第十一章 悪鬼奇襲 2
二
妙霊山の山道。了封寺へ向かう上り道を、榎たち四人は揃って歩いていた。
山の涼しい風を受けると、夏の暑さとは無縁の世界へ向かっている気分になる。足取りも、自然と軽く なった。
「元気にしているかな。朝月夜と、宵月夜」
「了生はんたちが、ちゃんと面倒を見てくれておるどす。大丈夫でしょう」
二人の様子を想像して、盛り上がる。
妖怪が――しかも、平安時代の生活しか知らない者が、急に現代人として暮らしはじめるなんて、本当にできるのだろうか。
心配だが、期待も大きかった。
「一週間で、どこまでカルチャーショックを払拭できとるか、見物やな。特に朝月夜のほうは、何もかも始めてやろう? 勝手が分からんのと違うか」
「宵月夜は、そこそこ現代慣れしているから、大丈夫だろうけどな」
「まあ、必要最低限の知識は、教えましたからな」
楸の家に妖怪達が居候していた頃の経験がある分、宵月夜のほうが順応も早そうだ。
「分からなければ、椿たちが教えてあげればいいのよ!」
椿は張り切っていた。むしろ、何も知らないほうが、教え甲斐がある。
寺の門前に着くと、了生が門前の掃き掃除をしていた。
「こんにちは、了生さん!」
「様子、見にきましたで」
了生は顔を上げて、笑顔で歓迎してくれた。
「やあ、皆さん。わざわざ、ご足労頂いて。ありがとうございます」
「二人の様子は、どんな感じですか?」
「流石に、まだ現代の生活には慣れませんけど。少しずつ、学習していってます」
寺の奥に目を向け、了生は少し考える素振りを見せた。
「朝はまだ、怪我が治りきってませんから、無理強いはできんのやけど。宵は掃除やら洗濯やら、進んで手伝うてくれてます」
「急に居候が増えたら、賑やかでっしゃろ?」
楸が苦笑を浮かべた。同居者に翻弄される苦労は既に経験済みだからか、同情感が大きい。
「ちょっと、変な気分ですね。でも、何というか……。弟ができたみたいで、悪い気分ではないです」
了生は照れ笑いを浮かべる。まんざらでもなく、楽しそうだ。
妖怪が相手だからといって、変な確執や気遣いがなさそうで、安心した。平和に暮らせているなら、何よりだ。
燕下家の二人の、懐の深さがあってこそ、なせる業だ。
「了生の兄ちゃん! 着物、干し終わったぞ」
廊下の向こう側から、元気な大声が飛んできた。一緒に、廊下をバタバタと走る足音が響く。
空になった洗濯籠を担いだ黒髪の少年――宵月夜が走ってきた。
了生と同じ、鼠色の作務衣を来ている。
妖怪の親玉をやっていた頃の、頑な(かたく)な面影は見られない。表情も言動も、不通の無邪気な少年になっていた。
妖力を封印するだけで、こんなに変わってしまうものなのか。意外だった。
「ご苦労さん。四季姫さまたちが来てくれたぞ」
了生が、視界を開く。榎たちのほうに視線を向けた宵月夜の表情に、笑顔の花が咲いた。
「楸! 俺に会いに来てくれたのか!?」
籠を放り投げて、楸の手を握り締める。
「お二人に、どす」
楸は少し怯んでいたが、淡々と対応していた。
「おーい、あたしたちは無視かよ」
一瞬だけ榎たちに視線を向けて、宵月夜はつまらなさそうな顔をした。
「何だよ、お前らも一緒か」
「うちらは、ついでかい」
どえらい態度の差だ。見舞にきた甲斐がない。
「朝月夜さまは!? 元気にしているの?」
椿が宵月夜の胸倉を掴む。
「傷はほとんど、よくなっている。まだ、床からは出られないけど」
体を揺すられ、宵月夜は動揺しながら返答していた。椿はすぐに手を離し、サンダルを脱ぎ捨てて廊下を疾走した。
榎たちも、慌てて後を追う。
障子の閉められた和室の前で、椿は深呼吸していた。
準備を整えている間に、追いついた宵月夜が障子を開く。
中には布団が敷かれていた。浴衣姿の白髪の少年が、上半身を起こして座っていた。
何となく、病室にいる綴の姿と印象が重なる。病弱そうで、髪の色が同じせいだろうか。
「具合はどうだ? 朝月夜」
朝月夜は、ぼんやりとした顔を向けてきた。榎たちの姿を視界に捉えた途端、白い頬が朱に染まった。
「皆様、なんて格好をなさっているのですか! ちゃんと、着物を羽織ってください!」
掛け布団を持ち上げて、朝月夜は顔を埋めてしまった。
榎たちは顔を見合わせて、戸惑う。
「着ているだろう? この服が、現代の着物だよ」
「何を仰いますか。ほとんど裸と変わらない薄着で歩き回るなんて……」
確かに、薄着には変わりないが。意識していなかった分、朝月夜の反応は新鮮だった。そこまで恥ずかしがられると、榎たちも少し、羞恥心に襲われる。
「でも、夏だし。あんまり暑苦しい服装はなぁ」
きっと、朝月夜が認識する通常の服装とは、四季姫に変身した時の格好なのだろう。この暑い中、とても十二単なんて着ていられない。
昔の人は随分と大変な衣服で生活していたのだなと、改めて感心した。
「千年経って、時代が変わったんだよ。ああいう格好が今の普通なんだ」
布団の脇に胡座をかき、宵月夜は飄々としている。朝月夜は動揺して、同じ顔の弟と顔を付き合わせた。
「お前は、どうして平気なんだ!?」
「最初は戸惑ったけど、もう慣れたな。外に出れば、似た格好をした奴らばっかりだし。朝も、すぐに馴染むって」
宵月夜は現代社会の風潮を、早くも受け入れていた。朝月夜も、現実を受け入れようと葛藤していた。
少しずつだが、榎たちの姿も直視し始めた。
「恥ずかしがり屋さんなのね、朝月夜さまは」
「まだ、カルチャーショックから抜け出せてへんみたいやな」
「平安時代とは、かなり違う文化や風習の時代どす。少しずつ、順応してください」
心配されたり、からかわれながら、朝月夜は恥ずかしそうにしていた。
「取り乱して、申し訳ありませんでした」
改めて居住まいを正し、朝月夜が挨拶をしてくる。
「わざわざ、見舞いにきてくださって、ありがとうございます。四季姫様方」
「変身していないときは、名前で呼んでくれ。榎だ。よろしくな」
丁寧な仕種に、榎は抵抗を覚える。今となっては、対等な人間同士なのだから、敬語も敬称も不要だ。
榎たちは順番に、自己紹介した。朝月夜は嬉しそうに頷いた。
「僕らも、了海の爺さまから、新しい名前を与えていただきました。月夜 朝と、呼んでください」
「俺は、月夜 宵だ」
「なるほど。朝と、宵か」
「そのまんま、やけどな」
現代人らしい、呼びやすい名前になった。
「体の調子は、どうなの?」
椿が尋ねると、朝は控えめに微笑んだ。
「大きな傷は、完全に塞がりました。もう少し休めば、僕もお寺のために働けます」
体調は良さそうだ。安心した。
「お勤めも大事どすけど、現代の子供の仕事は、勉強どすえ!」
ドン、と楸が畳の上に、冊子の山を積み上げた。主要な五教科の教科書や問題集だった。
やたらと荷物が多いと思っていたら、準備万端だったか。
宿題から目を反らし、現実逃避していた榎は、一気に現実に引き戻された。
「二人とも、いずれは学校にも通うんやろう?」
「できたら、夏休み中には基礎学習は終わらせて、学校に通わせたいと思うとるんですがね。皆さんと同じ中学校やったら、安心ですし」
茶菓子を運んできた了生が、割り込んだ。
中学校に通うなら、小学校の就学工程はマスターしておきたい。一から始めるには、かなり骨の折れる作業だ。
残りの夏休みは一ヶ月もないのに、間に合うのだろうか。
「勉強やったら、布団に入ったままでもできるやろ。四季が丘中学、一番の秀才がおるんや。がっつり教えてもろうたらええわ」
「椿たちも、夏休みの宿題を持ってきたから、一緒にやりましょう!」
話しの流れ上、強制的に勉強タイムになった。
肝心の楸大先生は、新米生徒たちの世話で精一杯だ。榎の面倒なんて見てくれない。
榎は一応、楸に教えてもらおうと持ってきていた漢字ドリルを開いて、頭痛と戦っていた。
「お二人は、文字の読み書きはできはるんどすか? 一度、書いてみてください」
楸に言われるがままに、二人は慣れない鉛筆を手に、ぎこちなく走らせた。
書き上がった文字は、中々の達筆だった。
漢字は中国から伝来したものだし、ひらがなやカタカナは平安時代に確立された、日本独特の文字文化だ。平安時代の教養を持つ二人には、朝飯前だった。
「いけますな。現代の文法を覚えれば、国語はすぐに飲み込めるどす」
楸も二人の実力に、感心していた。優秀な生徒を前に、満足そうだ。
「皆さんは随分と、様々な学問をなさっているのですね……」
各教科の教科書をめくりながら、朝が感嘆の声をあげた。宵も、何が書いてあるのか分からない冊子を眺めて、表情を歪ませていた。
「どこの国の文字だ? つーか文字か?」
「英語だよ。海の向こうの言葉だ」
「唐の言葉とも、違うのですね」
「そのうち、漢文も必要になりますけど……。まずは現代の日本語どす。国語さえ、ばっちりできれば、他の教科は全てできるどす」
自信満々に、楸が教授する。
「ええどすか? 英語やろうが数学やろうが歴史やろうが、問われる内容は全て日本語なんどす。せやから、日本語が分からんと、どの教科もお話になりまへん。逆に言えば、国語さえ完璧にこなせれておれば、何の問題もないんどす」
衝撃的な発言に、榎は勢いよく挙手した。
「先生ー! 国語が一番駄目なあたしは、何なんでしょうか!?」
「榎はんは、文章の読解力は充分なんどす。難しい言葉も知ってはるし。単純に漢字の物覚えが悪うて、表現力がないだけどす。その点を補えば、きっと榎はんの国語の成績は上がるどす」
「なるほど! よっしゃー、頑張るぞ!」
可能性を指摘してもらえて、榎のやる気メーターが急上昇した。
「二学期が楽しみね! みんなで学校に通えるもの」
嬉しそうな椿の言葉に、榎は現実を取り戻した。
和気藹々と勉学に励んでいる場合ではない。榎には、みんなに伝えるべき大事な話があった。
「……みんなに、聞いてもらいたいんだけど」
意を決して、榎は声を出した。
全員の視線が、榎に突き刺さった。思わず、俯いて口ごもる。
「何を、急に畏まっとるんや?」
柊が眉を顰める。榎はもう一度、気持ちを引き締めた。
「あたし、二学期から、名古屋の学校に戻るんだ」
みんなの表情が、一瞬、固まった。
無言の時間が続く。とても、長い沈黙に感じた。
「一家離散、収拾がついたんか?」
柊が口を開く。榎の背を、後押ししてくれた。
「なんとか、な。元々、疎開も数ヶ月って話だったし。休み明けからなら、ちょうど学校もキリがいいからって」
「榎はんが名古屋に戻られると、寂しくなりますな」
控えめな楸の台詞が、妙に心に突き刺さった。
「名古屋って、どこだ?」
宵の疑問に、楸が地図帳を広げて見せる。
「昔でいうところの、尾張の辺りどす」
京都からの距離を計りながら、説明していた。
「別に、全然遠くないだろう? 飛んでいけば、あっという間だ」
「翼があれば、の話どすが」
「まだ、妖怪時代の癖が抜けてへんな」
さらりと指摘され、宵は表情を歪めた。
「でも、新幹線に乗れば、三十分で行き来できるわ。近いわよ。一生、会えないわけじゃないわ!」
椿が笑いかけてくる。陽気な笑顔に、榎は少し、動揺した。
「せやけど、さよならには変わりないどす。きちんと、けじめはつけんとな。榎はんの、送別会をしましょう」
「ええな。どっか出掛けて、パーッと盛り上がろうや」
勉強会は中断し、榎のお別れ会の打ち合わせになった。
少し、気が早過ぎないだろうか。すぐに帰るわけでもないのに。
「榎さん、どうなさったのですか?」
「みんな、門出を祝ってくれているのに、浮かない顔だな?」
取り残されて俯いていた榎を、朝と宵が気に懸けてきた。
「いや。もっと引き止めてくれたり、名残惜しそうに思ってくれるかなと、思っていたから……」
ちょっと、複雑な気持ちだった。




