第十四章 春姫進化 3
三
「さあ、修業よ!今日から頑張らなくちゃ!」
日曜日。吹奏楽部の朝練から帰った椿は、ピンクのジャージに着替えて気合いを入れた。長い黒髪も頭上でお団子に結い上げ、準備万端だ。
強くなると決めたからには、椿も妥協はしたくない。
まずは体力作りから。できる範囲で始めていこうと計画を組んだ。
意気込んで、椿は自室の隣の襖を開いた。隣接する和室は、居候している榎の部屋だ。
相変わらず、畳んだ布団と勉強机しかない、物が少なくて殺風景な部屋だった。
部屋の脇に立てた鏡の前で、榎は身嗜みを整えていた。
子供っぽい、男物の服しか持っていなかった榎のために、椿が繕ってあげた格好いい女子をイメージしたスペシャルコーディネートだ。清楚な感じのする白いブラウスに、若草色のベスト。スカートは意地でも嫌がったから、スカートっぽく見える裾の開いたキュロットを選んでみた。榎は足が細くて長いから、すっきりして良く似合う。
滅多に着ないから気に入っていないのかと思っていたが、鏡に写った姿に向かって、にやけているところから察するに、まんざらではなさそうだ。
普段なら、榎の喜んでくれている様子を見て、椿も嬉しく思うところだが、今日だけは幸せな気分にはなれそうになかった。
「えのちゃん、どこか行くの?」
ずかずかと部屋に入り、榎の側で低い声をかけた。
榎は相変わらず顔をにやけさせながら、照れ臭そうに笑った。
「うん、四季が丘病院までね。綴さんのお見舞い」
榎は剣道部と兼部して、福祉部にも所属している。毎週金曜日に四季ヶ丘病院に行って、患者さんと交流を持つ活動を行う部だ。榎はその活動で知り合った青年―—綴を懇意にしていて、活動以外にも、ちょくちょくと病院を訪れていた。
相手が四季姫と縁の深い、伝師の一族の人間だから、という理由もあるだろうが、榎は社交的な付き合い以上の感情を向けている気がする。
病院に行くだけなのに、おめかしするところからも、見舞い相手は榎にとって特別な相手なのだと伝わってくる。
いとこであり、親友でもある榎の恋路なら応援してあげたいところだが、よりにもよって、どうして今日なのか。
椿の感情は怒りが勝り、頬をおもいっきり膨らませて不満を表現した。
拗ねた椿の顔を見た榎は、慌てて困った顔をした。
「どうしたの、椿。……もしかして、おたふく風邪!?」
的外れな心配を始める榎に、椿の怒りは更に増した。
「違う! 怒ってるの! えのちゃん、今日は椿と一緒にジョギングするって言ってたでしょう!?」
日曜日にジョギングをしようと、誘ってきたのは榎だ。榎の提案がなければ、椿は苦手な体力作りなんて、する気もなかった。
なのに、なぜ当人が、すっぽかそうとしているのか。
榎は少し考えて、罰が悪そうな呻き声をあげた。間違いなく、忘れていたのだろう。
「ごめん! お昼には戻るから。帰ってから、一緒に走ろう」
額に汗を浮かべながら、必死で謝ってくる。でも、病院行きをやめる気はなさそうだ。
友情よりも男。女同士の関係なんて、その程度のものだと、前に読んだ雑誌に書いてあった。
仮に世間の女たちが、みんな記述の通りでも、榎だけは違うと思っていたのだが。少し残念だ。
「いいわよもう! 椿、一人で走るから」
疲れるし、いつまでも怒っている気にも、なれなかった。必死で謝ってくる榎を尻目に、椿は一人で外に出た。
寺から麓に下りる坂道を駆け降りて、田舎のゆったりした農道を小刻みな足取りで走る。田んぼは稲刈りも徐々に終わり、稲の根元部分だけが点在する、見晴らしの良い寂しい広場になりつつあった。
椿は足も遅いし体力もないが、毎日長い距離を学校まで通っているのだから、町の中心街で暮らしている人達に比べれば、体は鍛えられているはずだ。
なのに、まだ力を付けないといけないなんて、何だか不満だった。筋肉を付けすぎてムキムキになったら嫌だなと考えながらも、椿は小走りで人気のない道を駆け抜けた。
住宅街の外れまでくると、息が上がって、走る速度も遅くなってきた。足が進まなくなり、立ち止まって民家の外壁に手をつき、呼吸を整えた。
「疲れた……。やりたくもないジョギングなんて、一人でしてても楽しくないわ」
修業なんて、好きこのんでやっているものではない。モチベーションが上がるわけもなく、早くも嫌気がさしてきた。
気分転換しようと周囲を見渡すと、楸の家の近くだと気付いた。楸なら休みの日は、家で勉強しているだろう。力を付けるべきだと打診してきたわけだし、椿に付き合って一緒に走ってくれるかもしれない。
椿は佐々木家の裏側に周り、裏門に手をかけた。門は音もなく開いた。施錠はされていない。家人がいる証拠だ。
椿は小声で「お邪魔しまーす」と呟いて、中に入った。庭を通り過ぎて縁側に行くと、いつも遊びに来たときに通される居間から、楸の声が聞こえた。
楸は何やら、一人で黙々と声をあげている。数式を音読している様子だった。
まさか、たった一人で呪文みたいに数式を唱える怪しい真似は、楸に限ってやらないだろう。
誰か先客があるのか。椿は茂みの中に隠れて、家の中の様子を伺った。
ちゃぶ台の上に、ノートや教科書を広げて、楸が口を動かしていた。向かい合う形で、宵が胡坐をかいて座っていた。
「しゅーちゃんと宵ちゃん、一緒にお勉強してる……」
楸と宵は、以前の化け狐の件があって以来、とっても仲良しだ。家の方向が同じだから、学校からもよく、二人で並んで下校している。
楸の中にあった蟠りがなくなって、雰囲気が柔らかくなったからだろう。宵は更に調子づいて、隙あらばと楸に構ってもらおう甘えている。
「この問題は、この公式を利用して……ちゃんと聞いとりますか? 宵はん」
「聞いてるぞぉ。楸の声は、いつ聞いても心地いいな」
楸が宵に一生懸命勉強を教える中、宵はにやけた顔で頬杖を突いて、楸の顔を見つめていた。
だが、そんな反応で楸が納得するはずもない。少し怒った顔で、宵を睨みつけた。
「宿題の分からん部分を教えて欲しいと仰るから、説明しとりますのに。ふざけとったら、張り倒しますえ?」
「いいぞぉ。楸に倒されるなら本望だ」
相変わらず、宵はにやけ顔だ。楸も宵の幸せそうな雰囲気に呑まれて強く言い返せないらしく、口ごもっていた。
「二人とも、いつの間にかすっごく仲良くなっちゃって……」
どこからどう見ても、お似合いのカップルにしか見えない。
椿が強くなろうと頑張っている最中に、四季姫の使命を忘れて楽しい時間を満喫しているなんて。
かなり不満があった。椿だって、無駄なジョギングなんてしている暇があったら、朝と一緒にお話などをしたいのに。
「椿はん? どないしましたんや?」
突然、声を掛けられて我に返った。気付けば、楸と宵が微妙な表情で椿を見ていた。
黙って様子を見ていたつもりだったが、いつの間にか愚痴が口から漏れていたらしい。
傍から見れば、人様の庭に入り込んで、茂みに隠れてこそこそしている椿は、ただの怪しい不審者だ。椿は慌てて言い訳しようとしたが、頭が混乱して何も出てこなかった。身振り手振りで誤魔化そうとするだけで精一杯だ。
「何か、御用でしたか? すんまへん、いらっしゃっとるのに、気付かんくって」
楸は申し訳なさそうに椿に頭を下げる。玄関で呼んでも返事がなかったから、裏に回ってきたと思ったのだろう。周囲の音が耳に入らないくらい、宵と過ごす空間に浸りきっていた、のかもしれない。
「お前、俺と楸の時間を邪魔しに来たんじゃ……」
逆に椿を睨む、宵の怒りは半端ない。無抵抗な、いたいけな少女に殺気に満ちた視線を飛ばしてくるなんて。必死すぎだ。
「違うよ! 通りかかっただけ! お邪魔しました~」
いまさら、二人の間に割って入る勇気はないし、意味も見出せない。椿は慌てて裏門をくぐり、佐々木家から撤退した。
***
その後、椿はトボトボと四季川の河川敷を歩いた。
川の近くにある柊の家にも顔を出してみたが、留守だった。
行き先は、だいたい検討がつく。了封寺だ。
夏休みの禁術会得の修業を終えた後も、柊はかなり頻繁に、寺に顔を出している。楸たちも話していたが、何やら了生と良い雰囲気なのだそうだ。
お寺に行けば、朝にも会える。いい気分転換になるだろうと、椿も妙霊山を目指した。
修行僧の通る修験道にもなっている、きつい山道を頑張って登る。かなりの体力を消耗する過酷な運動だ。今日のトレーニングは山登りだけで充分だろうと、椿の心は完全に修業から遠ざかっていた。
寺に着き、縁側に回ってみると、廊下に朝がいた。
だが、声を掛けられなかった。
朝は胡坐を組んで目を閉じ、瞑想をしていた。
いっさいの乱れがない、落ち着いた居住まい。寺での生活が、しっかりと板についていた。
せっかく会いにきたが、邪魔をしては悪いと思い、椿は気配を消して縁側から遠ざかった。
迂回して境内を覗き込むと、和室で寛ぐ柊と了生、さらに了海の姿があった。ちゃぶ台の上には、涼しげなお椀に透明な固形菓子が、たくさん載っていた。
きな粉が塗してある。わらび餅だ。
柊が爪楊枝でわらび餅を刺して持ち上げた。プルプルと揺れる美味しそうなわらび餅を、了生の口元に運んでいく。
「はい、了生はん。あーんして」
「なんや、恥ずかしいですな……」
照れつつも、了生は大口を開けた。
柊がわらび餅を口の中に入れると、幸せそうな顔をして、口をもぐもぐさせていた。
「美味しいですか?」
「ふぁい、とっても美味しいです」
「ほんまですか!? 嬉しいわぁ」
柊の喜びようから察するに、手作りなのだろう。柊は本当に料理が上手だ。パンケーキしか、まともに作れない椿とは、格が違う。
「柊ちゃーん。わしも、わしも、あーんして」
反対隣にいた了海が、皺だらけの口を大きく開けて、餌をねだる鯉みたいにパクパクさせていた。
柊は一見、穏やかな表情をしていたが、了海の存在を迷惑がっている空気を隠し切れていなかった。笑顔を浮かべる頬に、「了生はんとの時間を邪魔すんなボケ」と書いてある。
柊は特大のわらび餅を、勢い良く了海の口に突っ込んだ。了海は必死で口をモゴモゴさせていたが、衰えた顎では噛み切れなかったらしく、無理に飲み込もうとして失敗していた。
「うぐぐぐ、苦し……」
わらび餅が喉にくっついたらしく、了海はもがき始めた。了生が慌てて、了海の口に湯飲みを持っていく。
「親父、早う茶ぁ飲み。気ぃつけな、ポックリ逝ってまうで」
半ば逝きかけていた了海は、なんとかわらび餅を飲み下して事なきを得た。
そんな、のほほんとした光景を呆然と眺めていると、ふと、複数の視線を感じた。
我に返ると、椿に気付いた柊たちが、不思議そうな顔を向けていた。
「椿やんか。一緒に食べるか? わらび餅」
勧められたが、椿は首を横に振った。
「ううん、遠慮しとく……」
「朝に、会いにきたんか?」
椿の考えを察して、柊は尋ねてくる。椿はこっくり、頷いた。
「朝は、奥におると思いますけど。呼んできましょうか?」
「いえ、いいんです。忙しそうだったので、帰ります」
腰を上げようとした了生を制止する。せっかくの休みで各自、好き好きに寛いでいるのに、みんなの邪魔をしては忍びない。
椿は軽くお辞儀して、寺を後にした。
***
妙霊山からの下山途中。石段に腰掛けて、椿は頬杖を突いて、深く息を吐いた。
「何よ、椿にばっかり強くなれって言っておいて、誰も協力してくれないんだから。みんなばっかり楽しそうに遊んじゃってさ」
どうして椿だけ、なにもかもうまくいかないのだろう。日頃の行いもいいはずなのに。なぜかいつも、椿だけが貧乏くじを引いている気がする。
考えてみれば、みんなには、いざピンチに陥ったときに、助けてくれる人がいる。柊には了生が、楸には妖怪の力を取り戻した宵が、バックについている。
榎は、四季姫と縁の深い伝師一族と深い繋がりを持っている。いざという時には、頼もしい後ろ盾になるはずだ。
椿だけが、何の協力者も持っていないと気付いた。同じ四季姫なのに、不公平だ。
一瞬、椿の脳裏に朝の姿が浮かんだ。
初めて朝月夜の存在を知ったとき、一緒に妖怪と戦ったり、守ってもらえる、なんて妄想も働かせたものだ。
淡い期待を抱いていた頃が、凄く昔の出来事に感じた。
「朝ちゃんが椿の側にいて、守ってくれたらなぁ。朝ちゃんって、本当は強いはずよね。最強の悪鬼を封印していたくらいだし。悪鬼なんて、ぱーっとやっつけてくれたら、椿たち、戦う必要ないのに」
なんて、無理な我儘を言うわけにはいかないが。
朝は力の暴走を避けるために妖怪の力を封じ、ただの人間になってしまった。隣に並んで共に戦うなんて、夢のまた夢だ。
そもそも、朝を助けた後は、もう戦いに身を投じる必要もなく、楽しい日常生活を送れると思っていたのに。
本当なら、今頃は椿だって、朝と二人っきりで……。
「椿だって、朝ちゃんと一緒にデートとかしたいなぁ」
「いいですよ」
独り言の呟きに返答がきて、椿はびっくりして悲鳴をあげた。
顔をあげると、すぐ目の前に、朝が立っていた。
「キャー! 朝ちゃん、いたの!?」
「すみません。声を掛けたのですが、気付いてもらえなくて」
椿は、一度妄想の世界に入り込むと、中々現実には戻ってこれない。周囲の音や気配は全部遮断されて、気づかない時も度々あった。
おまけに、我を忘れて妄想していると、頭の中に浮かんでくる台詞をそのまま口に出している場合が多く、聞かれる相手によっては、かなり恥ずかしい。
椿は顔を熱くしながら、慌てて朝に謝った。
「ごめんね、ごめんね! 椿、色々考えていたら、頭の中が一杯になっちゃって」
「いいえ。僕こそ、せっかく来てくださったのに気付かなくて、申し訳ありませんでした」
朝は椿の恥ずかしい癖を、笑って受け入れてくれた。椿の来訪を知って、わざわざ追い掛けてきてくれたのか。
朝の優しさに、椿の心がじんわりと温かくなった。
「本当に、椿とデートしてくれるの?」
まだ信じられなくて、確認のために再度、問い掛けた。
「相手が僕で、よろしければ」
朝の顔は、変わらず優しい笑みに包まれている。段々実感が沸いてきた。椿も笑顔で「ありがとう!」と返した。
「ところで、〝でーと〟とは、何をするのですか?」
横文字が良く分からない朝は、不思議そうに尋ねてきた。快諾してくれたものの、具体的には分かっていない様子だ。
「デートはね、男の人と女の人が、二人で遊びに出かけたり、ご飯食べたり、お話したり……することかな」
椿も、知っているつもりでいながらも、実は良く知らない。デートなんて、した経験がないし、他の人がしている様子をジロジロと見るわけにもいかない。少女漫画を読んでいると、ロマンチックなデートシーンも度々出てくるが、盛り上がるシーンばかりが厳選されて描かれているため、肝心の流れや細部の行動が、さっぱり分からない。
みんなはどうやって、デートのやり方を覚えるのだろう。謎だった。
「椿さんは、どこで何がしたいですか?」
自信のない説明だったが、朝は何となく、理解してくれた。把握した上で、椿に尋ねてきた。
「僕には、この時代の流行や町の地理が、まだ良く分かりません。ですから、椿さんの好きな場所に連れていっていただけたらと思います」
確かに、朝に突然、最高のデートスポットに連れて行ってもらうなんて、無理がある。椿が行き先を考えるべきだろう。
「椿の行きたいところ……。いっぱいあるけどぉ」
京都にも、話題になっているデートスポットはたくさんある。お寺とか、海とか、動物園とか。
でも、あまり遠くにはいけないから、必然的に四季ヶ丘町内のどこか、になる。
公園もいいかも知れないが、あまりいい思い出がないから、抵抗があった。朝との思い出を作って塗り変えられたらいいとも思う。
だが、デートをする以前に、肝心な準備が整っていないと気付いた。
「せっかく出かけるんだもの、ジャージなんてダサいわよね!一度、家に戻って着替えてくるね」
男の子とデートするなら、ばっちりお洒落を決めて挑みたい。
「椿さんの家も、お寺でしたよね。……僕も、お邪魔してもよろしいでしょうか?」
突然の申し出に、椿は首を傾けた。
「椿の家に、来るの?」
「町の東側は、ほとんど知りませんし、了封寺以外のお寺にも、興味がありまして」
朝の好奇心を満足させるものがあるかどうか、判断つきかねたが、朝から頼み事をするなんて滅多にない。
椿は快く、要望を受け入れた。
「うん、いいよ。一緒に行きましょう」
椿と朝は、並んで山を下りて行った。




