第十二章 冬姫進化 2
翌朝。
普段と違う布団の中で、柊は目を覚ました。
起き上がってみれば、見慣れぬ和室に、障子の隙間から覗く、広い庭。
幼い頃から、生活環境が短期間に変わり続けてきた柊にとっては、慣れた感覚だ。了封寺での生活は、新鮮な気分で始まった。
時刻は、五時。太陽が程よく昇った頃。
修業とはいえ、ただ世話になるだけでは忍びない。何かできそうな手伝いを探そうと、柊は寝床を片付け、身支度を整えて居間へと向かった。
居間は、いつも談話や勉強会で借りている八畳の和室だ。台所と隣接しているため、燕下家の人々も食卓として利用している。
台所から、賑やかな物音が聞こえてきた。落ち着いた暗めの室内では、朝と妖怪たちが野菜や調理用具をいじり回していた。
「お早うさん、朝」
声を掛けると、朝は動きを止めて挨拶してきた。
「お早うございます。今から朝餉を作りますので、ゆっくりしていて下さい」
片手鍋を握りしめ、穏やかに笑う。柊は感心した。
「偉いな。朝が飯を作っとるんか?」
「当番制なんです。この時代の生活に慣れるためにも、炊事くらいできたほうがいいと、爺さまから教わりましたので」
男ばかりの家だからか、全員が料理を作れるらしい。立派なものだ。
了封寺には、女の人がいない。何となく気になっていたが、深く追求もしないままになっていた。
男やもめの生活なんて、柊には想像がつかない。どんな食生活を送っているのだろう。
一週間、世話になるのだから、生活スタイルくらい把握しておきたい。柊は朝食作りの様子を見学した。
大根や漬物、生魚など。朝が冷蔵庫から取り出す材料を見る限り、やはり寺らしく、和食が中心だ。
「料理は、得意なんか?」
平安時代の料理にも、興味がある。腕が立つなら、ぜひ教えてもらいたいものだ。
だが、朝のぎこちない動作を見ていると、調理に慣れているとは思えなかった。
「作業の流れは、兄上さまから教わったのですが、何もかも初めてなので、難しそうですね」
完全に初心者か。料理は経験と技術が全てだ。口頭で教えてもらったくらいで簡単にできるものではない。一人で包丁を握らせるなんて、無謀もいいところだった。
「まだ、勝手も分からんやろ。少し手伝うたるわ」
柊は手を洗い、朝の隣に立った。
「いけません、お客様に仕事をさせるなんて」
「客なんて大それた扱い、してもらわんでもええ。うちは修行で世話になっとるんや。寺の門弟みたいなもんやろ」
朝から包丁を奪い取り、味噌汁に入れる大根を、短冊切りにした。
柊の包丁捌きを見て、朝は感嘆の声を上げていた。
「すごく、お上手ですね」
「大根は切りやすいしな。慣れたら、誰でもできるわ」
鍋に水を張り、火に掛けた。具材と合わせ出汁を入れ、煮込んでいく。
朝は妖怪たちと一緒に、机に砂糖や酢を並べて、物珍しそうに観察していた。
「この時代には、本当に沢山の食材や調味料があるので、どれを使っていいのか迷いますね」
「ひとつ間違えたら、とんでもない味になるで。気をつけな」
楸に教えてもらったが、平安時代には塩や味噌、醤油の原料となる醤くらいしか、味付けする材料がなかったらしい。
冷蔵庫もないから保存食ばかりだし、仏教の教えで、食肉も規制されていた。料理のレパートリーも少なかっただろう。現代からは想像できない食生活だ。
朝たちがどんなものを食べて暮らしていたかは知らないが、見るもの食べるもの、全てが新しいに違いない。
「料理は勉強とは違うコツがいるからな。ゆっくり覚えていったらええわ」
でも、柊ばかりが調理していては、朝の練習にならない。包丁を渡して、試しに葱を切らせてみた。
落ち着いた動作をしていたが、妙にコントロールが不安定だ。包丁は葱を脇目に、なぜか朝の人差し指を切った。
「大丈夫か。無理したらあかんで。先に止血せんと」
傷口を洗って消毒し、絆創膏を巻いておいた。かなり血が出ていたが、直に止まるだろう。
「昔は、包丁使うんは男の仕事やて、いわれとったのにな」
包丁裁きの上手さは、平安時代の頃から男性の技量を示すステータスだったらしい。朝も現状を恥じているらしく、落ち込んでいた。
「すみません、不器用で。昔は、爪で大抵のものは切っていましたので」
「なるほどな。妖怪に刃物は必要なかったわけや」
かつての妖怪だったときには、朝も宵も鋭く長い爪を持っていた。衛生面は微妙だが、使い勝手は良かったのだろう。
人間となった今では、そんな珍技は使えない。惜しい力を封印したものだ。
「ぼちぼち、練習していったらええわ。鍋の火、見といてくれるか」
再び、柊は包丁を手に、他の食材や漬物を切り揃えていった。その間、朝は黙って、火にかけた鍋を見つめていた。
煮汁が沸騰して、泡立ち始めた。でも、朝は相変わらず、見ているだけだった。
「……大根、そろそろ柔らかくなっとるんと違うか?」
「どうして、見ているだけなのに、柔らかさまで分かるんですか?」
幼児がいいそうな台詞を真顔で吐かれると、噴き出しそうになる。
「分からんかったら、箸やお玉で取り出してみたらええんや」
「でも、火を見ておかなくてはいけないのでは」
柊と話している間も、朝は片時も火から目を離さなかった。真面目な性格は結構だが、どこかズレている。
半ば呆れが勝ってきて、柊は口の端を引き攣らせた。
「鍋の中身に熱が通ったか見とけ、っちゅう意味やで。ほんまに火をずっと見とって、どないすんねん」
指摘すると、朝は勘違いに気付いて、ばつの悪そうな顔をした。
「料理用語は、難しいですね……」
朝は呟きながら、眉を顰めていた。料理に限らず、人に指示を与える作業は難しいものだと、柊は痛感した。
取り出した大根の硬さを確認して、湯通しした油揚げを追加した。
「もう少し、煮詰めよか。底が焦げ付かんように、かき回しといてんか」
朝にお玉を握らせて、任せる。卵焼きを作る準備をしていると、奇妙な光景を目の当たりにした。
鍋に突っ込んだお玉を、朝が一心不乱にかき回し続けている。回しすぎて中身が周囲に飛び散っていた。集中しているのか、気付いていない。
「回しすぎや! 程よくで、ええねん」
思わず、声が大きくなってしまった。朝は動揺して、困惑した表情を浮かべていた。漫才でもやっている感覚だ。
「天然か、こいつ……。わざと、邪魔しとるんと違うやろうな?」
一生懸命な姿を見ていると、全力で頑張ろうとしている意気込みだけは、伝わってくる。
だが、朝の見事なボケっぷりは、笑えないレベルにまで達していた。
零れた出汁や具に妖怪たちが群がって、舐めとっていく。綺麗になったところで、鍋に味噌を加えて火を止めた。
続いて、焼き魚の調理に取り掛かった。小振りの鮎が用意されていた。夏が旬の魚だし、身が詰まっていて美味しそうだった。せっかくだから、ガスコンロよりも炭火で焼きたいところだ。
「木炭とか七輪て、あるんかな」
戸棚を開けて道具を探していると、名誉挽回と言わんばかりに、朝が一式を取り出してきた。
「魚なら焼けます!昨日、教わったところなので」
マッチを擦り、新聞紙を使って炭を燃やしはじめる。団扇で空気を送る手捌きは、なかなか上手だ。
火の扱い方は、かなり手慣れていた。台所で堂々と作業を始めなければ、文句なしだったのだが。
「家ん中で、炭なんぞ焼いたらあかん!」
柊は素早く七輪を掴み、勝手口から外へ出した。換気扇を回して、煙った室内の空気を追い出す。
「でも、兄上さまに教わった通りなのですが。窓を空けておけば、大丈夫だと」
朝の言い分に、柊は落胆した。
随分と、ものぐさなやり方だ。火事になる危険も大きいし、室内が煤煙で黒くなる。
暗い色合いの台所なのかと思っていたが、単に汚れまくっているだけなのか。後で掃除もしないと。
「ひょっとして、寺の連中の調理方法に、問題があるんやろうか……」
了海たちが、いつも滅茶苦茶な料理を作って食っているのなら、朝の破天荒ぶりも納得がいく。柊もいえた義理ではないが、狭い世界での常識とは、本当に恐ろしい。
「料理は、一から覚え直したほうがええやろうな。今日はうちが作るから、居間で茶でも飲んどき」
一般常識から叩き込むとなると、時間がいくらあっても足りない。ひとまず朝食を作り終えようと、柊は一人で調理に集中した。
戦力外通告を受け、朝はしょんぼりと、台所から撤退して行った。
そろそろ、燕下家の人達も食事をしに集まって来る頃だ。柊は急ピッチで、作業を行った。
思ったとおり、廊下をダカダカと走って来る、賑やかな足音が近づいてきた。宵だ。
「何だよ、朝。今日の飯当番だろ? もう作れたのか?」
騒がしく居間に入った宵が、驚いた声を上げていた。
「朝餉は、柊さんが作ってくださっている」
朝の説明に、宵は更に素っ頓狂な声を上げた。
「はぁ!? あのゴリラ女、飯なんか作れるのかよ? バナナと林檎しか出てこないんじゃねーのか?」
柊は手を止めた。音もなく宵の背後に忍び寄り、一撃を食らわせた。
仰向けに倒れた宵の口にバナナをねじ込み、両目の上に林檎を載せておいた。
「宵。いい加減に黙らないと、命を落とすぞ」
呆れた顔で、朝は茶を啜っていた。
***
なんとか、朝食に間に合った。朝のお勤めを済ませてやってきた了海と了生は、食卓に並んだ料理を見て、驚きの声を上げていた。
「柊さんが作ってくれはったんですか? すいません、そないな気遣い、させてしもうて」
「気にせんといてください。好きでやっとるんや。なんなりと、こき使ったってください」
「焦げた臭いのせえへん食卓なんて、うちでは初めてやなぁ」
「そら、家ん中で七輪なんか使うたら、焦げ臭なるわな……」
感心する了海に渇いた笑いを浮かべながら、柊は呟いた。
人数分のご飯をよそい、食べはじめる。
自作の料理を人に食べてもらうなんて、祖母以外では初めてだ。不味くはない自信はあるが、味覚は人それぞれだ。少し、緊張した。
心配は、杞憂だった。みんな、とても満足した顔で、食事を口に運んでいた。
「とても美味しいです。よろしかったら、今度は作り方をきちんと、教えていただけますか」
朝も感動して、柊に師事してきた。
「構わんで。基礎からみっちりと、叩き込んだるわ」
元々、努力家だし、ちゃんと教えればすぐに料理もうまくなるだろう。朝を料理人として仕込んでおけば、寺の食生活も安泰だ。
ちゃぶ台の向こうでは、宵と了海がおかずを取り合って戦っていた。
「爺! 俺の魚、取るんじゃねえよ!」
「欲しかったら、取り返してみい。日々修行じゃ」
喧しい食卓だ。普段ならすぐに苛立っているところだが、今日はほとんど、不愉快さがなかった。
「いやあ、お上手ですな。まだ中学生やのに、立派です。いつも、お家でお手伝いされとるんですか?」
隣で味噌汁を啜っていた了生が、嬉しそうに笑いかけてきた。
「うちは小さい頃から、お母ちゃんがおらへんさかいな。お父ちゃんも、仕事が忙ししゅうて家におらへんから、食事も一人で作って、一人で食べるだけやったし」
広い庭を見つめて、過去の記憶を思い起こした。蘇らせたくもないが、嫌な思い出ばかりが、鮮明に脳内に残っている。
「婆ちゃんと暮らし始める前は、ほんまに味気なかったなぁ。大勢の人に手料理食べてもらうなんて、初めてや」
「将来、柊さんの飯を毎日食える男は、幸せもんですな。羨ましい」
了生が、ポツリと呟いた。一瞬、柊の手が止まる。昔、柊の作った料理には目もくれなかった父親の姿が頭に浮かび、感情を凍らせた。
「そんな男、おるはずもないわ」と、小さくひとりごちた。
朝食は全て平らげられ、みんなご満悦だった。
食器の後片付けをしながらも、柊の頭の中では、了生の言葉がぐるぐると回っていた。
なんだかんだと否定しつつも、誰かに料理を食べてもらって、喜んでもらえると、嬉しい。
「家族が毎日、同じ机を囲んで、賑やかに食事して、か。寺の生活も、楽しいもんやな」
こんなに賑やかな食卓は、水無月家以来だ。
以前は地獄だったが、今回は、不思議と嫌ではなかった。居心地の悪さも、感じなかった。
むしろ温かさが心地好く、安心感も抱けた。
「思い出作りには、悪うないかもな。今後一生、体験できへんかもしれんし」
修業以外の楽しみを見つけて、柊の頬が綻んだ。




