『多重世界』
木葉詠真は『能力暴走事件』直後から三日三晩、寝ずに島中を駆け回っていた。事情がどうあれ、学校を無断欠席していたことになる。だが学校側は、テスト期間中の無断欠席であるにも関わらず詠真の元に連絡を入れていなかった。
詠真が三日ぶりに学園へ登校すると、昇降口ですれ違った教師から学園長室へ行くようにと指示を受けた。
──無断欠席のお咎めか。
それも仕方のないことだろうと思い、学園長室へ向かうと、まず言い渡されたのが休学届けの申請の有無だった。前代未聞の『事故』によって唯一の家族を失った木葉詠真への配慮だ。
学園側が事情を知っていたことに驚きはしたが、詠真は休学届けの申請を出さないことを伝えた。
「いつまでも俯いてちゃダメなんで」
教室へ入るや否や、クラスメイトから心配や同情の声がかけられた。しかしそれに不満や憤りを感じることはなく、笑顔を作って対処した。
席に着くのと同じくして金髪のクラスメイト・未剣輝が登校してくる。
輝は教室の中に詠真の姿があることを知ると、一目散に駆けつけてきた。
「詠真、お前あの後……」
「……あぁ、でも気にするなって。お前には紹介できなかったけどな」
「でもよーー」
朝の予鈴が言葉を遮る。
詠真は言い聞かせるように言う。
「輝、大丈夫だから」
「ほらー、席つけー」
担任の男性教師が出席簿を振りながら教室へ入ってくると、チラッと詠真へ視線を運んだ。
詠真は軽く頷く。
──俺の話には触れなくていい。
それを汲み取った担任は、何事もなかったかのように出席簿を取り始めた。
「休みはいないな。さて、突然だが転入生を紹介する。ちなみに美少女だ」
うおぉー、と男子から声があがる。
詠真は特に反応を示さない。すでに知っているからだ。
「舞川、入ってこい」
教室のドアに全員の視線が集中する。
静かにドアが開放され転入生が姿を現した。
──やべぇ。
誰かが呟いた。
それは恐らく容姿に対してだろう。
長く美しい透き通る様な青髪に、翡翠の如く高貴な輝き放つ切れ長の碧眼。小さな顔にスッと通った鼻筋、小ぶりで潤いのある唇。百六十センチ後半はあるであろう長身に、すらっと伸びる長い脚。その流麗な佇まいは一流トップモデルを彷彿とさせる。
転入生の少女は教卓の前に立つと、スカートの裾を摘まみ左足を一歩引いて、礼儀正しくお辞儀をした。
「初めまして。今日からこのクラスでお世話になる、舞川鈴奈と言います。よろしくお願いしますね」
☆☆☆☆
昼休み。
「舞川さんってすごい美人だよね!」
「しかも可愛いし!」
「お昼一緒に食べようよ!」
舞川鈴奈の元には、鼻の下を伸ばした男子生徒でごった返していた。
「ふふっ、褒めて頂いて嬉しいです。ですが、お昼はすでに先約ががありまして……ですよね?」
男子生徒達は鈴奈の視線を辿る。
その先にいたのは、
「「「木葉ァ!!?」」」
「うぇ!?」
ひっそり教室を出ようとしていた詠真は、突然自分の名前を叫ばれ体がビクッと跳ねる。
「はい!私は詠真君とお昼を食べる約束していますので。皆さんまた後ほど」
鈴奈はカバンを持つと、満面の笑顔で詠真に近寄っていく。
「な、なんだよ」
「屋上に行きましょ詠真君」
「は!?ちょ、おまっ!」
腕を引っ張られ強引に連れて行かれる詠真を、男子生徒は羨ましそうな瞳で、かつ刺すような視線で睨みつけていた。
☆☆☆☆
「ったく、何の真似だよ」
詠真がパンを片手に呟いた。
その隣で、美少女転入生舞川鈴奈がペタリと座り込んで弁当をつついている。
「女の子が困ってるんだから、助けてくれて当然でしょ」
「助けた覚えは何一つないけどな……」
「第一、君はあんなに人がいる所で"話"ができると思ってるの?」
詠真はボリボリと頭を掻くと、
「まぁ……それは確かに」
──そうだよな。
とパンにかぶりつく。
木葉詠真と舞川鈴奈。この二人は今日が初対面ではない。
それはつい昨日のこと。二人は協力関係を結んでいた。
天宮島不法侵入、及び『能力暴走事件』への関与が疑われる魔法使いの捕縛。聖皇国ルーンからの派遣されてきた魔法使い舞川鈴奈が受け持ったその任務に、天宮島の超能力者木葉詠真が協力するというものだ。
「で、どう捜査を始めんだよ」
食べ終えたパンの袋をビニール袋に詰めながら詠真が聞く。
「とりあえず事件現場を見に行くわ。魔法使いが関与しているのなら、魔力が残留している可能性もあるしね」
「魔力?」
「魔法使いが魔法を使うために消費するエネルギーのことよ。まぁその辺りのことは専門的になるから説明は省くけど、魔力が残留していれば魔法使いが関与していることが確定するわ」
それに、と鈴奈は続ける。
「残留魔力が濃ければ、相手がどういった魔法使いなのか絞れてくる。そうすれば戦闘になっても予め手を打てるってわけ。ごちそうさま」
鈴奈は弁当を片付けると、カバンの中から何枚かのA4用紙を取り出した。
「次に、事件現場となった学校に勤めていた研究者の調査。魔法使いが能力暴走を誘発したことは間違いない。でも、意味もなく能力暴走を引き起こしたとも思えないのよね」
「と言うと?」
「私の見立てでは、魔法使いも研究者の端くれで、自分と同じ分野を研究している人間が天宮島にいることを知り、侵入した。理由は色々考えられるけど、恐らくは研究成果の奪取。魔法の側面だけではなく、超能力の側面からの研究成果を欲したんでしょう」
「それがなんで能力暴走に?」
「そこも色々考えられるわ。でも、暴走させることによって得られるモノもあると思うのよ。その分、失うモノも大きいけどね」
「まさか……自分の私利私欲のためだけに、あれほどの被害が起きることを知った上で能力暴走を引き起こしたってのか……」
人の命よりも自分の欲を優先した。
その典型的な外道のやり方に、詠真は憤りを隠せない。
「同じ魔法使いとしては、そうあって欲しくはないけどね……」
鈴奈も憤りを感じてはいるものの、どこか悲しい表情を浮かべている。
詠真は一呼吸置くと、鈴奈が取り出した数枚のA4用紙を指して言う。
「でもその線が濃厚だからこその調査なんだろ?」
「えぇ。事件当時、どういった能力が暴走させられたのか、それを研究対象としていた研究者は誰なのか、そこをハッキリさせることで魔法使いのやらんとしていることも見えてくるかもしれない」
鈴奈は数枚のA4用紙を詠真に渡す。
「まぁ当人達から直接聞くことは既に不可能だから家宅を調べさせてもらう感じね。すでに住所は分かってるし」
そこには話に出た研究者であろう数人の顔写真とプロフィールが書いてある。
「だから学園が終わり次第、現場調査と彼らの家宅調査。三徹の疲れがまだ抜けてないとは思うけど、協力関係を結んだ以上は付き合ってもらうわよ」
「心配は無用だよ。どちらにしろゆっくりなんてしてらんねぇだろ」
「そうね、次なる被害だけはなんとしても防がないと……」
☆☆☆☆
昼休みの作戦会議に学園の授業。そこから通して分かったのは、舞川鈴奈は非常に優秀な完璧超人だということだ。
頭脳明晰、容姿端麗、運動神経抜群。
多少ウザい所はあるが、聖皇国ルーンの聖皇様とやらに単独で任務を任されるのも納得できる。
自分の協力など必要ないのではないか、そう思ってしまう。まぁ必要ないと言われても、詠真は勝手に関わらさせてもらうつもりだが。
「何をぼーっとしているの?」
机に肘をつき窓からグラウンドを眺めていた詠真は、周りの視線を一切気にせず話しかけてくる演技派美少女を軽く睨むとため息を吐く。
「……何もねぇよ」
「やだ詠真君……そんな見つめないで……」
胸に手を当てもじもじする鈴奈。
その虫酸が走るくらいのあざとい反応に、詠真の引きつった頬がピクピクと痙攣する。
──こいつは一体何がしたいんだ。
二人で居る時は名前すら呼ばない奴が、公衆の面前では詠真君詠真君詠真君と連呼し、周りに恋人かなんかと勘違いされるほどの接し方をしてくる。
何が楽しいのやら分からない。
「……はやく、帰りましょ?」
「…………、」
詠真は無言で帰り支度をし教室を出る。
なぜか腕に抱きついてきた鈴奈をガン無視をするが、後ろから聞こえてくる女子の黄色い声と男子鋭い視線がグサグサと体を刺し貫いていく。
明日には学校全体に噂が広まっていることだろう。
──あぁ、憂鬱だ。
そう心の中で嘆きながら昇降口を出た辺りで、自分のことを呼び止める友の声が聞こえてきた。
「詠真!」
「……輝?」
輝は複雑な表情を浮かべている。
さすがに空気を読んだ鈴奈が「早めにね」と言って場を外した。
「詠真、お前あの子どういう関係なんだよ」
輝がキッと睨んで詰め寄ってくる。
その真剣な顔から、彼が冗談や嫉妬で物を言ってないことが分かる。
だがあえて。
「なんだ、輝は舞川に惚れたのか?」
「そういうことじゃねぇ!」
──だと思ったよ。
親友の想いに嬉しさを感じた。だがそれを顔には出さない。
「お前、妹ちゃんを失った直後から何女に溺れてんだよ……恥ずかしくねぇのかよ‼︎」
大声で怒鳴る輝に胸ぐらを掴み上げられるが、詠真はされるがまま反抗しない。
周囲がざわつき、視線が二人に集中。だが止めようとする者はいない。
「三日間ずっと心配してたんだぞ! それを……こんなことのためにテメェは」
詠真は輝の目を真っ直ぐ見る。
「……俺が、俺が英奈のことをすっぽかして色恋沙汰に現を抜かすと、お前はマジで思ってんのか」
「……ッ!」
「俺はこれまで何があっても英奈のことを最優先に考え、生きてきた。それは今も同じだ。……英奈のために、俺は舞川とつるんでる」
「……は? どういう……ことだよ」
「……今は、言えない」
無言のまま二人は視線を交わす。
やがて、輝は手を離した。
「その顔……『一年前のあの時』と同じだな。また厄介ごとに首突っ込んだのかよ……」
「……あぁ」
「言えないん……だよな」
「……あぁ」
──英奈を失った能力暴走事故は実は事件で、それを解決するために島外からやってきた魔法使いを協力関係を結んだ。
──なんて言えるわけないだろ。
「でも、いつか話すよ。『一年前のあの時』の事も一緒に」
「詠真……」
輝は手で顔を覆って天を仰いだ。
大きく深呼吸をすると、力強い瞳を親友に向け拳を突き出した。
「力になれることがあったら遠慮なく言ってくれ。一億ボルトの電撃がお前を助けてやっから」
詠真は輝の拳に自分の拳を突き合わす。
「サンキュー、輝」
ニカッと笑う親友の笑顔に背を向け、詠真は歩き出した。
気持ちは──切り替えた。
「青春だねぇ」
校門に背を預けて待っていた鈴奈がボソッと呟いた。
それを聞き逃さなかった詠真が嫌味っぽく言う。
「誰かさんの所為でな」
「誰かさんのおかげ、の間違いでなくて?」
その後言葉を交わさず無言で歩く二人は、学園から少し離れた人気のない所まで来ると足を止めた。
詠真が問う。
「飛べるか?」
「うーん、お姫様抱っこで連れて行ってくれても良いのよ?」
相も変わらず揶揄う様に冗談を言い放つ鈴奈だったが、
「分かった」
「……ふぇ? ちょ、待──」
詠真は躊躇なく鈴奈を抱きかかえる。
「〜〜ッ!」
リンゴの如く真っ赤に染まった顔を両手で隠すその姿は、さながら王子様に抱きかかえられたお姫様だ。
「お姫様抱っこだからって、そこまで演技派女優しなくても」
「う、うるさい!早く行け!」
「な、なんだよいきなり……ったく、じゃ捕まってろよ」
鈴奈は躊躇しながらも、詠真の首に両手を回した。
──か、顔が近い。
詠真は未だに演技だと思っているが、鈴奈は本気で照れていた。
「いくぞ」
スーッと詠真の瞳が緑に染まる。『四大元素』第四の力『風』の発動。
空気が震え、風が巻き起こる。鈴奈のスカートが翻るが、掴まっているため抑えることはできない。
「見たら怒るわよ!」
「なんのッ──」
風を利用して空高く跳躍。
上空200メートルほどまで舞い上がった所で、詠真は背中に四つの小さな竜巻を発生させ滞空。
態勢が安定した所で、
「ことか分かんねぇなぁ──水・色」
これまでのお返しとばかりに、えげつないほどニンマリとした笑顔を浮かべた詠真は、視界に映る布の色を明確に言葉に出した。
「う、うら若き乙女の下着を君って人は……本当に最低よ‼︎」
☆☆☆★
天宮島を構成するのは五、基の超大型浮体式構造物とそれらを繋ぐゲートだ。
それらを更に細かく分類し、天宮島は全十七区に分けられている。その内、第三、四、五、六、七の五つが学校や学生寮が密集する学生区になっている。
詠真達の通う柊学園は第四区、現在は巨大なクレーターと化してしまった如月中学校跡は第三区に位置する。
陸海ではなく、空を使って移動している彼らは、第三区にできた痛々しい爪痕を静かに睥睨していた。
「文面では知っていたけど、直接見ると悪い意味で言葉が出ないわね……。『一定空間内の全物質の消失』だっけ」
「あぁ。爆発したわけでもなし、何かに破壊されたわけでもない。ここにあった物は全て、俺の目の前で『消失』した」
「よく巻き込まれなかったわね」
「事が起きる直前、"死"の危険を全身で感じ取ったんだ。それほどのプレッシャーを放っていたよ」
脳裏に焼き付けられたあの光景が詠真の心拍数を上昇させ、全身を震わせる。
ここにいるとまたあの"黒いドーム"が現れるんじゃないか。
そんな恐怖が体を縛る。
「君の反応からどれほどの事が起こり得たのかがよく分かるわ。一つ乗り越えるって事で、下に降りてみましょう」
クレーターの中心部に降下した詠真は、抱えていた少女を降ろし能力を解除。瞳の色が黒に戻る。
鈴奈はポンポンとスカートを叩くと、その場で一度軽く足踏みをした。
すると足元に奇怪な文字が並んだ青い光を放つ円が浮かび上がった。
「うおッ!?」
「これは魔法陣。簡単に言えば、魔法の設計図って所かしら。この設計図を元に魔力で骨と肉をつけ、詠唱で具象化させる。それが魔法よ」
「ほへぇ〜。で、これはどんな魔法の設計図なんだ?」
「どれだけ微細な残留魔力であろうと拾い上げる魔法よ」
鈴奈は目を閉じると、詠唱を唱えた。
「『一雫も逃すな』」
詠真は僅かな波動のようなものが体を突き抜けていくのを感じた。
──超能力とは全く違う感覚だ。
ほんの数秒程で鈴奈は目を開け、フッと小さく息を吐いた。魔法陣が消えたところを見ると、どうやら結果が出たようだ。
「微細ながら残留魔力があったわ。魔法使いが関与しているのは確定ね。でもそれ以上のことは分からない。あ、でも」
「でも?」
「痕跡の消し方から見て相手は私と同等、最悪それ以上に強力な魔法使いかもしれないわね」
「うーん……それは、戦闘になれば負けるかもしれないってことか?」
唐突に鈴奈が詠真の脛を蹴り飛ばした。
キッと睨むと、
「負けるわけないでしょ」
「その自信は何処から沸いてくんだよ……てかいきなり蹴んな痛ェな」
「まぁ何れ分かるわよ。ほら痛がってないでさっさと次の所行くわよ」
しゃがみこみ涙目で脛を摩る詠真の心の中に一つの大きな不安が芽生えていた。
(俺、囮にされたりしないよな……?)
☆☆☆☆
高層ビルの屋上に立つ銀髪の男は、片眼鏡越しに地上を見下ろしている。
夜の闇、そして100mの落差。
その条件下であっても、銀髪の男は下に望む人間をはっきりと視認していた。
ビル内に入っていく若い男女を眺めながら、こう呟いた。
「予測通りだよ、聖皇女神」
☆☆☆☆
「さて、ここが最後ね」
第九区の一角に聳える高層ビルを見上げて舞川鈴奈が呟いた。
すでに日は落ち、辺りは夜の帳に包まれている。
彼女の隣に木葉詠真の姿はない──と思いきや、暗闇から缶ジュースを二本持った少年が姿を現した。
「ほらよ」
「ち、ちょっと、炭酸飲料なんだから投げないでよ馬鹿なの? ……ありがと」
鈴奈は投げられた缶ジュースをしっかりキャッチすると、悪態を吐きながらも小声でお礼を言いプルタブを開ける。
渇いた喉に冷んやりとした刺激的な甘い液体を流し込み、嚥下する。
一方、甘い物が苦手なためお茶を飲んでいる詠真はエントランス前にある花壇のふちに腰を下ろした。
「如月中学校に勤めていた教師兼研究員は全部で十人。その内九人の家を洗いざらい調べた結果、特に有力であると思われる資料はなし。と言うことは」
「最後の一人が大当たり。早速乗り込みましょう、これあげるわ」
鈴奈はまだ半分以上残っている缶ジュースを詠真に押し付けると、一人でさっさとマンションに入っていってしまう。
「あげるって言われてもなぁ……」
甘い物が苦手、という問題ではない。飲みかけであることが問題なのだ。
──これは、間接キス。
「ほああああ‼︎ 何を考えてんだよ俺は! ……ったく、これはもったないからだそういうことなんだ!」
自分に言い聞かせるように叫ぶと、炭酸飲料、お茶の順に一気に飲み干し近くにあったゴミ箱に缶を捨てる。
これはカウントしないこれはカウントしない、とブツブツ言いながらマイペース姫の後を追いかけた。
「君は何をブツブツ言ってるの?」
「知らん! はやく開けろ!」
「??」
よく分からないといった風に首を傾げた鈴奈だが、グッと顔を引き締めるとオートロックパネルに手を触れた。
一瞬、バチィっと火花が散ったと思うと、呆気なくオートロックは解除される。
雷系魔法によるちょっとしたハッキングだと鈴奈は主張しており、前の九件もこの魔法のお世話になっていた。
詠真が防犯カメラをチラッと覗き、心の中で手を合わせる。
(許せ、管理会社……)
二人はエレベーターで九階に移動。
905号室の扉の前で立ち止まった。
ネームプレートには、"四十万"という名前が書かれている。
鈴奈がカバンから顔写真付きの紙を取り出し、名前を照合する。
「『四十万十吏』。ここで間違いないわ」
そう言うと鍵穴に手を触れる。
電子錠ではないため雷系魔法のハッキングは使えない。そこで使用するのが、鈴奈が最も得意とする氷系魔法である。鍵穴の中に氷を作り出し、擬似的な合鍵を生成するのだ。
ガチャッと、またも呆気なく開く扉。
周囲にマンションの住人の気配がないことを確認すると、部屋に侵入した。
「生活感がないわね」
鈴奈の言う通り、家具などは最低限の物しかなくとても片付いている。
少し埃が被っているところをみると、長い間使われていないのだろうか。
「まぁいいわ。どちらにしろここが最後な訳だし、何としても何かを見つけ出さないとね」
「そうだな」
二人は手分けして探索に入った。
詠真がまず来たのは書斎だ。何かあるなら間違いなくここだろう。
本棚にズラッと並ぶ専門書は一つ一つ見ていくには苦労すぎる。
何か、何かないかと隅々を探っていると、本棚の下に紙が挟まっているのを発見した。それを手にとって見ると、書きかけの論文のようだった。
文頭にはこう書かれていた。
「『多重世界説』……?」
そのまま読み進めていくと、次第に詠真の目が大きく見開かれていく。
驚愕、ではない。唖然、でもない。
しかしそこに記されていた内容には、言葉を失わざるを得なかった。
☆☆☆☆
「『多重世界説』ねぇ……」
詠真が見つけた書きかけの論文を一通り読み終えた鈴奈が目を細めて言う。
「つまりこの四十万十吏って研究者はこう言いたいわけね。『超能力と呼ばれる力は、別位相空間に存在すると思われる"異世界"より齎されたものである。つまり、世界は一つではない。私はこれを、多重世界説と呼ぶ』と……」
これは実に途方もない話だ。
世界が、この世界以外にも存在する。それはつまり、『異世界』。
"超能力"なんて力が存在している以上、"異能力"と言うものが他に存在してもおかしくはない。
現に"魔法"や"呪術"が存在する。
しかし、世界が丸々一つだ。いくらなんでも御伽噺すぎる。
詠真は軽く頷くと、書斎の机に別のファイルを広げた。
「これは如月中学校の全生徒のプロフィールリストだ。学校に勤めている者なら持っていても不思議じゃないんだが……ここを見てくれ」
鈴奈は示されたページを覗き込む。
髪をツインテールに結った天真爛漫さが伝わってくる元気な少女の写真と生徒プロフィール。
特に変わったところは──、
「これは何かしら?」
それは写真につけられた赤丸だ。
他の生徒にはなく、この少女だけに赤丸がつけられていた。
「簡単なことだ。四十万にとってこの子は、重要な超能力者だったんだ」
「その心は?」
「……この少女、『霧島未愛』の超能力は『空間転移』と記されている。そして四十万が唱えていたのは『異世界』が存在するという『多重世界説』だ」
詠真は一呼吸置いて、
「俺ならこう考える。『空間転移』の力を使えば──"別位相空間への転移"が可能なんじゃないかってな」
更にもう一つ。
それを確信させる出来事があった。
「もし『空間転移』の能力が暴走したのだとすれば、『一定空間内の全物質の消失』にも納得がいく。ただ解釈は変わる。あれは"消失"ではなく、『一定空間内の全物質の転移』だったんだ」
納得がいく。納得をしたい。そうであってほしい。
"消失"ではなく"転移"ならば、今も何処かで英奈が生きているかもしれないからだ。
確信と、願い。見えた一筋の細い光。
鈴奈はニヤリと口角をあげた。
「魔法には出来ないことが幾つかあるってのは昨日言ったと思うけど、その一つが"物質の転移"なの。もし件の魔法使いが四十万十吏と同じ『多重世界説』を唱えていたのなら、『空間転移』のデータを欲してもおかしくない。──暴走させることで得た膨大なデータを術式に変換し、魔法を組み上げることだって不可能じゃないんだから」
つまり、と鈴奈は続ける。
「魔法使いの目的は『転移魔法』の構築、及び『異世界』への転移。……ふーん、そういうことねぇ」
一人で頷き納得する鈴奈に詠真は尋ねる。
「そういうことって?」
「超能力と魔法は別物であるからして、『空間転移』のデータだけでは完璧な術式を構築できないと私は見た。それに魔法を術式から組み上げるには相当な技量が必要だし、膨大な科学的データからとなると読み取るだけで時間がかかる」
そこで、と鈴奈の眼つきが鋭くなる。
「私ならこうする。完璧な術式に必要な別の超能力の暴走を誘発させデータを追加。それらを素早く読み取るために、思考加速能力者の精神を魔法で操り利用する」
鈴奈は書きかけの論文をファイルの上に叩きつけ、静かな怒りを込めて言う。
「事件発生からすでに四日が経過している。──今に次なる被害者が出てもおかしくないわ」