのに。
運悪く、メンタル面が強い妖怪が集まってしまったのか。もしくは、この妖怪たちが、術で気持ちを左右されないほどの、強い意志を持って春姫を狙ってきているのか――。
「四季姫の中で、春姫が一番弱いという話は本当らしいな」
「さっさと倒しちまおう!」
椿の力が何の影響も及ぼさないと確信すると同時に、妖怪たちの態度が、一気に変わった。
河童が目を光らせて、弾丸みたいな水の雫を飛ばしてきた。続いて、トカゲの妖怪も口から粘液の塊を吐き出してくる。
「いやぁー! 気持ち悪いー!」
椿は全力で躱し、紙一重で難を逃れる。背後の民家の壁にぶつかった水滴は、石の壁面に穴を開け、粘液は煙を出しながら壁を溶かした。
あんな攻撃、一度でも食らったら終わりだ。椿の顔から、血の気が引いた。
はやく、榎たちにSOSを送らなければ。
だが、神通力を飛ばして交信するには、集中力が必要になる。敵の攻撃を避けながら髪飾りに意識を集中させるなんて、椿には無理だ。
立ち止まる暇さえ、与えてもらえない。椿の体力は、早くもなくなりかけていた。
膝が、がくんと折れた。倒れそうになる椿を、朝が支えてくれた。
妖怪達の攻撃は絶え間なく飛んできたが、朝は素早い身のこなしで、椿を庇いながら全て避けた。
その身軽な動きを見て、椿はふと、違和感を覚えた。
通常の人間が、こんなに的確に妖怪の技を避けられるわけがない。
すぐ側にいたから、微かに感じ取れた。朝の内側から、微かに妖気が漏れ出している。その妖気を、頑張って押さえ込んでいる感じだ。
朝は既に封印を解いて、朝月夜の力を取り戻している―—?
椿は不思議に思いながら、朝の横顔を見つめた。
朝は手に石ころを持ち、河童に投げつけた。石は河童の皿に当たった。
予想以上に痛みがあったらしく、河童は皿を押さえて悲鳴をあげた。河童の皿は弱点とも言われるから、少し傷つけば致命傷になるのかもしれない。
河童が取り乱したせいで、妖怪たちもざわめいて、連携が崩れた。
「邪魔をするな、人間!」
妖怪たちが、朝にも敵意を向ける。不意を突いた一撃が、朝の背中を襲う。
「危ない、伏せて!」
椿は全力で、朝を押し倒した。妖怪の攻撃は朝の脇を掠り、地面に突き刺さった。
目前の攻撃は躱せたが、次はもう、逃げる余裕がない。
横目に朝を見たが、抵抗しようとする動きは見せない。妖怪の力が戻っているなら、どうして最初から使わないのだろう。どうして逃げてばっかりで、椿を助けるために戦ってくれないのだろう。
余裕のない頭の中は、朝に対する疑惑ですぐにいっぱいになった。
周囲を、妖怪の気配が取り巻いていく。椿は固く、目を閉じた。
だが、その妖気は、椿達を傷付けようとはしなかった。不思議に思って目を開くと、椿と朝は、緑色の大きな葉っぱに包まれていた。
「そのまま、動かないで」
側に、誰かいた。長い髪を後ろで結った、着物姿の小柄な女の子だった。
女の子は、天井を覆う大きな葉っぱに向かって腕を伸ばし、精神を集中させていた。椿が黙って見上げていると、葉っぱが急に透けて、外の様子が見えるようになった。
側に椿達を襲った妖怪達が近付いてくる姿も見えた。立ち止まって不思議そうに、辺りを見渡していた。
「どうしたんだ、いきなり奴らの姿が見えなくなったぞ?」
「逃げたのか? いつの間に!?」
「人間の足だ、遠くには逃げていない! 探すぞ!」
妖怪たち外側からは、椿達の姿が見えないのか。不思議な葉っぱだ。
検討違いの方向に走っていく妖怪たちを、見送った。気配が完全に感じられなくなり、椿はようやく、厳しい緊張から解き放たれた。
女の子も、大きく息を吐いて、肩の力を抜いた。直後、周囲を覆っていた葉っぱが小さく萎み、女の子の掌に収まった。掌には、小さな豆が一粒、載っていた。
「お豆さんの、葉っぱ……」
思い返すと、大きな葉っぱは豆の葉だった。
椿は童話「ジャックと豆の木」の巨大な豆を想像していた。あんなに大きな豆の葉が実際にあるなんて、驚きだ。
呆然と呟いていると、女の子が視線を向けてきた。
「この豆の葉の中にいると、外から姿が見えなくなるんだ。中からは、外の様子を見られるようにできるんだよ。あいつらも、気づかずに行っちまっただ。大丈夫だよ」
女の子は、可愛らしい笑みを浮かべてくる。妖怪達から椿達を助けてくれた。命の恩人だ。
「妖怪達から助けてくれたのね。ありがとう!」
椿は立ち上がり、女の子にお礼を言った。
あまり綺麗とは言えない格好の子供だ。喋り方にも訛りがある。四季ヶ丘よりも更に田舎から来たのだろうか。太い眉毛と長いまつげ、大きな瞳が魅力的な、優しそうな子だった。
女の子に歩み寄ろうとした椿を、いきなり朝が制止した。
「椿さん、近づいてはいけません! こいつも妖怪です」
別に、驚きはなかった。
不思議な力を使うし、服装から考えても、妖怪だろうとは思っていた。だが、こんな小さな子供を過剰なまでに警戒して、敵視する必要があるのだろうか。
「この子は、椿たちを妖怪から助けてくれたわ」
「演技ですよ。あなたを油断させるための。でも、僕は騙されない」
朝は女の子を睨みつけ、突然、腕を掴んで引っ張り寄せた。次に胸倉を掴み上げて、首を締め付けた。女の子は小さな悲鳴をあげ、表情を苦しそうに歪めた。
「何が狙いで、春姫さまに近付いた!?」
「痛いだ、放せ!」
女の子は必死でもがくが、朝の手は強く、着物を離そうとはしない。
弱いものいじめをしているみたいで、椿は見ていられなかった。
「朝ちゃん、止めて! 可哀相でしょう!?」
椿は朝の腕を引っ張って、女の子から引き離そうとした。だが、朝の力は思っていた上に強く、動かせなかった。
「妖怪の言動なんて、簡単に信用しては駄目です。寝首を掻かれる羽目になりますよ」
逆に朝は、椿を女の子から遠ざけた。
冷酷に言い放たれた朝の台詞を聞いた途端、椿は怒りを抑えられなくなった。
「……だったら、あなただって同じでしょう!? 妖怪なんだから!」
気付けば、椿は大声で朝を怒鳴り付けていた。朝は体を固まらせ、唖然と椿を見つめてきた。
「妖怪を椿に近付かせたくないなら、朝ちゃんが守ってくれれば良かっただけじゃないのよ! 朝月夜の力を取り戻しているくせに、ずっと隠していたんでしょう!? 朝ちゃんにその子を責める資格なんて、あると思うの!?」
椿の言葉が、朝の表情に驚きを浮かび上がらせた。
「……いつから、ご存知だったのですか?」
やっぱり、朝の力は戻っていた。気のせいであってほしかった。違うと言ってもらいたかった。
「さっき、気付いたの。近くにいれば、少し妖気が漏れているくらい、分かるんだから!」
朝の肯定の反応を聞くと同時に、椿の中で朝の印象が一気に悪くなっていった。苛立ちが、さらに広がる。
朝のあらゆる言動が、信じられなくなっていった。
「嘘つきは、朝ちゃんでしょう!? 椿たちを騙すだけじゃなく、椿を助けてくれた恩人を弱いものいじめするなんて、最低だわ!」
椿は勢いよく、朝の手を女の子から振り払った。朝の腕に力はなく、今度は簡単に引きはがせた。
保護した女の子は、朝から逃れて椿にしがみついた。朝に掴まれた腕や首元に、痣ができている。
「怪我をしているわ、手当てしてあげるから、椿の家に行きましょう」
妖怪には、春姫の癒しの力が効き辛い。人間の薬もあまり効果があるとはいえないが、ないよりましだ。
変身を解いた椿は、女の子を連れて寺に戻ろうとした。
朝が、まだ何か言おうと口を開きかけたが、すぐに声をあげて遮った。
「朝ちゃんなんて、大っ嫌い!」
それ以降、朝は何も言ってこなかった。追い掛けても来なかった。
椿も朝を視界から完全に除外し、無視して来た道を戻った。
寺に戻り、女の子を部屋に匿った。妖怪だから、両親には姿が見えない。しばらくいてもらっても、大丈夫だ。
「綺麗な部屋だなぁ」
「椿のお部屋よ。ゆっくり寛いでね」
物珍しそうに、女の子は部屋の中を見渡していた。まるで、初めて引っ越してきた子供の家に遊びに行った、小さい頃の椿みたいだ。
懐かしいと同時に、女の子に親近感が湧いた。
「ごめんね。助けてくれたのに、酷い目に遭わせて」
手当しようとした痣は、既に消えてなくなっていた。軽い痣だったし、妖怪の治癒力は高いから、自然に完治したのだろう。
ついでだから、砂埃や泥に汚れていた顔や手足を、拭いてあげた。タイミングを見計らって、お風呂にも入れてあげよう。
顔が綺麗になると、女の子の容姿は益々、可愛くなった。
「姉さん、四季姫なんだろ?」
女の子は大きな瞳で、じーっと椿を見つめてきた。
「そうよ、春姫。本当の名前は、如月椿よ。あなたのお名前は?」
「あたいは、梓だよ。さっきの白い人が言った通り、妖怪だ。人間の住む世界に出てくるなんて、良くないと思ったんだけど……」
妖怪の子供―—梓は、少し控えめに語った。
「妖怪だからって、人間に遠慮する必要なんてないわよ。人間が妖怪より偉いなんて、誰が決めたの?」
現代の世の中では、人間と妖怪は、一部を除いて住み分けた生活を送っている。うまく住む環境が分離できたからバランスがとれているのだと思っていたが、もしかしたら、人間たちが住む場所を勝手に広げて、妖怪達をどんどん、人の住まない山奥に追い込んだのかもしれない。その権力に逆らえなかった妖怪達は、追われるままに人里を去っていった。
人間たちに平穏な生活を奪われた妖怪の姿が、余所者に生活環境を乱されてきた、引っ掻き回されても数に負けて屈するしかなかった、幼い頃の椿と重なった。
「住んでいる場所や生活環境が違うからって、全部引っくるめて差別するなんて、許せないわ! 椿は、梓ちゃんの味方だからね! 怖がらなくてもいいのよ」
椿は意気込んで、梓を励ました。
「味方……。だったら、助けてくれるか!? あたいの村と、父ちゃんを助けてけれ!」
梓は椿の台詞を聞いて、勢いよく飛びついてきた。訴えかける大きな瞳が、真剣さを伝えてきた。
「四季姫にしか、無理なんだ。お願いだ、助けて!」
椿は一瞬戸惑ったが、気合いを入れ直して、梓の話を聞こうと決めた。




