『黒紫の帝』
「君が木葉詠真君、だね。話に聞いていた通りフェルドとは不仲……いや、逆に仲良しなのかな」
神聖を穢す汚い声は消え、神父のように落ち着いた声が聖堂をあるべき空気へと引き戻した。
会衆席に座る詠真は、席端の角に凭れ掛かるようにして座る優しげな声の主を見て、少し既視感を覚えた。
黒、よりは黒紫色の髪。腰まで伸びる髪は後頭部の高い位置で一つに結われ、綺麗な顔立ちや痩身痩躯と相俟って中性的な印象を受ける。
何より、纏っている服が彼を表すに足る要因だろう。
それは紫紺の外套。幾度か目にした八眷属が纏っているコートと同種のものだ。同席しているフェルドの赤い外套と見比べると一目瞭然である。
そして腰に吊るされた黒紫の剣。
つまり、と詠真は自己紹介されるよりも先に尋ねてみた。
「もしかして……今の闇帝、ですか?」
「ご明察。僕はレオンス・ノワール。八眷属の中で闇帝を名乗らせてもらっている魔法使いだ。初めまして、木葉君」
ぜひ僕の事はレオと呼んでくれ、とレオンスは詠真の隣に座って握手を求める。
欧州に住む彼らが日本語に一切の不自由がないのは、"舞川"の存在が起因しているのか、特に意味はないのか。それは分からないが歓迎の意思は伝わってくるし、何より楽だ。
握手に快く応じた詠真は「心遣いに感謝します」と畏まりながら、先ほどから感じていた既視感の正体が何だったのか理解した。
ルーカス・ワイルダー。ジークフリートと名乗りドイツ総統閣下に君臨していた、かつて闇帝であったあの男とレオンスは似ていたのだ。
握手を解くと、レオンスはフェルドの方を見て目を細めた。まるで悪戯っ子を叱る親のような目だ。
「フェルド、僕が仲裁しなかったら本当に聖堂が吹っ飛んでいたよ。そんな事をすればバチカン宮殿に酷い損壊を与えかねない」
「……悪かった」
ばつが悪そうに顔を背けたフェルド。
……どうやらコイツも反省という言葉を知っているようだ。
詠真はつい揶揄いたくなる気持ちを抑え、口端を少しニヤつかせるだけに留めておく。
「まぁ、今後は熱くなりすぎるなよ。……っと、そうだ僕は木葉君に用があったんだ」
フェルドが言っていた、八眷属が詠真に会いたがっているというのはどうやら本当らしい。
妙な緊張で手汗を滲ませながら詠真は首を傾げた。
「俺に用、ですか?」
「用という程ではないんだけど、僕らは常々君に会いたいと思っていたんだ。まぁ理由はそれぞれだけどね」
レオンスは座るのに煩わしいのか腰に吊るした黒紫の剣を傍に置いて脚を組み、聖堂の奥に置かれている三台のアナロイを昔を懐かしむような目で眺めながら言う。
「ルーカスを討ったそうだね」
詠真は、おそらくレオからルーカス・ワイルダーの話題が振られるだろうと予想していた。
だから返答に詰まりはしなかった。
「はい。殺しました」
あえて、殺したという言葉を選んだが特に深い理由はない。事実、殺したことに一変の間違いはないのだから。
対し、レオンスはくすりと笑う。
「なに、咎める気なんてこれっぽっちもないよ。むしろ、ありがとう」
「ありがとう……?」
詠真がオウム返しに聞くと、答えたのはフェルドだった。
「聖皇国を離反した魔法使いは、叛逆者、あるいは異能崩れと呼ばれ抹殺対象になる。ルーカス・ワイルダーはその筆頭、つまりは特級の抹殺対象だったと言う訳だ」
抹殺。物々しい単語に少なからず戦慄を抱いた詠真だが、悲しきかな"そういった事柄"に慣れてしまっていた。
それに至ったまでを今更振り返る事はしないものの、人間として良い傾向であるとは到底言い難い。
小難しい表情を浮かべる詠真の横顔を見つつ、フェルドの言葉に補足するようにレオンスが続ける。
「ルーカスは二十年前に聖皇様に刃を向け、命辛々逃走した。そして空席になった闇帝の座に僕が選ばれ、同時に特別任務を授かった。それが、ルーカス・ワイルダーの抹殺」
無感情に──とは言えない、微かな揺らぎを持った声。
抹殺に納得していない、ではなく、少し別の何かがあった。
詠真はおそらく心当たりがある。
「レオさんも、ルーカス・ワイルダーが"変われる"可能性を信じたかった……ですよね?」
よもや突かれると思わなかった図星を突かれ、レオンスは目を丸くしてから苦笑を浮かべた。
「……そうだね。聖皇様はルーカスが道を違え、しかし良き道へ歩みを変えられる可能性を感じたから、わざと逃走させた……もちろんタダではなかったけどね。でもそれは聖皇様の私情、聖皇と言えど私情。抹殺対象から外す事は出来ないし、これ以上の擁護も許されなかった。だから、僕に抹殺任務が託された。ルーカスの弟子であるこの僕にね」
レオンスは傍に置いていた黒紫の剣をそっと撫でる。
「僕が闇帝に座った当時は、まだ十一歳の子供だった。師匠が叛逆者なんて信じたくなかったし、抹殺任務なんて出来るわけもなかったよ。でも聖皇様は、全部僕に任せると言ってくれた。抹殺するも、師匠の心が変われる可能性を信じるも……」
詠真は知れず胸が痛んだ。
あの時、自分が引導を渡さず、妻の言葉を受け入れず、彼を殺さず捕縛していれば、と。
そんな思考を読んだのか、レオンスは小さく首を振った。
「この二十年、ずっと目を背けていた訳じゃないさ。ある程度して、僕は師匠……ルーカスの捜索を開始した。可能性は信じていたけど、それは彼を見つけるまでと時限を決めてね。でもまぁ……全く見つからなかった。多分僕の甘え、心の何処かでは見つけたく無いとでも思っていたのか……三十超えても子供のまんまさ、僕は」
レオンスは軽快に、しかし自嘲気味に笑って、その瞳に薄っすらと光る何かを見せながら、おもむろに立ち上がり黒紫の剣を腰に掛ける。
「だから、君に礼が言いたかった。ありがとう木葉君。不肖の師を終わらせてくれて」
言って、聖堂の奥に置かれたアナロイの前まで歩いた現"闇帝"は、アナロイの上に置かれた古ぼけた書物を宙に放り投げた。
「師匠、貴方がここに立つ事は二度とない。だから、これからは……」
黒紫の剣を鞘から抜き、
「僕が闇帝だ。どうか安らかに」
"闇帝"レオンス・ノワールが有する魔装具──魔聖剣『黒蝶華煉剣』が、闇の軌跡を描きながら落下する書物を斜めに両断した。
ファサ……と床に落ちた書物は黒い炎に焼かれ、跡形もなく、この世から失われる。まるで持ち主を追うかのように……。
魔聖剣を鞘に納めたレオンスは振り向かずに言葉を投げる。
「次はシスティーナ礼拝堂に行くといい。美人が二人待っているよ」
「あ、ちょっ……」
詠真が、まだ聞きたいことが! と言い終わるより早く、レオンス・ノワールは聖堂を出て行ってしまう。
控えめに肩を落とし、聞きたかった事とは別に、ぼそりと呟いた。
「はぁ。てか、斬って燃やした本は何の本だったんだ……?」
「さぁな。闇の師弟だけが知る思い出の品なんだろう。それを聞きたかったのか?」
「いや、そうじゃないけど。……まぁ、レオさんなら鈴奈の母、鈴羽さんを知ってるのかなって……」
鈴奈の年齢やルーカスの口ぶりからして二十年前は当然生きていた舞川鈴羽を、当時十一歳だったレオンスなら知り得ているだろう。
詠真は単に鈴奈の母の事を知りたいからではなく、ルーカスが彼女の名前を口にしていた事が少しばかり気になっていたのだ。
どこでその名を……とフェルドは少し驚きを表情にするも、ため息を吐きながら聖堂出口へと歩き出した。
「舞川鈴羽。彼女について知りたいなら次に会う帝に聞けばいい。俺なんかよりずっと詳しいだろうさ」
☆☆☆☆
『師匠、それは何ですか?』
『これか? これは魔法書だ。俺が創った魔法が記されている。見てみるか?』
『うへぇ、難しい……』
『ハハハ。そうは言ってられんぞ、レオンス。お前は何れ、この魔法書に記された魔法を覚えなくてはならん』
『どういうことですか、師匠?』
『俺が闇帝を降りたら弟子のお前に座を託そうと、そういう話だ』
闇帝の男は笑った。弟子のめざましい成長が誇らしく、師匠師匠と慕ってくる弟子が可愛くて、自分の魔法が次代に受け継がれていく事が何よりも嬉しいから。
『この魔法書は聖堂に置いておく。いつでも好きな時に見るといい、そして励め。未来の闇帝よ』
『はい! 師匠!』
弟子想いのいい師匠だった。
この弟子以外にも若い魔法使いを育成する事に情熱を注ぎ、魔法研究に関しても誰より熱心な男だった。
そんな彼がどこで道を間違えてしまったのか。あるいは、彼の熱が研究が行き着いた果ての結果なのか。
『聖皇の座を頂くぞ、ホーリーロード!!』
聖皇国一帯を巻き込んだ戦闘。
闇帝は聖皇に魔法を向け、そして破れ──逃走した。
『師匠──ッ!』
『……貴様の師匠など、もうどこにもいない! 弱者を育てるなぞ馬鹿馬鹿しくて反吐が出るッ。俺は聖皇の座を求める、ただの男だ!』
決別の言葉。
それは若干十一歳の少年には重く、苦しく、信じ難く。
残ったのは悲しみと、黒紫の剣。
師匠だった人は姿を消した。
──もう二度と会うことはない。
彼は死んだ。一人の少年によって討ち果たされた。
再会はついに叶わなかったが、それでいい。
彼は道を間違えたが、己が選んだ道の果てで死んだのだ。
師匠が望んだ道の先で倒れた事に、弟子がどう口を挟めよう。
だから、弟子はもう卒業だ。
『これからは僕が闇帝だ。どうか安らかに──ルーカス師匠』
レオンス・ノワールはルーカス・ワイルダーとの思い出の品である魔法書を捨て、しかし彼の魔法は受け継ぎ、師匠とは別の道を歩み続ける。
 




