第十二章 冬姫進化 5
午後からは、了海親子は葬式で外出したため、修行は中断して留守番だ。
昼食を済ませた後は、全員揃って恒例の勉強会が始まった。
夏休みが明ければ学校に通う朝と宵は、中学生のレベルに順応するための最終調整に入っていた。
とはいっても、楸の追い込みは凄まじくハードだ。ついていけている奴は、朝だけだった。
「なるほど、この計算を正しく解くには、この方法を使うのですね」
「朝はんは、飲み込みが早いどすな。教え甲斐があるどす」
「楸さんの教え方が、上手いのですよ」
「何べん説明しても覚えよらへん、できの悪い弟とは大違いどすな」
朝と楸は、凄まじい勢いで数学の問題集をこなしていく。競争の激しくない田舎の町立中学としては、既にトップクラスの学力が身についていそうだ。
一方で、和気藹々と勉学に勤しむ二人を横目に、距離を置いて、ふて腐れている連中もいた。椿と宵だ。
「朝ちゃん、生き生きしているわ……。どーせ、椿は数学、苦手だけどー。まともに教えてあげられないけどー」
「なんだよ、朝ばっかり。楸と楽しそうに話しやがって……」
エリートたちの学力レベルについていけず、途中でリタイアした二人は、意中の相手を取られて不満気だった。
楸と朝の様子を眺めていると、とってもお似合いの二人に見えるから、余計に焦りや苛立ちが募るのだろう。
「宵ちゃんが、しゅーちゃんの気をしっかり引いておかないからよ! だらしがないわね!」
「何だとぉ!? 俺だってな、ずーっと楸と二人っきりでいたいんだよ!」
最後には、互いに当たり合う始末だ。
「何を揉めているんだ? 二人は」
障子を開けて、榎が入ってきた。さっきまで、かき氷で腹を冷やして、便所に篭っていた。青白かった顔は、すっかり復活していた。
いがみ合っている椿と宵を見て、頭に疑問符を浮かべていた。
「失恋同盟、っちゅう奴やな」
柊が呆れて呟くと、二人の怒りの矛先が集中してきた。
「違うもん。構ってもらえないだけで、まだ、失恋なんかしてないもん!」
「俺は楸に嫌われちゃいねえ! 愛想を尽かされただけだ!」
「どっちも、同じやっちゅうねん」
ムキになっているところを見ると、少なからず危機感はあるらしい。
「楸たちの輪に入りたかったら、勉強の内容を理解するしかないだろうな。まあ、あたしは、入る気すらないけど」
「入りとうても、榎は能力的に無理やろうな」
「うるさいな。柊だって、絶対に入れないだろうが」
「せやから、最初っから入っとらんがな。勉強が大事やいうても、あくまで教養の一つや。無理に拘って、齧りつかんでもええ」
「だな。他に取り柄があれば、別にいいよな」
珍しく、榎との意見が一致した。
軽く結論がでて、室内は、まったりした雰囲気になった。榎は、外から入ってくる気持ちい風に吹かれて、年寄りみたいにウトウトしていた。
「取り柄っちゅうたら、自分、のんびりしとってええんか? 剣道の稽古も、本腰入れてせなあかんのやろ」
本来なら、榎は二学期から名古屋へ帰るはずだったが、悪鬼との戦いに備え、残る決意をした。
運よく、剣道部の大会メンバーに選ばれたため、難なく残留できたわけだが、その分、修業に加えて部活のトレーニングもハードになっていた。
「朝練は、行ってきたぞ。他にも福祉部とか色々、やらなきゃいけないから、スケジュール組んで調整しているんだ。今日はちょっと、休憩だけど」
「福祉部て、誰かさんの見舞いに行っとるんやろ? 忙しいな」
多忙なくせに、榎はなぜか、福祉部まで兼部していた。何でも、伝師に関わりのある人が病院にいるそうで、部活動に関係なく、足繁く通っているそうだ。
奏の兄らしいが、柊は詳しく知らない。
「綴さんな。昨日も、行ってきたぞ! 夏休みに入ってから、三日に一回は通ってるんだ」
嬉しそうに、榎は語る。
「迷惑とちゃうか? そないに頻繁に押しかけて」
「分かってるんだけどさ。やっぱり、会いたくなって……」
頬を軽く染めて、榎は控えめに笑った。
榎の顔が、乙女になっとる。
柊は唖然とした。まるで、新発見の珍獣でも見つけた気分だ。
その綴なる人物を、かなり気に入っているのだろう。昔から男友達との付き合いは多い奴だったが、今回は少し、態度が違った。
「つーか、聞いてよ。昨日、綴さんに会いに行く前にトイレに入ろうとしたらさ、いきなり警備員のおっさんに呼び止められてさ。「君、ここは女子トイレだよ、入ったらいかん」って、怒られてさ」
我に返って、榎が不満話をぶちまけてきた。黙って聴いていたが、堪えられなくなり、柊は吹き出した。
周囲を見ると、椿も楸も肩を震わせて笑いを抑えている。
みんなの態度が不満だったか、さらに榎の愚痴に拍車が掛かった。
「笑い話じゃないんだよ。あたしが女だって、何度説明しても分かってもらえなくて、頭っから痴漢扱いでさ。保険証見せて、知り合いのナースさんに助けてもらって、やっと解放してもらえたんだ。散々だったよ」
「災難どしなたぁ」
「男みたいな格好で、うろついとるからや」
どうせ、普段と変わらない、Tシャツと短パン姿で来院したのだろう。男と間違えられても、当然といえば当然だ。
「何だよ、他人事だと思って。みんなは、男と間違えられないから分からないだろうけどさ。結構、傷付くんだぞ」
共感を得られず、榎はふてくされていた。
「でも、いいんだ。綴さんは、ちゃんとあたしが女だって分かってくれるから。警備員のおっさんに虐められた、って泣きついたら、頭を撫で撫でしてくれたし」
腹立ちもどこかへ吹き飛び、榎は頭を押さえて、にやけ始めた。
愚痴が、のろけ話に変わるとは。榎が色ボケするなんて、世も末だ。
「相変わらず、お気楽に生きとるな、榎は。ほんまに、羨ましいわ」
幸せそうな榎を見ながら、柊は呆れて息を吐いた。
「柊はんも、お気楽とはいいまへんけど、楽しそうに修行しておられますな」
楸に指摘され、少し動揺した。
「楽しそうに、見えるか?」
「普段よりも、生き生きしてはるどす」
柊自身が気付かなかった感情の変化を見抜かれ、少し気恥ずかしくなった。
「修業が、とってもうまくいっているのね? きっと、成長できているから、楽しいのよ」
「どないやろうな。いまいち、進歩しとる実感がないんやけど」
今までの修行の工程を思い返してみると、確かに少しは、成長はしている気がする。でも微々たる変化だし、喜べるほどの実績は、まだ出せていない。
「柊さんは、とても頑張っていらっしゃいますよ。爺さまも兄上さまも、すごく褒めておられました」
「兄ちゃんたちは、柊を特別扱いしすぎだ。俺たちにものを教える時は、思いっきり適当なくせに」
ずっと身近で修行を見てきた朝と宵の意見が、柊の修行に現実味を与えてくれた。
「確かに、楽しいとは思うわ。この寺は、賑やかやけど落ち着くし、みんな親切にしてくれる。何の不自由もないから、居心地がええんやろうな」
気持ちが明るくなり、少し、素直になれた気がした。
「柊はんにとって、このお寺は、心が安らぐ場所なんどすな」
楸に笑いかけられ、柊も照れながら、笑い返した。
「初めてかもな。こんな環境。ずっとおりたいくらいや」
勢い余って、本音が漏れる。皆の視線が、柊に注がれていた。
「まあ、無理やけどな。もう少しで、この生活も終わりやし。せいぜい、楽しんどくわ」
柊は軽く咳払いして、はぐらかしておいた。
長くいれるとしても、あと二、三日だ。くだらない気持ちに捕われずに、現実を見て修行に励まないと。
気持ちを切り替えていると、玄関で了海の声が聞こえた。
「帰ったか、爺! 腹癒せに塩を撒いてやる」
宵が部屋を飛び出して、突っ走っていった。しばらく経って、了海の悲鳴が聞こえてきた。
「やめんかい、仏道に塩は不要なんや! 食塩を無駄に使うな!」
よく、お通夜や葬式から帰ったときには、足元に塩を撒いてお清めする風習があるが、神道寄りの行事らしく、仏事としては何の意味もないらしい。
楸と話ができなくて、暇を持て余していた宵の、嫌がらせ攻撃だ。きっと玄関は塩まみれだろう。後で掃除しないと。
まだ廊下で騒いでいる二人を尻目に、了生が廊下を音もなく歩いてきた。
「お疲れさんです。茶でも淹れますわ」
柊が声を掛けると、了生は立ち止まって、うっすらと笑みを浮かべた。
「おおきに。でも、少し部屋で休みますわ」
気力がなく、落ち込んだ様子だった。まるで幽霊みたいに、了生は歩いて行ってしまった。
「ほんまに、お疲れみたいどすな」
「暑さに、やられたのかしら?」
みんなで廊下に身を乗り出して、了生の後姿を見送る。体の調子を崩しているのだろうか。
「なに、式の席で、ちょいと、ごたついただけや」
宵を成敗した了海がやってきて、軽く説明をした。葬式の際に、何か混乱する出来事でもあったか。
柊はしばらく、了生の姿が消えた廊下を眺めていた。
* * *
その日の夜。風呂掃除や台所の片付けを終えて、柊は部屋に戻ろうと廊下を歩いていた。
寺の北側は、墓地だ。柊がいつも通る縁側の廊下からは、丸見えの場所にあった。
特に怖いと感じもしなかったが、今日はいつもと違う、妙な雰囲気を感じた。
立ち止まって墓場の方角を凝視すると、墓石の合間から、ぼんやりと光が漏れている。
まさか、人魂だろうか。
なんて、アホらしい考えを巡らせつつも、怖いもの見たさの好奇心から、草履を持ち出して外に出た。
普段から妖怪相手にバリバリ戦っている、天下の冬姫が、幽霊如きでビビる道理もない。淡々と近寄っていくと、人や妖怪の気配がした。
墓石の陰に隠れて、朝と宵、八咫たち妖怪勢が、こっそりと何かを覗き見ていた。光源は、八咫が手に持っていた、ホタルブクロみたいな明かりだった。
「こないな夜に、墓場で集まって、何をしとるんや。運動会か?」
背後から声を掛ける。妖怪たちは飛び上がって驚き、振り返って柊に人差し指を立ててきた。
静かにしろ、と威圧され、柊は押し黙る。みんなに倣って側に屈み込み、同じ方向に視線を向けた。
墓地の一番奥まった場所に、小振りな石碑が立てられていた。墓のない仏をまとめて弔うための碑だと聞いていた。
その石碑の前で、了生が屈み込んで、無心で手を合わせていた。
随分と熱心な様子だ。柊は呼吸も忘れて、了生の様子に見入った。
「〝ぼに〟の頃から、度々、お参りをしていらっしゃいましたけれど、今の時期はあまりよろしくないかと」
朝が小声で、説明を始めた。
「でも、何だかすごく必死に念じておられるので、声を掛け辛くて」
心配そうに了生を見ているが、柊は朝たちの意図がよく分からず、首を傾けた。
「〝ぼに〟って、何や?」
「昔呼びの、お盆ですわ。お盆を過ぎてから彼岸が終わるまでの間は、過度に念を込めた墓参りは良くないんじゃ。仏さんが、あの世へ帰り辛くなるからな」
耳元で、了海の囁きが聞こえた。思わず大声を上げそうになったが、なんとか堪えた。
「お盆の時期には、地上に多くの仏さんが戻ってくる。その際に、現世の人間は墓参りや法要を行い、先祖や親しかった者たちを迎える。仏は盆が過ぎれば再び天へと戻るが、中には未練を引き摺って、居残ってしまう方たちもおられる」
「一度は成仏したのに、まだ未練があるっちゅうんか?」
「毎年、必ず居られる残留魂でな、わしは〝冬待ち仏〟と呼んどりますのや。盆は、夏にしかあらへん行事じゃ。帰省した仏は、現世の夏の姿しか味わえん。冬に亡くなった仏、冬の季節に未練を残す魂が、現世の冬を見届けようと、居残られる場合があるんじゃ」
初めて聞く話だが、理屈は何となく分かる。柊も、夏より冬が好きだ。どうせ死んだ後で現世に戻ってこれるなら、盆より正月のほうが有難い。
「じゃが、冬まで待っておれば、あの世に帰れなくなる。現世に残る魂は妖気を帯び始め、悪霊となる危険も孕む。せやから、盆が過ぎる前に、きちんと供養して、お帰りいただかんと、あかんのじゃがな」
困った様子で、了海は唸る。言い分からするに、この墓場には現在、盆を過ぎても現世に留まっている魂が残っているらしい。
「この時期に、下手に墓前で悩みを打ち明けたり、救いを求めようとすると、霊たちにとって格好の残留理由になってしまうのです。安心してあの世へ戻れなくなるのでしょうね」
「そないに仰山、魂が墓場におるんか? 何も見えんけど」
柊には、その残留魂の姿は見えない。みんなには、見えているのだろうか。
「霊感がある奴の霊視力は、妖気を見るためのものだ。妖気を纏っていない魂までは、捉えられない」
「妖怪や、悪霊限定っちゅうわけか」
宵の説明を受けて、納得した。陰陽師の生まれ変わりであっても、見れないものが存在するのか。
「姿は見えませんが、気配を感じませんか? この寺一帯に、幾人もの魂が、あるべき場所に戻らずに残っているのです」
朝の言葉を受け、柊は感覚を研ぎ澄ませる。何となくだが、目に見えない何らかの視線や、冷気を感じた。
「兄ちゃんが、ウジウジと未練を引き摺ったまま墓参りしているから、その意識に引っ張られてんだな」
了生は石碑に向かって、何を訴えているのだろうか。今日は外から帰ってきてから、ずっと様子がおかしかった。
誰かの魂を、引き止めようとでもしているのだろうか。
柊の脳裏には、了生の母親が浮かんだ。
だが、誰の墓かも分からない墓前に念じるなんて、おかしい。
柊には知る由もない了生の事情があるのだろう。もどかしく感じた。
「あいつも、良うないと、分かっとるんや。せやけど、止められへんのやろうな。いつまで経っても、心が弱いでな」
仏に縋らなくてはならないほど、何を思い詰めているのか。
理由が分からなくても、少しくらい力になりたい。柊は複雑な気持ちで、了生の寂しげな背を見つめた。
「反則技やが、冬姫様のお力で、冬待ち仏を送り返してやっては貰えませんか」
不意に頼まれ、柊は戸惑う。
「うちなんぞに、何かできるんですか?」
了海は、大きく頷いた。
「簡単な儀式でええんや。一足早い冬の世界を、仏さんたちに見せてやればよい。さすれば、満足してお帰りになられるやろう」
なるほど。冬を恋しがる魂を、無理なく満足させられる。冬姫の力だからこそ、可能な技だ。
「健全な魂が皆、天へと帰れば、阿保息子も、いくらか目を覚ますでしょう」
了生が、何らかの煩悩から解放を求めて念仏を唱えているのなら、大きな間違いだ。
いつまでも他力本願では、心の弱さからは抜けきれない。
了生に、教えてもらったのだから。今度は、柊が諭してあげたい。
夜の風の音に紛れて、柊は冬姫に変身した。
「冬姫様、お一つだけ助言を」
墓場の中心へ向かおうとした柊を、了海が呼び止める。
「冬の力は、ただ凍らせて留めるためだけのものではない。空気も水も、春へ向かって静かに流れゆく。冬は、命を繋ぐ架け橋となるもの。どうか、お忘れなきよう」
了海の言葉が、自然と柊の中に流れ込んでくる。
冬の力は、全てを凍らせて動きを封じる、足止めの力だと思っていた。
でも、決して断定的なものではない。
冬の息吹は、あらゆるものを春へと導く力を持つ。
寒さを避けて眠る命にも、刻々と変化がある。その摂理を理解した時、柊の中の凍った世界が、静かに砕けた。
薙刀を軽く翳す。夏の夜空が厚い雲に覆われ、牡丹雪が降り頻る。空気中の水分が凝結し、氷の礫となる。緩やかな風に乗って、渦を描いた。
体が勝手に動く、柊は冷たい風を纏い、墓地の中心で静かに舞った。
了生が異変に気付いて、振り返った。青白い光を放つ柊を、瞬きもせずに見つめていた。
周囲に、ぼんやりと気配を感じる。現世に留まっていた魂たちが、冷たい流れに乗り始めた。心なしか、喜びが伝わってきた。
降りしきる雪の中を、魂は柊と一緒に舞った。楽しげに踊りながら、天へ向かっていった。
動きを止めて姿勢を正し、柊は冬待ち仏の帰還を見送った。了生も空を見上げ、切ない表情を浮かべていた。細めた目尻に、一筋の涙が伝っていた。
了生は柊を見つめ、静かに合掌して、頭を下げた。
「冬姫様。お手数、お掛けしました。危うく、帰れん仏を増やすところやった」
「お互い様や。うちで力になれるんやったら、いつでも言うてください」
柊は、了生に笑いかけた。
「明日からまた、修行、よろしゅうお願いします」
お辞儀をして、変身を解いた。
雪が止み、次第に夏の夜の空気が戻ってきて、暖かく周囲を包み込んだ。




