『裏切りのアホタイガー』
「ところで、遅刻してるもう一人ってのは誰なんだ?」
『聖皇の間』に居る者らを一瞥しながら首を傾げる詠真が尋ねた。
考えられるのは《帝》だが、ここに来る前に会って話をしたあの者達が遅刻するとは思えないし、《炎帝》も呼ばれていないと言っていた。
正直それ以外に思い当たる人物などおらず、ともすれば詠真が全く面識のない人物と言うことになる。
だがどうやら、彼女らの表情を見る限り、知らされていないのは木葉詠真ただ一人。今更ではあるが、あと幾つ秘密にされている事があるのか、不安を通り越して呆れそうになる。
鈴奈が徐に端末を取り出した。
魔法使いがわざわざ電話を使用するのは、相手は魔法使いでは無い、そう言っているようなものだ。
「……あ、もしもし? 今どこにいるのよ、早く来なさい。……もう着く? なら急げアホタイガー」
――あ、アホタイガー?
詠真の耳には覚えが無さ過ぎる単語だ。ほぼ常に行動を共にしていた詠真が知らないとなれば、相手は二人の出会い以前からの仲なのか。
鈴奈が電話を切り端末を直す動作と連動するかのように、間の外からドタドタと何かが走る音が聞こえてくる。
そして、
「アホタイガーっつー渾名は認めねぇぞバカ娘ェェエ!!」
ドッガーン! と勢いよく開け放たれた間の扉。伴い、つんざくような少女の怒号が鼓膜を叩いた。
「遅刻した癖にうるさいわねぇ。だからアホタイガーなのよ」
「おうおう、私とお前はそんな親しい仲だったかァ?」
「いいえ、全ッ然」
言葉とは裏腹に親しげな言い合いをする二人の少女。耳を塞いでいた詠真は現れた少女に視線を運んだ。
小柄な少女だった。深いスリットに丈の短いボディコンシャスな黒ワンピースに身を包み、パンパンになった買い物袋を提げている。それより何より、彼女の頭、茶色の短髪と同化するように、ピョコピョコと動く可愛らしいケモノ耳が生えていた。
「…………ん?」
詠真は、既視感があった。
以前、似たような少女をどこかで見たことがある。さらに声も、いつか耳にしたことがあるような気がした。
さて、何処だったか。
「ったく、お前の分の菓子はねぇからな。欲しがってもやらねぇからな」
ケモノ耳の少女はどさりと座り込み、買い物袋の中身を広げる。どばっと出てきたのは大量の菓子類だ。
板チョコの袋を開け、パキッと軽快な音を鳴らして齧り付く少女が、詠真の方へ顔を向けた。
「久しぶりだな、木葉詠真。元気そうで何よりだ。食べる?」
「あ、あぁ、ありがとう……」
差し出されたチョコを受け取りながら、少女を凝視する。
――この耳、どっかで……。
「…………あ」
記憶の点と点が繋がり、詠真はケモノ耳を指差して言った。
「戦争のブリーフィングの時に鈴奈と何か話してた珍妙な少女だ!!」
「珍妙とは何だ珍妙とは!!」
「ふぐぁっ!?」
ファミリーパックの袋を顔面に投げ込まれて情けない声を上げる詠真。ケモノ耳の少女はご立腹と言った様子で鼻を鳴らす。
「『四大絶征郷』の情報を与えてくれた恩人に珍妙だとか、お前、島を出てから性格悪くなったんじゃねぇか?」
「は、はぁ……? 恩人……?」
「お前が島を出る前夜、『四大絶征郷』は英国王室と関わりがあるって教えてもらったろ」
それ自体は強く記憶に残っている。
相手は天宮島最上層部『宮殿』の一人だと言い、情報を与えてくれた。他にも、私は『宮殿』を裏切るやら、《氷帝》と一緒なら会えるだとか、私はお前の味方などと言っていた。
「………………、」
詠真は文字通り、言葉を失った。
――なぜこの少女はそんな事を知っている?
少女の直前の言葉を思い出す。
『「四大絶征郷」の情報を与えた恩人に珍妙だとか、お前、島を出てから性格悪くなったんじゃねぇか?』
これが言葉通りならば、かつて戦争のブリーフィングで見かけたケモノ耳の少女――つまり、眼前でチョコを貪る珍妙な少女の正体は、
「……あの時、俺に『四大絶征郷』の情報をくれた『宮殿』の人間ってのは……まさか、君、なのか……?」
少女の返答は、ニヤリと口角上げるだけの――肯定だった。
鈴奈が少女の菓子を一つ掻っ攫い、ケモノ耳を弾きながら言う。
「この女の名前は、ネコ。天宮島最上層部『宮殿』を構成する五人の一人にして、実質の裏切り者。まぁ裏切るって事自体は私も知ってたけど、聖皇国に居るって知ったのは数日前ね」
夏夜が断りを入れて菓子をもらいつつ、
「ネコさんとは土御門劫火の件で一度お会いした事はありましたが、まさか『宮殿』を裏切って『こちら側』へ手を貸すとは思いもしませんでした」
「おいおいお前ら、私はまだ裏切り者って露見してないからな。それに理由あってそうしてんだから、あんまり悪く言ってくれんな」
詠真はもう何が何だか、明かされていく事実をただ真正面から受け入れ続けるしかなかった。
もうそういうことでいいよ。半ばヤケクソに受け止め、
「ネコ、だっけ。あんたが天宮島を裏切ったってのは判ったよ。でも、ここに居る理由が判らないな。俺を連れ戻しに来たって訳じゃ無いんだろう」
「逆だよ、逆。私はお前を、天宮島から――『宮殿』から遠ざける為に、伝えに来た。木葉詠真という超能力者の本当の価値をな」
それだけじゃねえとネコは続けた。
「私や『宮殿』にまとわりつく『正体不明の違和感』についても、お前たち『世界の声を聞く者』と関係があるかもしれねえ。なんたって三つ巴の力っつーのは、魔法と呪術と――超能力の三つだからな」
☆☆☆☆
「『不老不死』……そんな馬鹿げた話があり得るのか……?」
魔法の禁忌『生命力の消費』は、魔力という魔法使いのみが体内に有しているエネルギーの変わりに、『命そのもの』を消費する背徳行為。決して簡単に成せる技ではないが、マリエル・ランサナーやルーカス・ワイルダーが会得できたのも、彼女らの『強い意志とイメージ』が生んだ産物だろう。
しかし、『消費』ではなく『固定』が示すは、生命力の上下限を完全に停止、固定することによって、固定した瞬間の生命力を永遠に維持できるという机上の空論も笑い飛ばす奇跡。
脳を撃たれようが心臓を刺されようが首を撥ねられようが、固定化された生命力は揺るがない。差違はあれど、損傷部位は自ずと元に戻る。
不老と不死。常に死へ向かい続けているあらゆる生物にとって、その概念からひっくり返す異端の理。
それを――その『不老不死』をリプカ・シュトライトは成し、決して認められる事はなく、永遠の深淵『奈落』に堕とされた。
そう、ウィルダネスは言ったのだ。
「『奈落』に縛られた者は、時間感覚を酷く狂わせられる。表して、およそ数十倍。ゆえに永遠の深淵と呼ばれ、数百年の闇に狂い続ける。が、叛逆者リプカ・シュトライトは『不老不死』を手にし、これからも永劫『奈落』で生き、死に続ける。――それが、フェル坊の母に科せられた罪じゃ」
想像もできない永遠。彼女の地獄は永劫地獄。奇跡を成し、その奇跡によって苦しみ続ける罪の炎。
フェルドは腰から力が抜けるのを感じ、その場にへたり込んでしまう。
「……これが、俺の真実……」
「いいや、違う」
無情にも、話はまだ終わっていないと、ウィルダネスはフェルドに視線を移して続ける。
「フェル坊、リプカさんはお前をお腹に宿して間も無い頃に『不老不死』を手にした。問おう、『不老不死』の中で育まれた胎児が普通であると思うか?」
「……どういう……」
「答えは否。リプカさんから産まれたお前は、決して普通の魔法使いなどでは無かった。鈴の嬢ちゃんもそうだが、あれは才能。魔法使いに一定の周期で現れる聖子じゃ。が、お前は違った。言うなれば、禁忌を宿した生まれつきの叛逆者――」
ウィルダネスは、見るも耐えない苦痛の表情を浮かべるリプカと真実に怯えを見せるフェルドを交互に一瞥し、目蓋を伏せ、告げた。
「フェルド・シュトライトは、『不老不死』の胎児として産まれ落ちた。此処――『奈落』でな」
☆☆☆☆
「へぁ? ふ、不老?」
素っ頓狂な声を上げたのは、脳のキャパ限界を迎えつつある詠真だった。
声を向けられた相手、ネコと名乗るケモノ耳の少女は紙パックのジュースを飲みながら、物判りが悪い男だなと吐き捨て、再度説明する。
「私ら『宮殿』の五人は、死にゆく恩師の最後の力によって『不老』の力を与えてもらったんだ。私の外見が『こんなん』なのはそれが理由。まぁ何歳とか全然覚えてはいねえけどなぁ」
「与えてもらったって……そんな軽く言われても判んねぇって……」
詠真はソフィアに目で訴える。
魔法で『不老』とか出来るのか、と。
それに対してソフィアは、何とも言えぬ微妙な表情を浮かべたが、取り繕うように苦笑を漏らす。
「難しい問題ですが、少なくとも俗に『不老不死』と呼ばれる『生命力の固定』は禁忌に相当します。やろうと思って出来る事ではありませんね」
《聖皇》には珍しく曖昧な物言いに鈴奈は違和感を抱いたが、彼女とて禁忌の話に触れたくはないのだろうと考え、心の片隅に留めておく。
夏夜も、かつて『他者の生命力の吸引』という禁忌を犯した『土御門劫火』の件が脳裏に過ぎるが、それと『不老』は似て非なる別物だと感じ、比較に出す事はしなかった。
ネコはガサコソと菓子を漁りながら、
「んじゃそこから話していくか。まず今言った恩師ってのは、お前らにも判りやすく言えば『天宮島創設』に関わったであろう存在だ」
『天宮島創設』。その言葉に反応しない方が難しい。あらゆる角度から調べても一切の無に包まれた天宮島の創設の話。
詠真は思わず口を開いた。
「ネコは天宮島の歴史とか知ってるんだよな? 天宮島政府最上層部なら一般では見れないような記録とか保管してあんだろ?」
「急くな。そこも話す」
わ、悪いと謝り詠真は落ち着く。
見計らってネコが続ける。
「私らは恩師よって育てられ、『天宮島の維持』と『超能力者の保全保護』を託された。『不老』という――狂いの歯車と一緒にな」
「その『不老』は、遠い未来までずっと島を守って欲しい……とかそういう意味じゃないのか?」
「そう、思ってたさ。だがとある事をきっかけに、私は違和感を抱いた。黒竜が現れる前、そこの《聖皇》が私らと会談した時の事だ」
ネコは自分のケモノ耳を示し、
「ソフィアがこの耳に触りたいっつーから、まぁ減るんじゃねえし触らせたんだがな、そん時『意識』に電流が走る感覚に襲われた。より詳しく言うなら、脳内に『記憶』が駆け抜けた。ほんの一瞬、どんな記憶かさえ確認できないほど一瞬だったが、まるで開かずの箱が一瞬開き即閉じられた、ようなイメージだけは覚えてる」
「私も似たような体験をしました。ネコさんのイメージとは少し異なりますが、彼女は魔力に似た未知の力で縛られていた。魔法で例えるなら封印魔法。この二つを統合し、導いた結果――」
合わせるようにネコが板チョコを噛み割る音が反響し、
「私の記憶には封印が施されている。ソフィアの言葉を借りれば、私ら『宮殿』は過去に『世界の声を聞く者』に似た何者かと接点があり、そいつによって記憶を封じ込まれた。ソフィアの接触によって封印が一瞬解けかかったのは、『世界の声を聞く者』の力に反応して封印解除と誤認しかけた――まぁ、あくまで憶測だがな」
締めるように言ったネコだが、詠真のみならず鈴奈と夏夜も、険しい顔で首を傾げていた。
「アホタイガー、それ『不老』のなんたらと関係あるの?」
「だから急くなって。誰も話が終わったなんざ……そういう雰囲気出してみただけだろうが」
「…………絶対必要なかったでしょ、その雰囲気」
鈴奈を無視してネコが言う。
「とはまぁ、記憶の封印がって話は判ってもらえたと思うが、そもそもだ。私ら『宮殿』は『不老』の存在。悠久の時を行き、天宮島を守ってきた。そんな私らが、昔のことを覚えていないなんて別におかしい話じゃない。なんたって長い時を生きてきたからな」
「長い時って、どれくらいだよ」
「――それが判らねぇんだよ」
その一言で空気が一変する。
「確かに長い時を生きてきたつもりだ。覚えてないのにそう思えるのは、私らが『不老』だからだ。かの恩師の名前も顔も覚えてない。それくらい『不老』を授かった頃から経過している。……そう考えた時、気付いたんだ」
紙パックを持つネコの手に自然と力がこもっていく。
「過去の記憶が思い出せない。悠久の時が生んだ記憶の薄れ――なんかじゃ説明がつかねぇ。何年、何十年、何百年前からの記憶がないのか、それすらも『判らない』。自分は何者か、いつの時代の人間か。江戸か、戦国か、平安か、更に昔か。そりゃ悠久の時ならば大昔でもおかしかねぇよ」
だがな、とネコは紙パックを握りしめた。ストローを伝って中身が飛び出すが、そんなこと気にも留めず、
「なら、あの島はなんだ? 超大型浮体式構造物なんざ、そんな大昔に製造できるはずねぇ事くらい小学生でも判る。おかしいんだ、何もかもがおかしい。なぜ、これまで『そんな当たり前の事』に気付けなかったのか。私の記憶が何から何までおかしくなってやがった……」
ギリッとネコが奥歯を噛む音。
詠真や鈴奈、夏夜にソフィアですらネコを苦しめている違和感の大きさや焦燥を理解する事は出来ない。
ネコは大きく息を吐き、潰れた紙パックを床に置いてジュースで濡れていない方の掌で顔を覆った。
「そこでやっと、悟ったよ。『宮殿』っつーのは、天宮島を維持する為だけに構築されたシステムなんだってな」
『不老』という狂いの歯車。
『不老』に対する先入観から時間の流れの感覚を阻害し、記憶の薄れは『悠久の時を生きてきたから仕方ない』と錯覚を誘導し、記憶が封印されている事実を誤認させる。
永劫的、作業的に、天宮島を維持という使命の為だけに存在する忠実なシステム。生きながらに操り人形、老いで死ぬ事はなく、超能力者の為に死に続ける永遠の人柱。
それが、『宮殿』である、と。
ならば、封印された記憶とは。そればかりは掴めない。少なくとも一定の過去から全ての記憶だ。
では、そうならば。
一体誰が――答えは出ている。
システムを構築し、システムに『不老』を付与した存在が、同時に記憶を封じ込めた存在なのだと。
そう、それは。
「――恩師。天宮島創設に関わったそいつによって、私らは『天宮島創設』に纏わる記憶を思い出せず、あろうことか記録さえ残ってねぇ。そこに疑問を抱かなかったのは、創設の事など思い出せなくとも問題はない。そう感じていたからに他ならねぇ」
ネコは床に大の字で寝転がり、つまりと話を締めるように、
「『宮殿』の中で、唯一島に疑問を抱いてしまった私は、単身その真相を探るべく頼る事にしたんだ――『全てを知る彼の者』っつー存在にな」
☆☆☆☆
生まれつきの叛逆者。
その言葉は、《帝》の一角を授かったフェルドには、重く、苦しく、耐え難く、声が詰まり、息が詰まり、己の存在を疑い嫌悪する程、彼の全てを否定し叩き潰す威力を孕んでいた。
カラン――その金属音は、《炎帝》の誓いの剣『真紅蓮御剣』が彼の腰から外れ、虚しく落ちた悲鳴。
ウィルダネスは赤き剣を拾い上げ、フェルドの手に握らせた。
「すまんな、言葉が悪かった。今のフェル坊は正真正銘《聖皇》様に認められし誇り高き《炎帝》じゃ。叛逆者などでは無い」
「…………だが、俺は『不老不死』を…………」
「フェル坊や、『不老不死』として生まれた胎児はどう成長するか判るか?」
ひっかけ問題のようで、答えは極めて単純明快なもの。
「老いず、死なず。つまり胎児は胎児から老いる事はなく、『奈落』で生まれ様がどれだけ過酷な環境で育てられようが、死ぬ事もない。フェル坊が未だ叛逆者ならば、胎児の姿で存在しなくてはならん」
そう、フェルド・シュトライトは成人の体にまで成長――老いている。
不老ではない。それを証明するには十分に足り得る事実だ。
フェルドの瞳に光が戻り始め、よろりと立ち上がった。
「……今の俺は、『不老不死』じゃない……ってことなのか」
「そういう事になる」
「でも、なぜ……?」
フェルドの問いに、ウィルダネスはリプカへ目で伝える。あんたが答えてやれ、と。
ガシャリと鳴る鎖、リプカはフェルドの方は見れず、俯いたまま、
「……私のせいで、フェルドのお父さんも此処に堕とされたの……。せめて子供を産んでからでもと……先代の《聖皇》様に抗議したのが原因で……」
「……父親、も……」
「でも認められず……私はこの場所であなたを産んだ……でも、子供にも私の呪いが宿っているなんて……思いもしなかった……」
「思いもしなかった……だと? そんな魔法を作るから……求めたから起こった結果だろう……ッ」
「違うのッ!!」
ガバッと俯く顔を上げて叫ぶリプカは、息子の軽蔑するような目に心が締め付けられ壊れそうになる。
「…………判ってる、私が全部悪いのは。だから、フェルドだけでも呪いから解放してあげたかった……」
想起し、溢れる涙を抑える。
フェルドには、その涙すら、不快に感じてしまう。その涙に、何の意味があるんだ、巫山戯るな。
「解除魔法なんて無くて……でも、お父さんが言ったの。俺はいつか尽きる命だから、俺の生命力を使ってどうにできない――って……」
「禁忌に禁忌を重ねた……のか……!」
「それしか……それしかなかったの。フェルドを……私達の愛する息子を助けるには、それしか無かったのよ!」
嗚咽と噎ぶ声。涙が光る闇に一人の母の感情が爆発する。愛していたから、助けてあげたかったから。あなたには何も罪はないから。
「私だって! 『不老不死』の魔法なんて作る気は無かった! でも、でも……私が制御する暇もなく、その呪いが生まれちゃったのよ……」
「……意味が、判らないな」
「私だって……ずっと考え続けても判らないのよぉ……なんで、どうしてって……」
拭えず、ぽたりぽたりと溢れる悲色の涙。髪を濡らし、頬を濡らし、心の傷に染みて癒えない痛み。
ウィルダネスがへたり込むフェルドの肩を軽く叩き、
「フェル坊がよく言う『気付けば聖皇国に居た』、その記憶はリプカさんがお前の『不老不死』を消してから三年後になる。それ以前、お前が赤子の状態で過ごした時間は――およそ四十年近くになる」
「――――――」
言葉は見つからなかった。
もはや、言うこともない。
「……フェル坊、これは《聖皇》様に許された行いじゃないが――リプカ・シュトライトに、沸いた恨みをぶつけても儂は何も言わん。何せ、不死身じゃ。気が済むまでやればいい」
擁護することもない。
「フェ……ルド…………」
例え、形だけでも。
過去の闇を、払うために。
此処に決別を示すために。
俺に、親はいない。
「――――――」
赤き剣が煌めく。
それは純粋な恨みと、怒り。
燃え盛る炎の断罪として、フェルド・シュトライトは、
「――そのような行為に意味はない。俺の剣は、俺の誓いは、守り抜くこと。ただ一途に、ひたすらに、大切なモノを守ることにある」
魔聖剣を納めた。
誇りを汚す為に剣は振るえない。
《炎帝》のフェルド・シュトライトは、叛逆者リプカ・シュトライトに背を向け、歩み出す一歩に、
「それがたとえ――叛逆者となった母親であろうとも、俺は『守られた』恩を忘れるような真似はしない。いつか俺が恩を返せるように、『不老不死』なら図太く生き続ける事だ」
初めて『息子』として、『母』への言葉を重ねて、踏み出した。
大きく、逞しく、真っ直ぐ育った息子の背中は、とても眩しくて。
「……親子に、恩の貸し借りなんていらないのよ……バカ息子……!」
嬉色の涙が、止まらなかった。
髪を濡らし、頬を濡らし、裸体を伝って漆黒へ。その一滴が、僅かに、彼女の縛鎖を溶かしていた。
フェルドの後を追うウィルダネスが立ち止まり、振り返らず、言う。
「――という訳だ、リプカさん。悪いがまだ『奈落』で死に続けてくれ。仮にあんたが外に出れたとして、儂はもう死んどるかもしれんが……もしその時、儂が生きとったら祝い酒でも奢らせてくれ。じゃあの」
漆黒の監獄から《炎帝》と《地帝》の姿が消え、再び静寂の無に包まれた空間は、ただ唯一。
彼女の涙に濡れた笑顔だけは、消すことが出来なかった。
☆☆☆☆
「なるほど、アホタイガーが『宮殿』を裏切った理由が、よくとは言わないけどある程度は判ったわ」
「だーかーらー、急くなって」
鈴奈が合点! と掌を叩いてしまうより前に、夏夜が貸してくれたハンカチでジュースを拭き取るネコが、煩わしそうに声を上げる。
「もし理由がそれだけだってんなら、他の四人にも事情を話してみようかなって可能性もあったさ。けど私は単身で『宮殿』を騙して此処に居る。そこにゃ一番重要な部分があんだって」
今更だがネコは随分と口が悪い女の子なんだなぁと詠真が考えていると、
「おい、呆けてるお前の事だよ」
「……え、俺?」
本ッ当に普段はまぬけな男だなお前は! と吐き捨てたネコは、糖分取っとけと乱暴にチョコを投げつける。
――俺、甘い物苦手だし、さっきからチョコばっかり……。
「話の前に言ったろ、お前を『宮殿』から遠ざける為に、木葉詠真っつー超能力者の本当の価値を伝えにって」
「あー、そんな事も言ってたか」
「はーい解散解散! こんなポンコツ
相手にしてる時間はありませーん」
「わーわー! ごめんごめん、ちゃんと覚えてるから!」
本気で解散しようしたネコをなんとか説得し、一時微笑ましい空気に包まれながらも話は再開する。
新しい紙パックジュースにストローを通すネコが、中身を出した買い物袋から更に紙を取り出した。
それを床に広げながら、
「まずこいつは、『リスト』って言ってな。『宮殿』にとって重要、あるいは危険視・要監視対象となる超能力者の、文字通りリストだな」
覗き込んだのは詠真のみ。どうやら他の面々は『リスト』を閲覧したことがある様子だった。
詠真は『リスト』によく知った名前を幾つか発見する。
「えーっと、由罪の重要レベル7、危険レベル10ってのは高いのか?」
「トップクラス。灰爽由罪は能力面にしても性格面にしても、危険度はレベルマックスの10に設定されてる。てかそれは私が設定した」
「じゃあ重要レベルが7なのは?」
「重要レベルっつーのは、天宮島にとって役に立つか役に立たないかの値だ。奴の『自由気象』は強力だし天候操作なんざ楽にできるから重要っちゃ重要なんだが、如何せん本人がそこんとこに協力的じゃねえ。その代わり、別の部分では協力的だったがな」
「別の部分?」
詠真のオウム返しにネコはやや迷いを見せたが、簡潔に答えた。
「灰爽由罪には、政府に反する不穏因子の処刑、つまり殺しだな。それをやらせてた」
詠真は顔をしかめ、『リスト』の灰爽由罪の項目に視線を落とす。
――あいつ、そんな事を……。
あくまで灰爽由罪の名誉のためにと、ネコが補足する。
「強制じゃねぇよ。あいつはあいつの意思で動いたし、無関係な者らを殺す事もなかった。己の為、自分を保つ為に必要だったんだよ、あいつにゃ」
由罪は由罪の考えがある。
詠真はそれ以上詮索せず、別の項目にも視線を移していく。
中には、あのロゼッタ・リリエルの名前もあり、重要レベル7、危険レベル9の由罪と一つ低いが大して変わらない評価だった。
「思うんだけど、由罪よりロゼッタのが危険なんじゃねえかな」
「能力は、な。でもあの灰爽由罪に比べて、ロゼッタ・リリエルは常に好戦的って訳じゃねえし、必要なければ何もしないお嬢様だ。10でもいいんだが、あえて9にしてるだけで特に深い意味はねえよ」
ふーん……と鼻を鳴らしながら『リスト』を読んでいく詠真に、ネコは一つ意味深な言葉を投げた。
「お前、ロゼッタ・リリエルと仲が良かったよな?」
「え? ……ま、まぁそれなりに」
詠真は背後から刺すような氷の如く冷たい視線を感じながら答えると、ネコは「ならいいや」と笑う。それだけでその会話は終了し、ネコが『リスト』の一番下を見ろと言う。
「下……?」
そこにあったのは、
「俺の名前がある……」
木葉詠真。
重要レベル6。
危険レベル5。
同じ《三王》の由罪やロゼッタと比べると、やや見劣りする値。平々凡々と言った所なのか、何方にせよそれほど嬉しい報せではない。
ネコはまた買い物袋を漁り、おそらく最後だろう紙を取り出し、
「んで、これが『最重要機密リスト』だ。ソフィアやバカ氷、透け透けにも見せてない本当の機密だよ」
広げていた『リスト』をクシャクシャに丸めて放り投げ、新たな紙をバン! と叩きつけた。
バカ氷こと鈴奈と透け透けこと夏夜の二人は何か言いたげな表情だが、ソフィアがまあまあと宥めて三人は覗き込み、詠真は書かれていた内容に唖然と目を見開いた。
――――――――――――
《《最重要機密》》
木葉詠真『四大元素』
重要レベル10 危険レベル10
『備考』
中枢システムのスペアとして申し分ない能力を所持している為、天宮島において最重要人物に指定する。
――――――――――――
「中枢……システム?」
詠真は確かめるように、されど何を指すかは判らない単語を呟き、続けて綴られている『スペア』――予備という文字に酷く不快感を覚えた。
ネコの言う通り、他の三人もこれを目にするのは初めてのようで、八つの瞳はネコの言葉を静かに待った。
ネコはジュースを一口含み、知れず渇いた口を潤してから、告げた。
「天宮島を超大型浮体式構造物として機能させ……要は洋上に浮かせているのは、龍脈と中枢システムだ。……いや、祈竜祭でも判るように、龍脈の力が弱まろうが中枢システムさえ生きていれば島は浮く。その――」
ネコは初めて他言する。
この名前を、存在を。
じっとり汗ばむ掌。
静寂に、その名が響いた。
「――その中枢システムの名前は……
『エレメント・フォース』と言う」




