第十二章 冬姫進化 8
寺で過ごす、最後の夜。
一睡もできなかった。
起きていても、思考は全く働いていない。ただ呆然と、廃人みたいに天井を眺め続けていた。
頭の中では、了生の部屋で見つけた写真の画像が、焼きついて消えなかった。
了生が誰と恋仲だろうが、柊には何の関係もない。なのに、無性に苛立って、悔しくて、情けなかった。
どうして、こんなに苦しいのだろう。他人の恋愛事情なんて、普段なら気にもならないのに。
答が見つからず、気持ちが悪い。柊は、動かない頭で必死に考えた。
思い起こされる記憶は、了生との修行の日々。想像するだけで楽しくて、心が朗らかになり、修業がうまくいかない辛さも焦りも、吹き飛んだ。
嬉しくなり、気持ちが高揚した途端に、また、あの写真が脳裏を遮り、幸せな気分を掻き消していった。
正と負の感情が、激しく波打っては、柊の心を疲弊させた。
苦しさに堪えられなくなった頃。ようやく、柊は素直な気持ちを、心の奥から掬い取れた気がした。
「うちはずっと、了生はんに惚れとったんやなぁ。せやから、苦しいんか」
初めての感覚だから、よく分からなかったのかもしれない。もしくは、潜在意識が、他人への気持ちを押し潰していたのだろうか。
人を好きになる資格なんて、柊にはないと思っていた。母親を容易く見限る冷酷な父親を、家族を見捨てて自身の幸せのために出て行った薄情な母親を持つ人間が、冗談でも他人に恋心を持つなんて、許されないと決め付けていた。
人間は、そんな建前や理屈なんてお構いなしに、気付けば人を愛せるらしい。
柊の小さな世界の常識では計り知れない、不思議な現象だった。
けれど、もう、手遅れだ。
「今頃、気付いてもな。うちには、どないもできん」
了生と、恋人の女性との間に、入り込む隙間なんてない。
いずれは、あの女の人がこの寺にやってきて、温かな家庭を作っていくのだろう。
柊がでしゃばるまでもない。
急に、居心地が悪く感じ始めた。
いつの間にか、この寺は、柊の心を掻き乱す場所に変わっていた。油断して、長くいすぎた。
何もかも忘れよう。早く修業を終わらせて、静かな家に帰ろう。
柊は気持ちを切り替えて、目を閉じた。相変わらず、眠りの世界への扉は開かれなかった。
* * *
早朝。
柊は寺の境内に、一人で突っ立っていた。
側には、荷物を纏めた鞄も置いてある。禁術を会得次第、すぐに帰れるように、支度は済んでいた。
朝のお勤めを終えた了生が、外に出てきた。柊の姿を見て、朗らかな笑顔を浮かべた。
「柊さん、お待たせして、申し訳ない。気合いが入っておられますな」
無言で受け流した。長居したい理由もないのだから、急ぐに決まっている。
柊は乱れそうになる心を鎮め、冬姫に変身した。
了生も、静かに錫杖を構える。
「最後の仕上げです。書物に記された順序で、禁術を発動してみましょう」
禁術の具体的な使用法は、頭に叩き込んである。記憶を呼び起こしながら、柊は薙刀を振り翳し、地面を蹴った。
薙刀に、力を吸い取られる感覚がした。強烈な脱力感に襲われる。
同時に、激しい力が外に放出された。粉雪が激しく降りしきり、視界を遮った。
激しい風。晩夏の朝の景色が、吹雪の世界へと変貌を遂げた。
おそらく、禁術発動の前兆。
この力を制御しなければならない。冬姫として、精神力の強さが問われる時だ。
力が、安定しない。当然だ、集中できていないと、はっきり分かっていた。
内側から溢れ出てくる力に耐えきれなくなり、柊は薙刀を手放した。地面に崩れると共に、吹雪は幻の如く消え去った。
様子を窺っていた了生が、柊の側に屈み込んでくる。
「随分と、気が乱れておりますな。体の調子は、大丈夫ですか?」
心配した顔で、柊の肩に手を触れてきた。
強烈な嫌悪感に襲われ、柊はその手を振り払った。
我に返り、顔を上げると、了生は驚いた顔をしていた。
苛立ちを残しながら、心はどんどん冷えていく。柊は俯いて、呟いた。
「了生はんは、なして、うちに期待を懸けてくれはるんですか?」
「もちろん、柊さんならできると、信じておるからです」
自身に溢れた、即答の言葉。重石みたいに、柊の心を押し潰そうとした。
「なら、できんかったら、見限りますか」
声が震えた。でも、問わずにはいられなかった。
「弱気になっては、いけません。うまくいくと、信じ続けてください。柊さんは、強いお人や。必ず道を切り開けます……」
「うちは、強い人間なんかやない! あんたに、うちの何が分かるんや! 似た孤独を抱えとるから、一緒に強うなれる? 嘘吐くな、心の支えなんて、いくらでも持っとるくせに!」
気づけば、柊は思いっきり怒鳴っていた。
辺りが、静まり返る。了生の困惑した表情を見ると、途端に脱力した。
「すんません、了生はん。もう限界ですわ」
消え入りそうな声で、そう告げた。
「うちは、欲と煩悩の塊や。純粋に強くなりたいなんて、思ってへんかったんや。――了生はんを、好きになってしもうたから。了生はんに認めてもらいたくて、浮ついた修行をしとった。せやから、望みが叶わんと分かった途端、やる気も何も、なくなってしもうた」
今更、本当の気持ちを伝えたところで、何の意味もない。だが、弱りきった心には、溢れ出てくる言葉を押し止める力さえ、残っていなかった。
いざという時に、何もできない。柊は、役立たずだ。
だから、親からも見放された。
だから、四季姫を、仲間達を守りきれなかった。
了生の顔も、まともに見れなかった。きっと、幻滅している。
「アホらしい理由やろ。でも、うちは弱いから、そんな些細な理由でも、心が乱れるんや。軽蔑してもろうても、結構や。見捨てられるんは、慣れとるねん。うちなんかのために、無駄な時間を割かせて、すんませんでした」
柊は立ち上がり、変身を解いた。ふらつきながら荷物を持ち上げた。
「もっと、恋人との時間を、大切にしてあげてください。了生はんの良さは、誰にでも優しいところやけど、優先順位はつけんといかん。もっと一緒にいてあげな、彼女さん、可哀相やで」
早足で、柊は了封寺から立ち去った。
* * *
妙霊山から麓へ下りる石段を歩いていると、上ってくる了海と鉢合った。
了海は、修業を完遂できなかったと分かっていたのだろう。険しい表情を浮かべていた。
「了海はん、お世話になりました。期待に応えられずに、すんません」
柊は深々と頭を下げ、了海の脇をすり抜けた。
「また、孤独な殻の中に、戻られるか」
すれ違い様に、了海は静かに、語りかけてくる。
「殻の中でも、やれる努力は、ありますさかい。禁術は必ず、自力で会得します」
初めから、一人の力で行っていれば良かった。一人なら、結果がどうなっても、自己責任で済んだ。
誰にも迷惑をかけずに済んだ、傷つかずに済んだ。
結局、柊は一人のほうが性にあっているのだろう。
「修行とは、弱い己に打ち勝つ試練。お前さんの弱さは、人に頼れない弱さ。人を恐れ、距離をとり、逃げようとする軟弱な心」
了海は、柊が自覚したくなかった心の底まで、抉り返してくる。何でもお見通しなのだなと、柊は鼻で笑った。この坊主に、嘘は通用しない。
「人を頼ったかて、迷惑がられるだけや。関わらん勇気も、人が生きていくためには必要なんや。ただの逃げやと思われてもな」
柊が、心の傷と引き換えに辿り着いた、たった一つの真実だ。この教訓を蔑ろにしてまで、強くなろうとは思わない。
「了生の弱さは、人に頼りすぎる弱さ。了生も、お前さんと一緒に、弱い己を乗り越える試練を受けておった。正反対の気質を持っておるからな、互いに良い刺激になると思うておった」
「別に、甘ったれたままでも、修業できるんとちゃいますか? 厳しさを求める時代でもなし、心の支えになる、甘えさせてくれる人がおるんやから、素直にしがみついとればええんや」
了生の周りには、望まなくても互いに分かり合える人が集まってくる。天性の性質かもしれないし、決して悪いものではない。長所として伸ばしていけばいい才能ではないだろうか。
柊の意見に、了海は複雑そうな影を落とした。
「じゃが、仏相手に、いつまでもしがみついとるわけには、いかんやろう。冬待ち仏が、いつまでたっても成仏できん」
低い、鎮まった声に、柊は呆然とした。了海の言葉の意味を理解するために、時間が掛かった。
「緑さんは、しっかりした女性やった。了生とも仲睦まじく、結婚の約束もしとった。――交通事故とは、恐ろしい。人が一瞬にして、人の命を、奪ってしまうんやからな」
緑とは、あの写真の女性か。
「……もう、亡くなってはるんか?」
ようやく核心に辿り着き、柊は荷物を地面に落とした。
写真の中で、了生と一緒に微笑んでいた女性は、既にこの世の人ではない。
頭が混乱し、柊はあらゆる感情に押し潰されそうになった。
「二年前やな。同じ大学で知り合うて、卒業したら結婚するて、儂のところにも挨拶にきてくれた。一緒に寺を守っていってくれるには、他にないくらい、ええ娘さんやった」
遠い目をして、了海は語る。過去の幸せだった一時を、ゆっくりと思い起こしていた。
「緑さんを失ってから、了生は完全に腑抜けておってな。修行にも学業にも身が入らん。廃人みたいな生活をしとった。緑さんは、お里が遠くてのう。ろくに墓参りにも行けんから、思い出す度に、うちの寺の石碑に念じ続けて、仏の眠りを妨げとった」
先日の、了生の奇行には、そんな理由があったのか。
柊は、了生の気持ちなんて知りもしなかった。知ろうとも、しなかった。
急に、罪悪感で胸が締め付けられた。
「今年に入って、四季姫様たちが次々と覚醒しとると気付き、儂は了生を説き伏せた。四季姫様たちへの助力は、お前に与えられた試練や、と。四季姫様たちを支え、使命を全うすれば、必ず立ち直れる。お前が再び歩みを進めれば、緑さんも浮かばれるやろうと、儂は必死で説いて聞かせた」
了海の眼差しが、現実へ戻ってきた。真っ直ぐ、柊を見据えていた。
「徐々にやったが、あいつは動き出した。四季姫様を助け、導いていく使命に、情熱を傾け始めた。今のあいつにとって、皆さんの成長は大きな生き甲斐になっておる」
柊たちが、四季姫として戦い続けている間、了生もずっと、己の心と向き合っていた。
その心の弱さのせいで、なかなか四季姫を見つけ出せなかったり、妖刀に取り憑かれたりと、色々な苦労をしてきた。
「お前さんに付きっきりで修行をしておる理由も、緑さんへの悲しみを忘れるために利用しておるだけやと思えるかもしれん。じゃが、了生は間違いなく、お前さんと一緒におる時間を、楽しんでおる。朝や宵、他の四季姫様たち以上に、特別な感情を持って、接しておる。冬姫様の心力を受け止めるには、まだまだ未熟じゃ。それでも、あいつの想いだけは、酌んでやってくれんやろうか」
未熟だなんて、思わない。
柊は、ゆっくりと、首を横に振った。
「うちの心は、氷みたいなもんや。いっつも冷えきっとる。了生はんの熱意は、うちには熱すぎて、火傷しそうなくらいやった」
わずかな間でも、了生の存在は、柊の心の氷を、間違いなく溶かしてくれた。
「了生はんが前へ進むために、うちは少しでも役に立てたんやろうか……。せやったら、捨て駒でも、嬉しいかなぁ」
素直な、本音が漏れた。同時に、瞳から涙も滴り落ちた。
泣きながら、柊は笑っていた。
「お前さんの健気な姿に、了生は救われておるよ。卑下せんでもよろしい」
ならば、柊も救われる。初めて、人の役に立てたのだと、胸を張って言える。
だが、同時に、了生を傷つけた。
謝らなくてはいけない。了生の心に、余計な負担をかけたくない。
柊は、寺に引き返そうとした。
瞬間。全身に悪寒が走った。
「何や、急に、妙な気配が……」
寺の中で、異様なものが蠢いている。今までよりも、鮮明に感じ取れた。
「よからぬものが、現れたらしいな」
了海の声を合図に、柊は駆け出した。




