『訪れる卿・虎の決意』
「おっせぇ……」
かれこれ二十分ほど自宅の外で待たされている詠真は、腕を組み指で小刻みに二の腕を叩きながら、嘆息混じりに呟いた。
今日はこれから、輝、花織、美沙音、ウィルのいつもメンバーと祈竜祭を回る予定なのだが、もう一人のメンバーが用意にたいそう時間をかけていた。
舞川鈴奈だ。
どうして彼女が二十分も詠真を待たせているのかと言うと、ぶっちゃけた話、着ていく服に迷っているのだ。
基本的に、祈竜祭を回る学生は学校の制服を着用している者が大半だ。義務付けられてる訳ではないが、暗黙のルール──とまでは言わないにしても、その様な空気がある。殊更祈竜舞踏演で上位に食い込む学校の生徒ならば、誇示したいという理由から制服を好む傾向がある。
ならば何故、鈴奈は服選びに時間をかけているのか。
言ってしまえば、注目を浴びないためだ。
柊学園は天宮島で唯一、男女共に純白の制服を採用している学校であり、祈竜舞踏演において"三王"と称されるエリート校の一つだ。制服一つ取っても、知らぬ者は居ない超有名高校。
昨日にしても、制服を着て祈竜祭を練り歩いていた詠真と輝は注目を浴び──詠真の知名度が注目にブーストをかけた──あのままでは囲まれてしまう寸前だった。
それを教訓とし、今日は全員私服で祈竜祭を回ろう! という輝の提案により待ち時間二十分が発生した訳である。
早々に私服チェンジした詠真の装いは、プリントカットソーに黒無地のパーカー、カジュアル系のパンツ。最近は制服での活動が多かったためか、少し違和感を感じる。
PDA端末で時間を確認し、集合時間まであと十分。これは遅刻だな。
そう、ため息を吐きかけた時、ガチャと勢い良く扉が開放された。やっとですかお姫様……。
詠真がそちらに視線を向けると、ウィンクするように片目を閉じた鈴奈が、顔の前で両手を合わせていた。
「ご、ごめん! 色々悩んじゃって……」
両肩に小さなリボンがついた長袖の黒セーター、ベージュのレースショートパンツに黒タイツを履き、急いだ所為か頬がほんのり赤みを帯びている。
どうやら待たせた事を申し訳なく思っている──それが当然──ようで、鈴奈がペコペコと頭を下げる珍しい光景だ。
──可愛いな……。
思わず見惚れてしまった詠真は、ハッ! と我に返ると、「別にそんな待ってないから気にすんな」とありきたりなセリフを平常心を取り繕って放ち、
「んじゃ行くか」
「あ、待って」
鈴奈は片手に持った小さなバックから鍵を取り出して施錠。完全に木葉宅を我が物とした少女は、美しく染まりだした紅葉のような頬で明るく笑い、先刻ペコペコしていた謝罪心は何処へやらと言った様子で、詠真の腕を引っ張って行った。
☆☆☆☆
聞けば鈴奈は、当初は興味無かったが、街の様子を見てみると結構楽しそうで、自分も祭が楽しみになってきたらしく、なんだかんだで一番お祭り気分なのは鈴奈だったりする。
花織と美沙音をあっちへこっちへと連れ回し、なんとも微笑ましい光景に詠真の頬が幸せそうに緩む。
ずっとこんな日々が続けばいいのに……なんて思うこともある。でもそれじゃダメな事も分かっている。
──今くらい、いいよな。
鈴奈が笑ってる今くらい、難しい事は忘れてもいいよな。
「気持ち悪い顔しやがって」
「……うるせー」
輝から見れば、詠真と鈴奈はお付き合いをしているカップルにしか見えない。それでも付き合ってないと詠真が言い張る分にはそうなんだろうが、だとすれば余計に甘酸っぱいなぁと、見ているこっちまでドキドキしてしまう。
チラリと、詠真と鈴奈を一瞥した輝は、どうしたものか考える。
二人の恋にどう助力したものか。むしろ、不用意に触るよりも見守る方が二人の為だろうか。如何せん、二人の関係についてはよく知る所じゃない。知りたいとは思うが、無理に聞き出す事でもないと理解している。
故に、力添えしにくい。
しかしまぁ、詠真の幸せそうな顔を見る限り、このまま見守る方が最善かな。
輝は親友に抜け駆けされた悲しみと悔しさ、ほんの少しの嬉しさを味わいながら、その視線は真っ直ぐ一人の少女へ。
黒髪を右側で束ねたサイドテールの童顔の少女、雨楯花織。輝が密かに恋慕を抱く想い人だ。
だが輝は知っている。花織が恋情を抱く相手は──隣に立つ憎たらしい親友である事を。
思わず笑ってしまう。
──勝てるわけねぇっての。
純粋な力にしても、男としても。詠真の事をモテモテで憎たらしいと思いながらも、それを裏付ける人柄と、魅せる力があることも理解していた。
中学一年からずっと一緒にいた分、親友の事はよーく分かってる。それに劣等感を抱いた事もあるし、ぶつかった事もしばしば。それでもこうして親友やってる辺り、詠真は本当の親友なんだって、輝は誇らしくも思う。
──でも、でもよ、詠真。
輝は親友の肩を拳で小突いた。
「今年の祈竜戦は、お前を倒して格好つけさせてもらうぜ」
「……? まぁ手加減はしないぞ?」
「たりめぇだボケ」
祈竜祭の次祭、祈竜舞踏演。既に学園で競技参加者が決定しており、出場者に選ばれた輝は、詠真と同じ祈竜戦に出場する事が決まっている。
同じ学園と言えど、トーナメントで当たれば敵同士。どちらが勝っても結果は同じだが、無論負けたくなどない。
輝は決意していた。祈竜舞踏演で優勝し、壇上で──告白するんだ。飾り気も独創性もないけど、真っ直ぐな言葉で、花織! 俺はお前の事が好きだ! って、想いを告げるんだ。
そのために、最強の相手であり最強の恋敵を倒さなければ。目標ができれば、俄然燃えて来る。
「っしゃ! やってやるぜ!」
天に拳を突き上げ大声で叫んだ輝は、うおおおお! と雄叫びをあげて女子集団に駆けて行く。
「……ったく、花織の事が好きなのに英奈を紹介しろ紹介しろうるせっつの」
詠真は当然のように、輝の恋事情を把握──花織の恋慕対象が自分であり、輝がそれを悔しく思ってる事は全く持って気付いてない──していた。というよりも、あいつは分かり易い。
「なんだか燃えてましたね、輝君」
「ウィルもちょっとは燃えた方がいいんじゃねえか?」
「えぇ⁉︎ 僕はそんな……」
アハハ……と苦笑をもらすウィルの視線は、ほぼ無意識にとある少女へ吸い込まれていた。
軽くウェーブのかかった紫髪のおっとりとした癒し系かつ変態系かつ残念系美少女、梓昏美沙音。例によって、ウィルの恋する少女である。
──なんかなぁ。
詠真はふふっと小さく笑った。
ものの見事に分かれたもんだ。この調子だと、恋で争う事もなさそうだな。
ここで女子達の気持ちを考えなかった辺り、彼はある種のにぶちん男子ということだろう。
目の前に咲く氷薔薇しか見えていない詠真は、ウィルの背中をバチーン! と叩いて無邪気に笑うと、叫びながら走ってきた不審者を蹴り飛ばした鈴奈達の元へ歩いていく。
☆☆☆☆
天宮島の海の入り口である第十七区の港に、クルーズ客船が停泊した。これは『外』の世界から保護された超能力者を島へ招くための客船だ。
『外』の世界は超能力者を強く嫌うため、持っていくなら持っていってくれ! と超能力者輸送用の客船のみなら港に停泊させる許可を出してくれるのだ。
世界の国々の至る所に客船は停泊しており、一日に二船ほどのペースで天宮島に帰ってくる。毎回の超能力者の保護人数は決して多くはないが、日々順調に超能力者達は楽園へと足を踏み入れていた。
「ここが、天宮島か」
一人の少年が呟いた。ペタンとしたサラサラの黒髪は耳にかかる程度の長さで、優しげな目に顔立ちをしている。およそ十六、七くらいの年齢だろうか。保護されるにしては少し遅め──ではなかった。
そもそも、彼は"保護された超能力者"などではなかった。
路頭に迷って死ぬ思いで日々を暮らしている子供が、汚れ一つない純白のコートなんて着ているだろうか? 間違いなく、否だ。
少年は足元につきそうな丈の長いコートの裾を翻し、港と客船にかけられた舷悌を悠々と降りていく。
その少年の後ろには、同様のコートを羽織った女性が続いていた。眩しい金髪を後ろの高い位置で束ねて、鋭い目の上に眼鏡をかけた、知的で、刃の如く鋭利なオーラを纏う長身痩躯。
明らかに異質。異様な二人。
何故このような人間が、この客船に混じっているのか。
しかしまぁ、ここから天宮島へ内部へ入るには入国チェックのプロセスがある。そこで彼らは弾かれるだろう。
少年の前に、検査官が立ちはだかった。
「済まないけど、再度チェックさせてもらうよ」
検査官の言葉に、少年は薄い笑いを顔に張り付けた。
──そして、検査官とすれ違うように、少年と女性は先へ進んだ。
「えーと、君の名前は?」
検査官が言葉を向けていたのは、彼らの後ろに居た子供だったのだ。
まるで、そうまるで、周囲からこの二人が認識されていないような、その場に居て、その場に居ない。コートを羽織った少年と女性が悉くスルーされていく光景は、そうとしか説明が出来なかった。
「大丈夫かこの島」
心配する様な言葉とは裏腹に、少年の声は呆れ返っていた。
「魔法に耐性が無さ過ぎると言うか、対策が一切されていないね」
「所詮、超能力者……」
女性はそこまで言ってから、鋭い目を申し訳無さそうに垂れ下げた。
「天使は別だから……」
「ふふ、言わなくて分かってるよ。それと、下の名前で呼ぶのはやめてくれないか、マリエル」
「あ、ゴメン……神郷リーダー」
「そのリーダーっていうのも」
「え、あ、えと……」
俯いてしょんぼりする姿は、凛とした見た目におよそ似付かわしくモノであったが、どこか小動物の様な愛らしさがある。
黒髪の少年・神郷天使は苦笑しながら、しょぼくれる女性・マリエルの頭を優しく撫でると、「あー、うん、仕方ないから天使でいいよ」と声をかける。
まるでON・OFFスイッチでも搭載してるのかと言わんばかりに、しょぼくれから鋭利な刃に切り替わったマリエルに、再度苦笑をもらしつつ、天使は目の前に広がる景色に、小さく微笑みかけた。
「さぁ……島を守ってみろ。僕達──『四大絶征郷』の二卿からね」
天使の羽織る白コートの左胸には、ローマ数字で一を表す『I』の、同じくマリエルには三を表す『Ⅲ』の黒いバッチが付けられていた。
☆☆☆☆
空を支える柱と見紛う程の巨塔。その高さは事実上世界一を誇り、内部に設けられた施設の類は超最先端科学技術が詰まった、ある種の異世界とでも言える。
名を『神殿の柱』。此処の主である『宮殿』の五人でさえ、如何様にして建設されたのかは一切知る所が無く、天宮島の実質統括者であるにも関わらず、彼らが天宮島創設に関して持ち得る知識は微塵たりも存在しない。
天宮島の維持方法。それが、彼らのみが知り得る最古にして最大の知識であることは間違いないだろう。
そうであっても、彼らが世界中で最も、何人よりも天宮島の知識を有する組織である事もまた、改竄しようのない事実であった。
天宮島政府最上層部『宮殿』。烈典斬獅獄をリーダーに、鬼亀杜白蛇、龍染寺青天、紅桜朱雀、そしてネコ。己が超能力者にして超能力者を、超能力国家を束ねる五人の"不老なる人間"。
十月十二日。彼らは今宵もまた、大理石に包まれた純白にして白銀の大部屋で、静かに円卓を囲って居た。
何も彼らは毎日顔を突き合わせている訳ではない。裏では『宮殿』という機密組織メンバーでありはしても、表では其々で違った暮らしをしている。
例えば、紅桜朱雀は歓楽街で"夜の店"のオーナー兼遊女として働き、"花魁"と称され甘美で淫靡な生活を送っている。鬼亀杜白蛇は大学で科学的な研究を進める博士で、龍染寺青天は第十七区の宇宙、航空施設を取り纏める責任者の一人だったりと、彼ら五人は"偽名"を使う事で表にその姿を表している。
容姿が機密なのではない。『宮殿』と呼ばれる組織、そして彼らが『宮殿』メンバーであるという事実が機密なのだ。そうでなければ、米露戦争の際に自らを大衆の眼前──中継映像ではあるが──に晒してなぞいないだろう。
機密組織であろうと、人工島の統括者であろう、政府最上層部であろうと、彼らもまた天宮島の一国民である事には変わりないのだ。
「それで何用か」
少し煩わしそうに口を開いたのは、赤い着物を大胆に着崩した妖艶な女性。
「今が忙しい時期、時間である事はお主も分かっておろう、獅獄」
「すまんな朱雀。長い時間は取らぬ、二つほど話があるだけだ」
軽く鼻を鳴らして頬杖をつく朱雀を尻目に、偉丈夫の獅獄は題を切り出した。
「今言った通り、話は二つだ。まず一つ目だが、これは各々の意見を聞きたい」
「なんの?」
自身の超能力の影響により、頭に白いケモノ耳を生やしたネコが退屈そうに尋ねると、獅獄は一つ頷いてこう言った。
「木葉詠真の『島外への自由移動許可』に際してだ。彼にはまだ『外』へ出立する意思が無かったため後回しにしていたが、それでも近い内に意思が固まる時は来るだろう。その時に、彼に"監視"を付けるかどうか……そこの意見を聞かせてもらいたい」
獅獄としては、当然ながら監視を付けるべきだとは思っていた。
しかしながら、監視を付ける事で木葉詠真に及ぶ影響が皆無ではないため、独断では決め兼ねていたのだ。
他四人も同様の考えに辿り着いた様で、僅かに首を捻っている。
沈黙を破ったのは、ネコの声だった。
「まぁ、監視を付けた方がそりゃ安心安全ではある。でもそれじゃあ、木葉詠真に不要なストレスを与える事に繋がるのも事実だろ。尾行紛いで政府の人間を付けたとしても、多分すぐに勘付かれる」
円卓に放り出した脚を組み直しながら、ネコは荘厳なシャンデリアを眺めつつ続ける。
「あくまで、"自由移動の許可"っつー、自由を許可してんだ。あいつの思うがままに行動させるべきではあるだろうな」
ネコの声、言葉には僅かに別の思惑が混じっていたが、異論の声が上がらないという事はその"思惑"に気付いた者も居ないという事だ。
現にネコの言葉を疑う素振りも見せないし、ネコ自身も『宮殿』としての真っ当な意見を出したつもりだ。別の思惑が渦巻いていても、これは演技ではない。
嘘ではない、正真正銘、ネコ自身の意見であり、続くのは一つの提案だった。
「つっても、ノーマークって訳にもいかねぇ」
「そうですね、最低でも木葉詠真の状況を定期的に把握する必要があります」
白蛇は眼鏡の奥で鋭い瞳を光らせるが、そこに疑問疑惑の淀みはない。
そこでだ、とネコは言う。
「『宮殿』への定期報告は舞川鈴奈に任せるのが手っ取りと私は思う。どうせ二人は一緒に行動するだろうしな」
「なるほど……」
獅獄が顎を摩りながら目を細めた。
魔法使いである舞川鈴奈は、天宮島に居住する限り──天宮島に籍をおく超能力者と密接な関わりを望む以上は、聖皇の配下であり、『宮殿』の指揮下に入る事を契約条件としている。
たとえ『外』に出たとしても、木葉詠真は天宮島の国民である事に変わりはない。そのための『島外への自由移動許可』なのだから。
故に、中でも『外』でも彼と共に居たいと願うのであれば、舞川鈴奈は『宮殿』の命令に従う他ないのだ。
獅獄は首肯すると、一つ目の結論を出した。
「では、舞川鈴奈には『外』での木葉詠真の監視役──とまでは言わないが、定期的に報告を入れるようにと命令を下す事にしよう」
異論のない四人は首肯。
たった一人の少年の為だけに、天宮島トップの彼らは頭を悩ませる。
『宮殿』にとって、木葉詠真という存在は"最大の保全因子"であり、なんとしても天宮島側に密着させておかねばならない『最重要能力者』なのだ。その少年の事になら、彼らは惜しまず頭を、時間を使う。
ネコは思惑通りに事が運んだため、心中でほくそ笑み、思考を巡らせる。
──獅獄、白蛇、朱雀、青天。四人は、"瞳の中に十字架を宿す者"、もとい『世界の声を聞く者』の存在を知らない。私でさえ、ソフィアから聞かされるまでは耳にした事すらなかった。
なおかつ木葉詠真が"それ"であり、いや、"それ"以上の存在であることも然りだ。"炎帝"との戦闘映像記録は私が改竄したから、木葉詠真の身に生じた変化についても埒外の事実。
──何より、私ら『宮殿』が抱えた不明瞭な"闇"さえ知らない。
……そうだ、何も知らないんだよ。何も知らないまま……私らは"上手く利用"されようとしてるんだ。
これをこいつらに話した所で意味はない。
なんたって、私らの存在意義は"天宮島の維持"であり、"超能力者の保護保全"だ。異能の起源なんて目もくれない連中だ……私を除いて。
ただ"中枢システム"維持のためだけに、木葉詠真を手中に収め、彼の存在の"真の重要性"に気付く事もなく、ただただ寿命を吸い上げるだけだ。
──多分、それじゃダメだ。それじゃ……この世界は永遠に停滞する。
世界の謎を、異能の謎を、"私達"の謎を暴き出し、世界を取り巻く根本的な問題を解決しなきゃ、未来はあって無いようなもんだ。
だから、木葉詠真を『中枢システム』に使用させてはダメだ。私は元々乗り気では無かったけど、これは私個人の意思に関係なく、ダメな事だと思う。
──そのためにゃ……私は決断しなきゃならない。唯一、"私自身"に疑問を抱いた"私"だからこそ、可能なんだ。
ネコは円卓から脚を降ろすと、円卓の下で脚を組み直した。右手で頬杖をつき、太ももの上に置いた左手を、拳を静かに力強く握る。
至って冷静に、無感情に、無表情に、ネコは心中で決意を口にした。
──存在意義を放棄する。……そう、この島を、宮殿を裏切る事が私には出来る。そうしろと……私が告げるんだ。
誰一人として、ネコ異変には気付かない。ネコの秘匿性が高い、それもあるだろう。だがそれ以上に……彼らは"自分"を疑う事を知らず、故に悠久の"仲間"を疑う事すら知らなかった。
ネコもかつてはそうだった。
しかし。聖皇ソフィア・ルル・ホーリーロードとの会談の際、彼女がネコのケモノ耳に触れた時、両者の間で起こった現象が、ネコを変えたのだ。
ソフィアがネコに触れたその瞬間、ネコがソフィアに触れられた瞬間、両者の意識下では、二様にして一様の思考が迸った。
『ネコさんには……魔力的な、いや……未知の力による何かしらの封印が施されていますね……』
『……今一瞬、脳内を知らない"記憶"が駆け抜けた……まるで、開かずの箱が一瞬開いて、すぐ閉じたような……そうだ、例えるなら……一部の記憶が隔離されてる……封印の様な……』
そして──両者は僅かに笑む。
気付いてしまった。知ってしまった。
ある日、こんな事をネコは言っていた。
『私達の記憶は意図的に操作、改竄されてるんじゃねぇかってね』
自分でも恐ろしいと思った。記憶が操作、改竄される事がではない。それも当然恐ろしい事ではあるが、それ以上に……『妄言が現実だった』。
厳密に、ネコが感じたのは操作、改竄というよりも──記憶の封印だ。
おそらくはソフィアの持つ"特別な力"に反応して、ほんの一瞬だけ封印の扉が開かれ、即座に固く閉じてしまった。その時駆け抜けた知らない記憶こそが、ネコの封印された記憶。
確信は、限りなくあった。独断で秘密裏にソフィアに接触し、情報を共有した結果、聖皇はこう言った。
『おそらく「宮殿」は、過去に私達以外の「世界の声を聞く者」に似た力を持つ人物と密接な関係があったのでしょう。その者によって、何かしらの理由で記憶に封印が施された。私の「世界の声を聞く者」としての力に反応して封印が解けかけたのは、同様の力に反応を示し、封印解除と誤認でもしかけたのでしょう』
それを聞いても、封印を施した人物に心当たりはなかった。
そもそもの話として、『宮殿』メンバーは"恩師"により不老の力を授かり、悠久の時を生きてきた。そのため、過去の記憶は薄れ、霧がかかった様に思い出すことはできない。
──と、そこでネコは目を見開いた。
"過去の記憶が思い出せない?" いくらなんでも……何年、何十、何百年前からの記憶がない、という事すら分からないなんて……。
自分はいつの時代の人間だ? 江戸か? 戦国か? 平安か? 悠久の時ならそれほど前でも可笑しくはないだろう。
なら、この島はなんだ? 超大型浮体式構造物なんて、そんな昔に建造出来るのか? 子供でも分かる、出来るわけがない。
おかしい。おかしい。なぜ今まで気付かなかったんだと言うくらいに、記憶が何もかもおかしい。
そこでネコは悟った。
──『宮殿』は、天宮島を維持するためだけに設けられたシステムだと。
"不老"という先入観から時間の流れの感覚を阻害し、過去の記憶を覚えていなくても、それだけ長い時を生きてきたから仕方ないと錯覚させる事で、記憶が封印されている事実を誤認させる事ができる。そうする事で、永劫的に、作業的に、天宮島を維持するという使命に忠実なシステムが出来上がる。それが『宮殿』……。
ならば封印された記憶とは何か。如何せん封印されているため定かではないが、過去の記憶はごっそり封印されてしまっていることは間違いない。
ならば、ならば。その封印を施した人物は誰なのか。
もう答えは出ていた。
記憶の齟齬を誤認させるために、自分に"不老"の力を授けた者。もう顔や名前、何もかもが思い出せないが、不老に合わせて"天宮島の維持"を自分達に託した者──"恩師"。
「──ネコ!」
突如耳を襲った怒号に、ネコの思考は一気に現実へ引き戻された。
どうやら周囲からはボーッとしていた様に見えた様で、獅獄が一喝するようにネコの名前を呼んだらしい。
──怪しまれたり……はしてないな。
「どうしたネコ、祈竜祭に夢中で夜更かしでも続けていたのか?」
心配する様に尋ねた獅獄に、ネコは肩を竦めて首肯しておく。
──話す……べきなんだろうな。
記憶の封印、"恩師"への疑念。それは『宮殿』全員で共有すべき案件なのだろう。
しかし、ネコは口を閉ざした。
素っ頓狂な事を言うな。深読みしすぎだ。少し疲れてるだけだ。そんな言葉が返って来るのが分かっている。
実際、そう思わないでもない。
でもそれ以上に、これは流してはいけないと思った。
──私が暴いてみせる。
あてはある。
三人目の『世界の声を聞く者』、"全てを知る彼の者"なら、文字通り"全てを知っている"んじゃないか。
ネコはその一点に賭け、しかしその為には、彼を『宮殿』の目から出来るだけ離す必要がある。
『宮殿』に勘付かれたら、そこで彼は回収されてしまうだろう。『宮殿』メンバーであるネコだから、そこは確信できる。
だからその前に、『宮殿』に知られぬ内に"全てを知る彼の者"を覚醒させ、全ての謎を暴き出さないといけない。
覚醒の段階はソフィアに任せる為、ネコが『宮殿』として出来るのは、彼から『宮殿』の目を出来るだけ逸らせる様に仕向ける事だけだ。
──それも、まかり通った。
後は舞川鈴奈によって、事実と虚偽を混同させた報告で『宮殿』を騙し通すのみ。
本来なら、ネコは『宮殿』に残り、中からも情報操作を行うべきだろう。ネコの巧妙な改竄手腕を持ってすれば、それは可能ではある。だが正直、自分の手で騙くらかすのは限界だと感じていた。
炎帝との戦闘映像記録の改竄、聖皇訪問時の極秘接触、そして今回の私情を混じえた監視役の推薦。これ以上続けては、早期的にボロが出るだろう。
だから、彼女は別の道を選ぶ。
──島に篭って"時"を待つのではなく、自ら動いて"時"を引き寄せる。
幸い、政府最上層の『宮殿』であるネコは島外への移動が自由だ。
そこに、"魔物"討伐に力を貸してくるなり、路頭に迷う超能力者を保護してくるなり理由をつければ、なんなく『外』へ出る事ができてしまう。
それを利用して、ネコはソフィアや木葉詠真に助力するつもりなのだ。
待っていてボロが出るくらいなら、自ら動いて"時"を少しでも加速させる力添えをしよう。ソフィアには、強引で考えなしだと言われてしまうかもしれないが、仕方ない。
自分が木葉詠真の監視役に名乗り出るのも良かっただろう。しかしそうすれば木葉詠真から離れる事が出来なくなる。詰まる所、単独行動が出来ない。
やはり様々な可能性を考慮して、自分は島に篭っているより動いた方が効率がいいと判断したのだ。
ネコは頭の中を占めていた思考を吐き出す様に、大きく息を吐いた。
「……それほど疲れているのか?」
「はは……できれば早く寝たい気分」
「そうか。では手短に行こう」
獅獄が白蛇に目配せる。白蛇は一つ頷き、腕を軽く振った。明かりが落とされ、部屋の中央に巨大なホログラムが投影。二枚の写真が映し出された。
人混みに紛れる、丈の長い白いコートを纏った二名の後ろ姿。おそらく、少年と若い女性だろうか。
獅獄はその写真を指して、こう言った。
「祈竜祭の乗じて、二名の不確定因子がこの島に侵入している」
 




