第十一章 悪鬼奇襲 1
一
『榎、久しぶりね。元気にしている?』
受話器の向こう側から、母――梢の声が流れてくる。
「うん、元気だよ。いつも通り」
榎は陽気に返事をした。梢は安心した息を吐く。
以前、電話で話したときよりも、その口調に明るさと軽快さがあった。梢の機嫌が良い証拠だ。
『今日はね、嬉しい報告があるの。借金の形に入っていた水無月の家、やっと買い戻せたわよ』
榎は驚きの声をあげた。
名古屋を経って、五ヶ月。京都で目まぐるしい生活を送っていた榎にとっては、名古屋の実家がとても懐かしく感じた。
「じゃあ、みんな、家に帰ってきているんだね?」
『そうよ。久しぶりに、家族全員揃うのよ。もう、住む場所の心配もしなくて良いわ。二学期からなら、転校するにしてもキリがいいし。――名古屋へ、戻っていらっしゃい』
梢の優しい声。榎は即座に、返事ができなかった。
名古屋へ、帰る。
初めて京都へ着た頃に、同じ報告を受けていたならば、きっと大喜びしただろう。
でも今は、複雑な気持ちに襲われていた。
京都で得た特別な出会い、特別な出来事。たくさん、たくさんあった。
大事な思い出が、榎を京都に引き留めようとしていた。
帰りたくない。榎の、正直な気持ちだった。
だが、いつまでも如月家の家に居候をして、迷惑を掛けるわけにはいかない。まだ未成年だし、自分の家に帰って、家族と一緒に暮らすほうが、いいに決まっている。
四季姫としての目的は果たした。
鬼閻を倒し、世界の平和も守られた。
だからもう、夏姫として京都で戦いを続ける意味は、ない。
小さな声で、榎は肯定の返事をした。
「引越しや転校の段取りは進めておくからね。如月のお母さんと、代わってくれる?」
梢はとんとん拍子に準備を進めていく。榎はいわれるがままに、桜に受話器を託した。
階段の手前で立ち尽くしていると、背後から勢いよく背中を叩かれた。椿だ。
「えのちゃん! お電話、お家から?」
相変わらず、テンションが高い。
最後の戦いを終えてから、早一週間。椿は勝利の余韻に浸って、浮かれっぱなしだ。
榎の沈んだ姿を見て、少しだけ椿は冷静さを取り戻した。
「どうしたの? 急に神妙になって」
「うん。……明日、みんなで会わないか? 連絡は、あたしからしておくから」
「いいけれど、どこで?」
「了封寺に。二人の様子を、見に行こうかなって」
力を封じ込め、人間としての生活をスタートさせた、二人の兄弟。
朝月夜と宵月夜の見舞いに行こうと決めた。
「賛成! 椿も気になるわ。ちゃんと、人間の生活に、馴染めているかしら」
再び、椿のテンションが最高潮になった。
何とかはぐらかせたと、安心した。
椿にだけ報告するのも、気が引ける。どうせなら、全員に、一度で伝えてしまいたい。
お世話になった嚥下家の人たちにも、――四季姫として一緒に戦ってきた、三人の仲間たちにも。
別れを切り出すために、かなり勇気が必要だ。
浮かれている椿とは裏腹に、榎の気持ちは冴えなかった。




