『死を想え』
今この瞬間にさえ開戦してもおかしくないドイツとフランス。国境線で睨み合う両国軍。
これに伴い、近隣諸国では飛行機の発着を完全に停止していた。
独仏両国の防空識別圏外であろうと、戦争開戦まで秒読みの現状で、近隣を飛行する機体が安全だとは到底言い切れない。判断を急いた軍に、対空ミサイルの照準を向けられる可能性は大いに考えられる。
無意味な犠牲が出てしまう事態を予め考慮した上で、近隣諸国は空の道を完全に封鎖していた。
そもそも、第三次世界大戦に発展する可能性を示唆されている爆心予定地とでも言える場所に、この後に及んで観光に出掛ける馬鹿もそうおるまい。
戦争を取り上げるマスコミなどは困るだろうが、そんなものに構ってやれるほど、現状は穏やかではないのだ。
よって、まずはイタリア、その後にドイツ、フランスに向かう予定だった木葉詠真一行は、ルーマニアから地上の道でイタリアへ向かう事を余儀無くされていた。
ルーマニアからハンガリーを通り、オーストリアを超えてイタリアへ。
現在はルーマニアからハンガリーへ向かう道中。戦争介入へ向かうというのに、キャリーバッグで旅行気分にも見えなくはない一行は、寝台列車の個室部屋で体を休めていた。
「今更なんだけどさ」
二段ベッドが二つ用意された四人部屋。片方の下段ベッドに寝そべる詠真がふと尋ねた。
「三人で大丈夫なのか? 言ってしまえば、俺らはたったの三人で戦争を終わらせようとしてるんだろ?」
戦争を引き起こす原因となったであろう、異能崩れの捕縛、又は撃滅。言い方を変えれば、最高指揮官を倒して戦争を止めろ。
その為には、国に潜入しなければならないし、見つかれば軍一つを生身で相手取らなければいけない。いくら超能力者、魔法使い、陰陽師であろうとたったの三人。
かつて米露軍から天宮島防衛を果たした詠真だが、その時でも戦力は十人居たし、やってくる敵を迎え撃っただけの殲滅戦だった。
しかし今回は、兵士、兵器が配備された国内に侵入し、その指揮官であろう者を打倒する。だが相手は、異能崩れ。つまり、普通の人間相手とは天と地の差がある難敵だ。
前回とは状況が全く違う。
超能力を殺しに来た敵を殺す戦争ではなく、『外』の人間同士の戦争。そこに、詠真達が問答無用の殺戮を行っていい正当な理由はない。
しかし。
「十分じゃない? 見つからずターゲットの元に辿り着ければそれでいいし、見つかれば戦えばいい。敵に見つかった時点で、指揮官の元に情報は伝わる。そうなれば、隠れてこそこそやる必要はないし、銃を向けられたのなら"理由"はできるでしょ?」
理由。正当防衛──殺す理由。
詠真はのそりと体を起こし、鈴奈の言葉を心の中で反芻する。
掌をじっと見つめた。もしこの手に超能力が無ければ、きっと人を殺す事なんて無かったのだろうか。
麻痺したのはいつだ?
考えて、それは初めて人を殺した幼少の頃からだと自覚する。
改めて、自分は『外』の人間を殺す事に躊躇いがない。憎悪に任せる事もそうだが、何か些細な理由でもあれば負い目すら無くなってしまう。
残された家族、恋人、知人。そんなものは知らないし、思う気もない。
だが、それが自分に返ってきた時。
アーロン・サナトエルに妹を奪われた時、ワールドクラティアの男に親友を奪われた時。その何方の相手も、詠真は心底恨み、憎んだ。
勝手。自己中心的。そうなのだろう。米露軍の兵士の──人間の命を平気で奪っておきながら、己のモノが奪われた時は感情を保てない。
そして、これからも。
……これから俺は、また"理由"を得て邪魔なモノを壊すんだ。今の俺、鏡見たら酷い顔してんだろうな。
ふと、妹の──英奈の顔が過った。
『お兄ちゃん……ダメだよ? みんな、みんな……命は同じなんだよ? だから、ほら、ね? そんなに悲しい顔をしないで。お兄ちゃんに、殺人なんて似合わないよ』
いつか聞いた──いや、妄想だ。英奈ならきっとこう言うだろう。そんな兄の戯けた妄想。
アーロン・サナトエルの一件で詠真は思ったはずだ。
殺す事だけが復讐ではない。
それを失意した米露軍との戦争は、些か英奈には見せ難い醜態だったに違いない。
──でも。それでも。
「妄想に浸って、死んでりゃ世話ねぇんだ。……殺すよ、俺を殺そうとする奴らは全員殺す。俺の大切なモノを奪おうとする奴も、奪った奴も……」
だから、この任務は放棄できない。
アーロン・サナトエル、あるいはワールドクラティアが関わっている可能性が僅かでも浮上している以上、詠真にとっては最優先事項であり、それこそが『外』に出てきた目的だ。
アーロン・サナトエルを探し出し、転移魔法を手に入れ異世界へ渡り、英奈をこちらの世界に取り戻す。
親友の輝を奪った、ワールドクラティアのあの男を必ず斃す。後手に回る前に、先手を打つんだ。
そしてやるべき事が終わったら、恋する相手に想いを伝え、そして楽園で静かに暮らすんだ。
「邪魔はさせないさ、誰にも」
どだいこの任務自体、常識での"正当"に属する事柄でもない。
理由を欲すれば探せばいいし、気にしなければ必要ないだろう。
それにね、と鈴奈が体を起こす。
「軍兵士なら、どちらにせよ命を散らすのが運命よ。敵軍に殺されるか、私達に殺られるか。それだけの違い。まぁキリスト教的に言えば、死んで最後の日を待てばいい。どだい人殺しの軍兵が、天国に行けるとは思えないけどね」
キリスト教の死生観。死すれば、最後の日に審判を受け、天国、煉獄、地獄の何れかへ召される。聖皇国はカトリックの総本山なので、煉獄を認める宗派だったか。
鈴奈と出会って以降、詠真は時間があればバチカンやカトリックについて詳しく調べていたのだ。
少しでも彼女を理解したい、そんな想いからきた行動だ。
「死を想え。どうせ死ぬんだから生に執着するな。そちらではこうでしたか?」
食堂から飲み物を持って部屋に戻ってきた夏夜が、無感情に言った。
「さぁ。こうは言ったけど、私は生粋の教徒でもないし」
詠真とは反対側の上段ベッドから降りた鈴奈は、下段ベッドの淵に座る。夏夜は二人に飲み物を渡し、扉の傍に凭れ掛った。
「私は日本式の名前を持ってるけど、生まれた時から聖皇国に居たからね。そういう思想の元で育った。でも信仰心も高いわけじゃない」
「それってどうなんだ……」
「どうなんだって言われても、私は聖皇という"聖人"が母代わりだし、そもそも魔法なんて異能を使える時点で、信仰するんじゃなく信仰される側だと思わない?」
つまり、自分達こそが神の子だとでも言いたいのか。彼女のマイペースというか、唯我独尊には揺らぎがない。
でも確かに、聖皇ソフィアは聖人と言って遜色ないのかも知れない。いつぞやに、"世界の声を聞いた"なんて事も言っていたのを詠真は思い出す。
……ん? 聖皇が母"代わり"?
「ソフィアさんが母代わりってことは、鈴奈の本当の母親は──」
言った後、デリカシーの皆無さに後悔の波が押し寄せる。
鈴奈は一瞬躊躇う素振りを見せたが、至って感情を崩さずに、飲み物を一口含んでから答えた。
「うん。私の母は、私が産まれた直後に亡くなったみたいでね。なんでも出産中に母が急速な魔力枯渇状態に陥って、父が母に魔力を供給する為に互いの魔力回路を繋げたんだって。でも母の魔力枯渇は改善されず、父の魔力まで急速に枯渇。そのまま私を産むと同時に、二人は魔力だけでなく、生命力までを枯渇させて死んだ。そう、私は聖皇様から聞いてる」
詠真は、魔法使いの構造について詳しくはない。魔力枯渇や回路、生命力など、うまく理解できないのが正直だ。加えて言えば、詠真と鈴奈では親を失うに際して抱いた感情のベクトルも違うだろうし、失うという意味からして別物だ。
「その話を聞く限りじゃ、分からないけど、多分私が二人の魔力と生命力を吸収したんじゃないかって、そう思うのよね。それなら、私が八眷属を名乗れるほどの魔法使いになり得たのも頷ける、のかもしれない。母が先代の氷帝だったみたいだし、相当の魔力を溜め込んだはずなのよ」
親を殺したのは子供。
それが事実なのか、ただの思い込みなのか、確かめる術はないのだろう。
鈴奈がそう思っていたとして、悲しんでいるのか、力を与えてくれた事に感謝しているのか、特に何も感じていないのか。彼女の表情から窺うことはできないが、これ以上デリカシー皆無な事を尋ねようとも思えなかった。
同情はしません、という意思表示なのか、夏夜は一言も発しない。鈴奈としても言葉を求める気もないだろう。
詠真は、
「……すまん」
謝るしかできなかった。
何と声をかけたらいいのか。
自分の価値観を伝える? それをした所で空気は悪くなるだけだ。
五歳の息子と三歳の娘を捨てた親に持つ感情など一つしかないのだから。
広くもない部屋に沈黙が落ちる。
……まずったな。異名の件といい、空気読めなさすぎだろ俺。
自己嫌悪に陥りつつ、なんとか空気を戻そうと口を開きかけた時──列車に急ブレーキがかかり、進行方向を前方にしていた詠真の体が慣性の法則で前につんのめった。
「うおわっ!」
情けない声を上げ飲み物をぶち撒け
ながら、
「きゃっ!」
ベッドの上で、詠真と鈴奈の体が衝突。名状し難い──名状できるがしたくない態勢になってしまった。
だが、ここは名状しておこう。
飲み物で服が濡れてしまった鈴奈は、座っていた態勢から上半身だけをベッドの上に倒され、その上に被さるように詠真の体が密着していた。
密着した体──息がかかる距離で顔を合わせ、寸での所で唇の接触は成されていなかった。
「ぁ……」
鈴奈の喘ぐような甘い声。それは驚きから出てしまった声だったのだが、扉付近で尻餅をついていた少女の目には、『キスをされて甘い声を出してしまった』と映ってしまうのも仕様ない事だと言えようか。
「な、な、な──何をやっているんですか──ッ!」
夏夜は赤と黒のチェックスカートの中、太ももに装備したカードホルスターから、呪符を数枚取り出した。
目の前の光景に顔を紅潮させ、あわわわわと目を回して慌てふためく陰陽師は祝詞を唱えようとする。
「わ、ちょ、ちょっと待て夏夜!」
我に返った詠真は、押さえつけてしまっていた少女の華奢な腕から手を離し、体を起こして「違う! 勘違いするな!」と腕を振って否定の意を精一杯示した。
が、陰陽師は普段の冷静さを欠き、いかにも年相応の少女らしい反応を露わしたまま、
「ふ、不潔ですぅ~! キ、キ、キキキキ」
キスなんて──!
呪符が燃え上がり、今にも放たれんとしたその時、火は一瞬の内に氷結し呪術は無事不発に終わった。
「はいはい、一旦落ち着きましょ」
呪術の火を魔法で相殺、手を一回叩いて場を落ち着かせた鈴奈。濡れてしまった服に不快感を覚えるも、その頬はほんのり赤みを帯びていた。
ややあって。
「す、すみません……私からはそう見えてしまったもので……」
夏夜が平常を取り戻し、詠真も早なる鼓動を抑え付けた。
「ったく、急ブレーキとか何事だよ……」
「そうね、止まったまま動き出す気配もないし……」
その時。
『じ、乗客の皆様、直ちに列車を降り避難してくだいますよう……う、うわあああ──』
「……なんだ?」
それは車内放送。残念ながら、詠真が会得している複数言語の中にルーマニア語はない。ここに至るまでに通訳をしてくれたのは鈴奈だ。
しかし、言葉が分からなくても何か緊急事態である事が察せられた。
「避難しろ、らしいわよ。でも最後の叫び……何かに襲われた時みたいな感じかしら。不穏ね」
急ブレーキ。避難を促すも、叫びと共に切れた放送。
「列車ジャックか……?」
「ジャックなら停止はしないと思います……どちらかと言えば、何か大型の動物に線路を遮られたとか……?」
大型の動物……?
直後。三人は同時に、同様の答えに辿り着いた。
「まさか──魔物か!」
そして直後。列車先頭方向から叫び声が上がり、車体が大きく揺さぶられた。
「とにかく、一度外に出てみましょう。一応、"顔を見られないように"しておくわよ」
鈴奈は左肩の上に位置する"宙を掴み"何かに引き抜くように腕を振るうと、次の瞬間、水色に近い淡い青──空色のロングコートが現れた。
淡青外套。それは八眷属の氷帝である証の一つで、コートに幾重にも強化魔法がかけられている、魔法で創られた外套だ。
氷帝は淡青外套のフードを深く被り、詠真と夏夜は市販のコートを羽織って同様にフードを被る。
三人は部屋を出るとバラけて、車掌が緊急で開けたであろうドアから列車の外へ。
おそらく最も目立つ装いであろう鈴奈が列車先頭へ走り、他二人は列車から少し離れた場所で様子を窺う。
「あー、やっぱり」
フードの下で目を細めた鈴奈。視線の先には、先頭車両に絡みつき、窓から車内に顔を捻じ込んだ巨大な蛇──型の魔物。色は吐き気がするほどの赤で、うねる体は大木の如く太い。長さは二車両程度と言った所か。
察するに、進行方向に現れた巨体に急ブレーキをかけ、車掌の叫びは大方魔物に食われる直前のものだろう。車体が揺さぶられたのも、大蛇が絡みついた時だと思われる。
鈴奈は端末で詠真に通話を繋げ、荷物を持ってこの場を離れる旨を伝えた。
この場で鈴奈が大蛇を討てば、目撃者は超能力者が現れたとでも勘違いするだろう。それでも顔さえ見られなければ、今後の行動にも支障はない。
討伐後、別の場所に待機する二人と合流して別の列車に乗れば完了だ。
この状況は致し方ないが、必須ではない状況で異能を解放する事は極力抑えたい。日本からヨーロッパは何方にせよだが、ヨーロッパ内で異能を使用した移動方法を取らないのはその為。夏夜が飛行方法を持たないので尚更である。
「……さて」
ゆっくり見物していても仕方ない。さくっと終わらせてしまおう。
鈴奈は『氷薔薇乃剣』を取り出し、構え、地面を蹴った。
車両に絡みつく大蛇の体と交錯、一太刀を入れ──しかし。
「……は、硬すぎ」
大蛇の表皮は予想の何倍も硬質で、魔聖剣が弾かれてしまった。
着地して態勢を整えると、大蛇が車内からその頭を出した。気持ち悪いほど勢いよく曲げられた頭は、己の体に触れた存在へと寸分の狂いなく向けられていた。
大蛇の口の端から何かが落ちる。
──腕。人間の腕だ。口周りに血が付着しているのだろうが、表皮が真っ赤であるため判別しにくい。
「まぁどっちでもいいけど」
真紅の大蛇は列車に絡みついたまま、半身を垂直に立てる。
眼下に見下ろす矮小な生物。真紅の大蛇にとって、青一色の存在は嫌悪感を示すモノ──なのかどうかは分からないが、大蛇は怒りがこもったように大口を開いた。
と、同時に。
青い弾丸が大蛇の眼前に迫り、横一線の青い軌跡が鼻頭を襲った。
ガリリリリッ! まるで岩を無理矢理削っているような音。
「でも、入った」
大蛇の鼻頭──上顎の上部に、軌跡と同じ横一線の斬撃痕が刻まれた。
──本命はここからだ。
コートの背中部分が変化、肩甲骨辺りが氷翼となり、鈴奈は十メートルほど後方に下がった。
「硬いのはビックリしたけど、傷が入ればもうダメよ」
魔聖剣『氷薔薇乃剣』が煌めく。
大蛇に刻まれた斬痕が凍結を始め、ガン! ガン! と段階的な音を伴って、斬痕を中心に大蛇の全身へと凍結が広がっていく。
魔聖剣はそれぞれ固有能力を有している。『氷薔薇乃剣』は、其の剣によって斬傷を与えた物体を時間と共に凍結させる能力を持ち、それが些細な傷であろうと、斬撃時に込めた魔力の総量によって凍結深度は決まる。
ものの一分。巨大木よろしく、40メートルの真紅大蛇は氷の彫像への様相を変え、
「死を想え──って、魔物に言っても仕方ないか」
微細な氷結晶となり砕け散った。
この瞬間。異常な光景を茫然と眺めていた者達は砕け散る彫像に意識を取られ、超常的で不可思議な力を操った謎の人物が何処へと飛び去ったのかを完全に見逃していた。
氷結晶が舞い散る静寂の中。
──超能力者が……命を救ってくれた……。
そんな言葉があった。
☆☆☆☆
大蛇の魔物討伐後、合流した詠真達は、ルーマニア西部トランシルヴァニア地方のティミショアラから国際列車に乗り、オーストリアのウィーンへ向けて出発していた。
ティミショアラへの道中、ブカレスト発のハンガリー行き国際列車が謎の事故に合ったという旨のニュースを目にしたが、一行が懸念するような事態には発展していなかった。
死者24名。先頭二車両の圧し潰されたような破壊痕。生存した乗客の証言は『赤い巨大な蛇が車両に絡みついて、その蛇を青い人間が斃した』となっており、実に要領の得ない内容で──極めて事実ではあるが──、警察としても首を捻らずには居られないのだろう。
確かに『突然変異した獣達』と称した都市伝説に、実際の目撃情報も多数挙げられているのだが、何せ40メートルを超える大蛇となれば、おそらく現時点で最大サイズの目撃情報だ。
その上、その化け物を斃して去って行った青い人間。超能力者と推測されるが、だとしてもだ。そうなれば警察に出来ることはもうない。
化け物によって引き起こされた事故でした。
そう纏めるしかなかった。
幸いと言っていいのか、青い人間──コートを羽織った鈴奈の姿をデータに収めた者は一人もおらず、乗客数と生存者を照会して、生存者以外は全て死亡扱い。とは言っても、乗車券を買う際に身分詳細を明かしている訳でもないので、何一つ問題はない。
このまま列車に身を任せ、ウィーンに到着次第、ドイツに近しいオーストリア国内で情報を集める。
その後、鈴奈がイタリアのミラノに寄る用があるというので向かい、そこでフランスの情報を集める。
ここで一度整理し、任務の行動詳細を決めて、任務開始という流れを予定している。
今回のような面倒ごとに巻き込まれないとも言い切れないので、予定通りに運ぶかどうかは微妙だが、おおかた進めば、やはりそれで問題はない。
──そして此度の列車の旅は無事に目的地へ辿り着き、三人はオーストリアのウィーンの街に繰り出していた。
ヨーロッパ有数の世界都市にして、クラシック音楽の盛んな楽都。常なら活気溢れる街なのだが、現在は重たい空気に包まれている。
それも当然だろう。隣の国が戦争を押っ始めようとしているのだ。
だからこそ、何らかの有意義な情報を得られる可能性も高い。
そこで三人は二手に分かれ、ドイツ語を話せる詠真は単独で、話せない夏夜は鈴奈と組んで情報収集を行うことにした。
具体的にどうするか、と言っても、その辺の物知りそうな人に尋ねたり、情報誌を確認したりして、出来ることならドイツ軍の状況などを知れると十二分に成果はあると言える。
──が、木葉詠真は、
「くっそ、全然これといった情報がねぇ……鈴奈達に賭けるしかねぇか……ハァ」
一人で心細くなってしまったのか、諦めてホテルへ逃げ込んでいた。
☆☆☆☆
鈴奈と夏夜は、「郊外にある小さな教会に行くといい。あそこの神父はえらく情報通らしいからね」という、何だかいかにもな情報を頼りに、ウィーン郊外へと足を運んでいた。
二人は、情報を教えてくれた男性がもう一つ興味深い事を言っていたのを思い出した。
──その教会の神父は、最近悪魔祓いで忙しいらしいから、話を聞けるかは分からないよ。
「悪魔祓い、ですか」
夏夜は小さな教会を前にして、ため息を吐くように呟いた。
「まぁ外国じゃよくある事なんじゃないの? ウチの魔法使いにも教会で神父やってる人は居たりするけど、そういう悩みを寄せてくる人はたくさんいるそうだし」
「えぇ。私達の方も、一般的には霊能者なんて言われたりして、よく似たような事を頼まれる事もあります」
まぁ考えてても仕方ないわよと鈴奈は言って、教会の扉に手を掛けた時、
『ヴォオオオオオオ』
人間の声──とは到底言い難い、それこそ悪魔のような重低な声が教会内から外まで響き渡った。
鈴奈と夏夜は自然と顔を合わせて、一つ頷いて扉を開け放った。
『鎮まれ。ここはお前の居場所ではない! 魔界へ帰れ!』
教会の奥では、黒のスータンを着た長い金髪の神父と三人のシスターが、椅子に座る少年を押さえつけて、まさに悪魔祓いの儀式を行っている最中だった。
押さえつけられている少年は藻掻くように暴れようとするが、神父の聖書読み上げや聖水に抗っているようにも見えた。
『やめろ! さもなくば貴様ら全員喰ってやるぞ!』
先刻響いた悪魔の如き声は、少年から発せられている。見るからに異質。本物の悪魔祓いの光景だ。
離れた場所で祈るのは少年の両親だろうか。鈴奈は事情を窺うため、少年の両親と思わしき男女に声をかけた。
『突然すみません。あの少年は一体……?』
年端もいかない少女の登場に困惑の表情を見せたが、鈴奈の瞳の真剣さに男女は口を開いてくれた。
『あの子、私達の息子なんですが、数日前から突然……何というか、狂ったように暴れるようになってしまったんです……』
母親の悲痛な声。嗚咽を漏らす妻の背中を夫が摩る。
それ以上は聞く必要もないと思い、鈴奈は悪魔祓いを受ける少年へと視線を移した。
「……どう思う?」
「月並みですが、嫌な感じですね」
暫し眺めていると、こちらへ気付いた神父が一旦悪魔祓いの儀式を中断。一時的にシスターに任せ、汗を拭いながら近付いてきた。
『貴女達は? 雰囲気から察するに、ただの少女ではないようだ』
ただの少女ならば儀式を中断したりしませんしね、と神父は付け足す。
鈴奈が夏夜に通訳し、二人は率直に思った。
──この神父、鋭い。
『女の子の素性を知るための誘導尋問ですか? そんな甘くはないですよ?』
『ははは。とまぁ冗談はさておき、貴女達は何用でこの教会に?』
鈴奈のジョークを軽く流し、神父は鋭い眼つきで問うてきた。
変に誤魔化す必要などない為、鈴奈は簡潔に述べる。
『ここの神父は物知りと聞いたので、ぜひ知識を貸して頂きたいなと』
神父は迷うことなく、
『現在の優先順位はあの少年だ。彼から悪魔を祓うまで待ってもらう必要がありますが、それでも?』
通訳し、少女二人は顔を見合わせる。
「鈴奈さん、少しばかり試したいことがあるのですが」
「奇遇ね、私も」
呪術で、魔法で、どうにかできないだろうか。
二人は直接口には出さないが、あの少年を苦しませる悪魔とは──魔物ではないだろうかと感じていた。
憑依型の魔物など存在するのかは全くの未知だが、存在するとすれば異能が有益になるだろう。
頷いた鈴奈は、
『神父様、あの少年の悪魔祓いを私達に任せてはもらえませんか?』
『……貴女達は何を』
さすがに訝しる神父。突然現れた少女が悪魔祓いをさせてくれなど、神父にとっては初めての経験だ。興味本位ならば、それこそ悪魔の呪いをその身で受けて然るべきだろう。
……という反応を十分に予想していた鈴奈は、スカートのポケットから指輪を取り出し、右手の薬指に嵌めた。
それを神父に見せると、
『──貴女は一体』
その指輪は金に輝き、表に人間二人を左右に分けたモチーフが描かれている。外して指輪の裏面を見せると、そこには二つの鍵が交差した紋章が刻まれていた。
『これはバチカン市国に属する枢機卿の証である指輪です。復古カトリック教会の神父様なら分かりますよね』
復古カトリック教会。かつてローマ・カトリック教会から分裂したキリスト教の教派だ。
カトリックに関わる者なら、バチカンのカトリック教でなくとも、ローマ教皇の紋章『天国の鍵』や、イエスの第1弟子ペテロと使徒聖パウロの2人を左右に分けて描かれたモチーフを刻んだ枢機卿の指輪も存じているだろう。
『これは……本物なの、ですか』
神父が疑うのも無理はない。本来であれば、鈴奈のような年端もいかぬ少女が枢機卿など天地がひっくり返ってもあり得ない。
『本物、と言っても、これ以上証明する方法はありません。赤の礼服は持ち運んでおりませんので』
聖皇八眷属。表向きはローマ教皇がバチカンの主だが、その実は聖皇が聖皇国ルーンの統治者だ。更に、ローマ教皇以外のバチカン市国に勤める聖職者は殆どが魔法使い。その中の最大の八人の一人である鈴奈が、枢機卿の地位を得ているのは不思議な事ではない。
とは言っても、聖皇国としての価値観ではあるが。
神父は指輪と少女の顔を何度か見比べ、ややあってから、諦めたように肩を竦めた。
『本来なら、ローマ・カトリックと復古カトリックは別物です。しかし、貴女の意を、瞳を信じて、頼らせてもらうとしましょう。その貴女が信じているであろう、そこの少女も含めて』
神父は半身を取って、二人を少年の方へ行くように促した。
『どうか、苦しむ少年を助けてあげてください』
その声を背中に受け、夏夜は少年の前に、鈴奈は少年の後ろについた。
『誰だ……貴様達は誰だ!』
悪魔の重低。
鈴奈はシスターに少年から手を離させると、夏夜は太もものカードホルスターから呪符を取り出し、
「オン・ビシビシ・カラカラ・シバリ・ソワカ」
不動金縛りの真言を唱える。呪符は夏夜の手元を離れ、暴れ出そうとした少年の額に貼り付いた。
文字通り、金縛りの術。
『グッ……ォォ』
少年──悪魔は動きを硬直させ、言葉すら紡げなくなる。
「ふむ、この感じ……魔物の類で間違いはないようです」
「うん。神父様の悪魔祓いを見る限り、聖なるモノには耐性がなかったっぽいし……」
鈴奈は魔力を練り上げ、光属性の魔力へ変換していく。
聖なるモノ──なら光の魔力は最高に効果覿面かもしれない。
少年の肩に手を添え、魔力耐性のない少年の精神を傷付けないように、慎重に光の魔力を流し込んでいく。
──効果はすぐに現れた。
『グッ……ガッ……ォォ……オオ!』
明らかに苦しみ始めている。
何を思ったのか、鈴奈は金縛りを解いてと夏夜に頼んだ。考えがあっての事だと察し、夏夜は呪符を剥がした。
『ォォオオ! ヤメろ! 貴様ッ……ォォ──貴様、──か!』
──今、この悪魔は私を何だと言ったの……?
確かに鈴奈を何かに例えたが、それは聞き取ることができなかった。
『グォ……ググ……イイダロウ……ククク……クハハハハハ‼︎』
聞き取れなかった言葉を聞き返そうとしたが、抵抗をやめた少年の中の悪魔は気味の悪い高笑いを残して、その存在が霧散していくのを鈴奈は感じ、少年から手を離した。
椅子から床に崩れ落ちそうになる少年の身体を夏夜が支え、
『少年の内に巣食っていた悪魔は消滅しました。悪魔祓い完了です』
☆☆☆☆
『なるほど、それでは貴女達は、ドイツ軍の情報が少しでも欲しいと?』
悪魔祓いを無事終えた少女達は、感謝を述べて止まない少年の家族からようやく解放されると、三人のシスターが付き添って帰宅の路につく家族を見送り、教会内で神父に本題を切り出していた。
『はい。事情は言えませんが……』
『そうですねぇ。事情も何も、貴女達には私の方が聞きたい事が山ほどだ。ですが、それも答える事はできないのでしょう?』
『すみません』
神父は二人の少女を交互に見やり、顎に摩って考える仕草を取った。
暫くして、
『いいでしょう。何方にせよ、貴女達には私では助けることが叶わなかったであろう少年を助けて頂いた。それ以外の見た、聞いた事はスッキリ忘れることと致します』
神父はにっこり笑うと、
『して、ドイツ軍でしたか』
少女二人は同時に頷く。
『私もさほど詳しくはないのですがね。ですが、各地の教会を点々とする身。それだけ人とは多く関わっていますし、その数に比例する様々な事を知っていることは自負しています。貴女達の求める、ドイツ軍に関する情報も、伝え聞いた話ではありますが知っていることもありますよ』
神父は会衆席を立ち、教会中央奥に飾られた大きな十字架を見上げる。
『随分昔の事なのですが、アドルフ・ヒトラーをご存知で?』
アドルフ・ヒトラー。かつてドイツで国家元首を務め、独裁者の典型となった有名な人物だ。
『外』の歴史勉強に疎い天宮島の超能力者ならまだしも、こちらの世界で生きている鈴奈や夏夜には、必ず一度は耳にした事がある。
『ヒトラーは後世に語られる程の独裁者でした。まぁ良い意味ではありませんがね。そんな彼は、政権獲得以前より、彼個人の護衛として部隊を編成していましてね。ヒトラーが政権獲得後、それは徐々に拡大していき、生まれたのがSS装甲師団という武装部隊です』
SS装甲師団。それは彼女らにも聞き覚えはあった。
ナチス・ドイツ時代の、国家軍隊ではなく、政権を奪取したナチ党もしくはヒトラー個人の私兵だったか。
『SS師団の詳しい……というか、ややこしい部分は長くなるので省力しますがね、全38のSS装甲師団は極めて強力な武装部隊でした。第二次世界大戦では東部、西部戦線で活躍を見せました。ですが、終戦時に当時のアメリカ軍に降伏し、SS装甲師団は廃止。アメリカは第二次の勝利国ですからね』
と、ここまでは過去の話です、と神父の話は現代へ──現在のドイツ軍の話へ移った。
『あくまで、伝え聞いた話なのですがね、現在のドイツ軍には第二のヒトラーなる人物が国家元首の裏に潜んでいるらしいのです。その、ツヴァイ・ヒトラーとでもいいましょうか。彼はこの現代において、全38のSS装甲師団を再編成し、ドイツ軍の主戦力として機能させているようなのです』
☆☆☆☆
『ありがとうございました、神父様』
鈴奈がお礼述べ、夏夜は深々とお辞儀をし、二人は教会を後にした。
得た情報は大きいだろう。
第二のヒトラー。国家元首を裏から操るその人物こそが、おそらくドイツに潜む異能崩れで間違いはないだろう。
SS装甲師団を再編成してみせるほどの影響力を持っているのならば──そんなものを再編成したということは、つまりは戦争を望んでいる。
全38のSS装甲師団。見分け方は、SS軍装──通称『黒服』と呼ばれる黒い軍装に、左腕につけた赤い腕章。腕章には鉤十字が描かれているらしい。
国防軍よりSS装甲師団の方が間違いなく厄介だと考えるべきだろう。
そしてもう一つ、神父は"警戒すべき再編成された部隊"について話していた。
SS装甲師団と共に再編成された移動虐殺部隊、アインザッツグルッペン。
かつては敵性分子を銃殺、あるいはガス殺する部隊だったそうで、味方であろうと敵性分子なら問答無用で虐殺したと言われているらしい。
ゆえに虐殺部隊。真に厄介なのは此方かもしれないが、やりようによっては利用できるかもしれませんよ。そう神父は笑っていた。
警戒すべき。神父は気付いていたのだろう。この少女達が"戦争に喧嘩を吹っ掛けに行く事"を。
「全く……あんな食えない神父は初めて見たわよ……」
「なんというか、なんでしょうね」
背中に神父が見送って手を振っているのを感じながら、二人の少女は"情報収集に奮闘しているであろう少年"の元へ戻ることにした。
☆☆☆☆
東洋人の少女二人の背中を見送った金髪の神父は、教会に戻って中央奥の十字架を見上げた。
──些か、芝居が過ぎましたか。
それでも勘繰られる事はなかったでしょうがね、と苦笑しつつ、
『しかしながら、世界の声というのは怖いものですね。どうやら私は"枠組み"から外れているようですが』
金砂の前髪を掻き上げ、"かつて自分自身が関わっていた親衛隊"を想起しながら、神父は憂いの表情を浮かべる。
『彼女達──いえ、彼達が世界を暴いてくれる。本当にそう上手くいくのでしょうか。……上手くいって貰わなければ困りますがね。私が"時を経てこの世界に蘇った"原因、それがどういったものなのか』
──あぁ、神よ。どうか彼達を導きたまえ。
胸の前で十字を切る神父。
『勝利万歳。勝利の女神』
ジークハイル。
ジークハイル。
ジークハイル・ヴィクトーリア。
──かつて何度も口にした軍歌。
──かつて神父が"ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ"として、ドイツで名を馳せた時代に幾度となく口にした軍歌。
──そして今は、ただの神父として……神父は謳う。
──己がこの世界に蘇った意味。
彼らが示してくれる事を願って。
勝利を願って。あぁ女神よ。
──ジークハイル・ヴィクトーリア。
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