『決戦への刻落』
瞳の中に十字架を宿す者。
言葉通りの意味で、両の瞳の中に十字架模様が刻まれた者の事だ。
普通の"人間"には起こり得ず、普通の"異能力者"にも起こらない現象。発現の条件などは不明。
だが何らかの理由により瞳の中に十字架を宿した者は、『声』を聞くのだ。
規則性はなく、望んでも聞こえない。
そもそも『声』という概念ですらない。
それは突如として、頭の中に情報を流し込んでくる。データを上書きされているようなイメージが近いだろう。
瞳の中に十字架を宿す者。
その者に起こる"現象"の本質を指し、
『世界の声を聞く者』。
ソフィアはそう呼んでいた。
聖皇を冠するソフィアは、その瞳に青い十字架を宿し、 物心ついた頃から『声』を聞き続けている。
『声』が語りかけてくるのはどれも未来予知や予言といった類で、事ある毎に未来予測を脳内に上書きしていくのだ。
ソフィアはそれを『世界そのもの』が語りかけてくる『声』だと信じた。
八眷属の選定も『声』を頼りにソフィアが選び出し、因縁深い陰陽師集団『天廊院』との戦闘も、『声』が導く予言により効率良く進めてきた。
だが陰陽師側にも『世界の声を聞く者』が存在し、効率が良くとも明確な歩を進める結果には至らなかった。
近い時で言えば、"氷帝"を冠する舞川鈴奈に与えた任務に関する事だ。
ソフィアは戦犯がアーロン・サナトエルである事を視野に入れてはいたが、確固とした証拠はなく、不用意に八眷属を複数同時に放つ事を躊躇していた。
そこに届いた『声』。
『選ばれし少年が齎すのは幸か不幸か。決断すべきは貴女』。
"選ばれし少年"というのが分からなかったが、ソフィアはとりあえず"氷帝"だけを天宮島に向かわせる事にした。
そして『声』の意味はすぐに判明した。
"氷帝"が選んだ協力者の少年。それこそが、"選ばれし少年"なのだろう。
ソフィアは信じ、決断した。
ーー結果、少年は『幸』を齎してみせた。
その様に、『声』による予言は信じるに値し、時には複数の選択肢から選ばされたりするが、大抵の事がソフィアにとって悪い方向には進まなかった。
しかしソフィアは、そのような予言よりも重要視している予言がある。
ある日、ソフィアは"異能力"の起源を探っていた。しかし進歩はなく聖皇ながら諦めかけていた時。
突如、『声』により脳内に新たな知識が書き込まれた。
『今は知るべき時ではない。選ばれし二柱、そして全てを知る"彼の者"の三者が目覚める時、三つ巴の"力"の存在理由が暴かれる。そして来るのだーー戦乱の時代が』
この言葉ーと言っていいものなのかは分からないがーの意味を全て理解する事は、ソフィアにすら出来なかった。
だが、直感が告げた。
選ばれし二柱、それは『世界の声を聞く者』の事ではないだろうかと。
二人の『世界の声を聞く者』、ソフィアと『天廊院』の陰陽師だ。
そしてもう一人。全てを知る"彼の者"が目覚める時、魔法、呪術、超能力の謎に包まれた"起源"が暴かれる。
それが意味するのはーー戦乱の時代。
戦乱とは、三つ巴の異能力による戦争でも起こるのだろうか。
それも憶測の域を出ない。
悩み続けて、二年程が経った時頃。
ーー不意に、ソフィアは予想外の存在を知る事になる。
三人目の"瞳の中に十字架を宿す者"だ。
叛逆者アーロン・サナトエルより齎された情報ではあったが、タイミング良く『宮殿』から天宮島への招待、会談を提案されていたため、それを利用して真偽を確かめる事にした。
木葉詠真。それが彼の名前だ。
間接的にではあるが、ソフィアも知っている少年だった。
アーロン・サナトエルの起こした一件で、八眷属が一柱"氷帝"に協力し、結果的には彼女の命を救う事になった、『声』の言う所の"選ばれし少年"だ。
見た所、木葉詠真の瞳の中に十字架は刻まれていない。だが"普通では無い事"に"普通の思考"は通用しない。
ソフィアは少し様子を見る事にした。
ーーその矢先。
ソフィアは見た。
木葉詠真の瞳の奥に、赤い十字架が光る瞬間を。
更には護衛として連れてきた八眷属が一柱"炎帝"がふっかけた喧嘩により行われた戦闘で、木葉詠真は明確に瞳の中に赤い十字架を現した。
確信せざるを得なかった。
彼は、木葉詠真は、三人目の『世界の声を聞く者』だと言うことを。
その直後。
ソフィアは『声』を聞いた。
『m覚めketkのもnのtかr。htoはsらntかltきょsniz元wwln。awleiくうのshsy。三度目の夜、再来し、楽えnを破壊せん』
脳内に上書きされた情報は、言うなれば激しい文字化けを起こしており、最後の部分しか読み取る事は出来なかった。
"何か"が三度目の夜に再来し、楽園を破壊する。再来と言うことは、一度訪れると言う事だろう。
その答えはすぐ傍に出現した。
天宮島上空に現れた、この世のものとは思えぬ化け物。空を割って出現した、三首の巨大な黒竜だ。
ソフィアの直感はよく当たる。
故に、この直感も当たるのだろう。
目覚めかけた木葉詠真の『世界の声を聞く者』の力が、近くにあったソフィアの『世界の声を聞く者』の力と共振し、起こり得るはずのない現象を齎した。
次元振動による、空間歪曲。
つまりあの黒竜は、『異世界』から渡りきた生物であるとーー。
☆☆☆☆
ソフィア・ルル・ホーリーロードは、第十四区のホテルに宿泊していた。正体不明の黒竜出現から一日が経っていた。
『声』に従うのなら三度目の夜、黒竜出現日の夜をカウントして、つまり明日の夜に黒竜はこの島を襲撃する。
全く未知の敵を相手に対策を練るには時間が無さすぎる。
その上ーー
「聖皇様、"氷帝"到着致しました」
「どうぞ」
一旦思考を断ち切り、舞川鈴奈と、部屋の外で常時待機していたフェルドの二人を部屋に通した。
他の護衛、二名の上位魔法使いは部屋の外で待機したままだ。
「聖皇様、お話と言うのは先刻の……」
フェルドが言い切る前にソフィアは頷くと、一つの魔法を発動させる。
魔法陣の展開と詠唱のプロセスを破棄する"破棄発動"で発動されたのは、思考のみで会話を可能とする『念話』だ。
声に出せば音声が拾われるかもしれない。故の措置である。
ソフィアは表情を変えず、脳内で思考する。
『貴方達もご存知の「世界の声を聞く者」の力。木葉詠真さんは、三人目の「世界の声を聞く者」でまず間違いはないでしょう』
二人もそれをある程度は確信していたため、特に驚いた様子はない。
ですが、とソフィアは続ける。
『「宮殿」はこの事に気付いていない筈です。彼らは「世界の声を聞く者」の存在を知らない。万が一知っていたとして、木葉詠真さんの身に起こった変化をその目で見ていない以上は、気付いていないと判断しても良いでしょう。彼らが木葉詠真を「リスト」に連ねているのも、超能力的な面での需要価値と言った所ではないでしょうか』
『ですが私は「宮殿」に、アーロン・サナトエルとの戦闘の最後、木葉詠真が"別人の様に見えた"という報告を出してしまっています。「宮殿」はそれに対して、詠真が戦闘を行う際には必ず何らかの形で映像を残そうとしている。戦争の時もそうでした。それに加え、今回の戦闘場所は「宮殿」の拠点内。確信に筒抜けになっているのでは……?』
鈴奈の若干の後悔が混じった問いに、ソフィアは軽く微笑む事で許しの意を示してから答えた。
『勿論、筒抜けでしょうね。"メンバーの一人だけ"には』
『一人だけ……ですか?』
フェルドが訝しげに尋ねると、
『先刻の"炎帝"との戦闘は確かに映像として記録されています。ですが「宮殿」メンバー全員がリアルタイムで見ていた訳ではありません。リアルタイムで映像の記録を行っていたのは、ネコさんのみ。ですので、安心です』
鈴奈とフェルドは安心の意味を理解出来なかった。一人だけでも見られていては意味はないし、映像として残っているなら尚更意味はない。
ふいに、ソフィアがこう言った。
『ネコさんはーーーー』
告げられた言葉に、鈴奈は思わず声を出しそうになり、フェルドは眉間にしわを寄せた。
ですから安心なのです、とソフィアは笑い、
『話を戻しましょう。貴方達に伝える事は二つあります。一つは、木葉詠真さんには「世界の声を聞く者」に関する情報を一切秘匿する事です』
『それは、何故ですか?』
この手の隠し事にはやはり気が進まない鈴奈は、否定する事が出来ないのを承知の上で理由を問う。
『不安定だからです。木葉詠真さんの力は私の様に常時発動している訳ではない。先刻は覚醒の兆候を見せはしましたが、鈴の言う別人の様に見えた時も含め、現在は稀に一時的にだけ解放されるだけの様です。その状態の彼に不用意な事を吹き込んでしまっては、不安定さを更に揺らす事になるでしょう』
『つまり、今はまだ言うべき時ではない……と?』
『そう言う事ですね。鈴には悪いですが、今は隠し事をしてもらえませんか?』
断れる筈もなく、鈴奈は首を縦に降る。
少し嫉妬心に駆られたフェルドは急かす様に『二つ目は?』と尋ねる。
ソフィアは少し微笑み、話を続ける。
『二つ目は……』
ソフィアの思考から紡がれたのは、来るべき戦乱の時を指し示す『声』の言葉。
ソフィアはその言葉を他人には一切、八眷属であろうと開示していなかったため、鈴奈とフェルドは初めて耳にー思考会話だがーした。
フェルドが冷静に尋ねる。
『その言葉の意味とは?』
『ハッキリとした事は分かりません。二柱というのは、二人存在する「世界の声を聞く者」の事だと思っていましたが、三人目が現れた以上……』
『三人目が"彼の者"という可能性は?』
言ったのは鈴奈だった。
ソフィアは少しの間目を閉じる。
やがて目蓋を上げ、こう答えた。
『一つ目のお願いは、その可能性があるからこそなのです。全てを知る"彼の者"が覚醒すれば、戦乱の時代がやってくる。それが分かっている以上、"彼の者"の不用意な覚醒は避けたい。何事にも準備をしなければなりません。それを踏まえた上で、奇しくも"彼の者"である可能性がある人物は手の届く場所にいる。それはつまり、覚醒の時をある程度操る事が出来るかも知れないという事です』
『でも詠真は天宮島の監視下に』
『それの監視から逃れる事が出来るなら?』
ソフィアが鈴奈の言葉に被せるように言うと、鈴奈は思い出した様に「あっ」と声を出してしまった。
ゴホンと咳払いを一つ。
鈴奈は言う。
『詠真の目的に、聖皇様自ら手を貸すという事でしょうか?』
『その通りです。鈴奈や八眷属を介しての間接的ではありますが、木葉詠真さんの目的ーー「異世界」へ妹を取り戻しに行くという目的に私も力を貸しましょう』
上手く話を理解できてないフェルドが割り込むように聞く。
『どういう事だ?』
鈴奈が面倒くさそうに答える。
『今回の黒竜討伐に際して、詠真は「宮殿」に「島外への自由移動許可」の承諾を申し入れたのよ。聞いてなかったの?』
『すまん……しかし、なぜ?』
『アーロン・サナトエルを探しに』
『……なぜ?』
『しばくぞ。報告の時に言ったでしょ。詠真は「一定空間内の全物質の転移」に巻き込まれた人達は「異世界」に飛ばされたというのを前提に据えて、巻き込まれた人達、何より自分の妹を取り戻すために「異世界」へ行こうと決断した。そのためには、アーロン・サナトエルの持つ転移魔法が必要不可欠なのよ』
『あー、なるほど。しかしそもそも「異世界」など……』
フェルドは気付くのが遅かったようだ。
鈴奈が無言で蹴り飛ばす。
『あの黒竜の出現。その現象そのものが、「異世界」の存在を確固たる物にした事に今更気付いたの?』
『す、すまん……あぁ、そういうことか。だから木葉詠真はあれほど、黒竜討伐に名乗りを上げていた訳か』
鈴奈は心の中で大きく嘆息した。
ーーコイツはとことん詠真が嫌いなのね。
『「島外への自由移動許可」が出れば、詠真は天宮島の監視下を抜ける事が出来る。まぁ完全にではないかも知れないけどね。けどそうなれば、詠真は否が応でも魔法使いの助力を必要とするでしょう、特に八眷属の力を。つまり、聖皇様は八眷属を介して詠真の事を逐一把握する事が出来る。今よりずっとね』
『聖皇様は木葉詠真に力を貸す代わりに、裏から覚醒の時を人為的に操作する……ということか』
『そう上手くいくとも思いませんが、そういう事ですね』
ソフィアが締めくくる様に言うと、フェルドがもう一つ尋ねた。
『だが、「島外への自由移動許可」ってのは絶対下りる訳でもないんだろう?』
『下りるわよ』
鈴奈が断言した。
『ここに来る前に「宮殿」と話をしたんだけど、黒竜討伐から生きて戻れたら許可出すって』
『生きて戻れたら、か。それは是が非でも木葉詠真に生存してもらう必要があり、そのために生存本能を焚きつける餌を用意した……とも取れるな』
『実際そうなんじゃない。「リスト」に連ねるほど重要視してるんだし』
『ならば戦闘に出さなきゃいいのにな』
『まぁ、一人でもヤる! って覚悟してる奴を後ろに引っ込めても、無理矢理出てくるのがオチでしょ。それに戦争の時もそうだけど、詠真自身の力を「宮殿」は認めてるんじゃない?』
そこにソフィアが捕捉する。
『貴方達、魔法使いの実力も認められている、と言った所でしょう』
何はともあれ、とソフィアは言う。
『お話した件よろしくお願いしますね。それとサフィールさんにも、木葉詠真さんには例の事を伏せておくように話を通しておいてください』
言った後、ソフィアはほんの少し不安げは表情浮かべて、口の言葉で呟いた。
「黒竜討伐、絶体絶命の時には介入させてもらいますよ」
「ご心配なく、聖皇様」
「同じく。詠真のためにも……私達だけの力で撃破して見せます」
☆☆☆☆
天宮島は閑散とした空気に包まれていた。四基の商業区は活気がなく、三基の学生区の学生の顔には元気がない。一般居住区もあまり人が出歩いていなかった。
当然、と言えば当然か。
突如空に開いた穴から、この世のモノとは思えない黒い化け物が現れた。飛び去りはしたが、天宮島政府より"黒竜は再度この島へやってくる"という声明が出され、合わせて明日の夕刻には地下の核シェルターへの避難命令が出される事がニュースで報道されている。
前代未聞の大事故、国家戦争ときて、次は化け物による島の襲撃。国民が怯えて元気を失うのも無理はなかった。
さすがに察したのか、『お前あの化け物と戦ったりしねぇよな!?』という輝からのメールが詠真の端末に何通も届いている。
詠真は返信をしなかった。
無言の肯定。
事実、詠真は黒竜討伐に参加する事が決まっていた。
それは、遡ること約二十二時間前。
黒竜が飛び去った直後の話だ。
未だ状況を理解出来ていない面々に対して、ソフィアがこう言った。
『黒竜は出現から三度目の夜。今日の夜をカウントして明後日の夜、この島へ再来します』
『……なんで、分かるんだ』
詠真の問いは至極当然の問いだった。
ソフィアは鈴奈とフェルドを一瞥したのち、胸に手を当てて答えた。
『以前お話した様に、"世界の声"を聞きました。簡単に言えば、未来予知や予言です。そういう"魔法"です』
『それは……信じるに値するのか?』
聖皇を疑う様な言葉にフェルドが掴みかかろうとするが、ソフィアがそれを制す。
『限りなく"確定"ではありますが、信じるかどうかはお任せ致します』
詠真は暫し俯いて黙った後、平常を取り戻した蒼窮を仰いだ。
『まぁ……疑う理由もないしな。それに、再来するなら好都合だ』
『好都合……だと?』
フェルドが訝しな声で言う。
『自分の国を襲撃されようとしているんだぞ? それを好都合とはどういう事だ』
『だから好都合だってんだよ。簡単に言や、戦争と同じだろ。襲い来る敵から国を守る。俺が待ってた事だよ』
『だからどういうーー』
『鈴奈、ソフィアさん、お願いがありますーーーー』
そう言って詠真が頼んだのは、『宮殿』への二つの伝言だった。
一つは、黒竜討伐を"自分一人"に任せてもらえないかという提案。
二つ目は、黒竜討伐により天宮島の危機を救った暁には『島外への自由移動許可』の承認をして欲しいという願いだった。
一つ目の提案は二つ目の願いありきだ。
島に及ぶ危機を排除、つまり島を救えば何らかの報酬を得る事が出来るだろう。それは戦争報酬と同じ様なモノだ。
詠真が『島外への自由移動許可』という報酬を得るにはそれしか道はない。
なおかつ、詠真は手柄の分散を恐れた。仮に戦争時の様に大人数で黒竜討伐を成したとして、そうなれば手柄は人数分に分散してしまう事になる。
だが"単独"で倒してしまえば、その手柄を独占できるため、その分報酬も大きくなると踏んだのだ。
思い返して見ても、自分らしからぬ浅はかな思考だったと詠真は思う。そもそも一人で倒せる保証などはない。
だがこの様な"チャンス"はそう起こらない。浅はかでも、無謀でも、考え無しと言われても、命を賭ける意味は大いにあった。
しかし。
返答はイエスであり、ノーだった。
詠真の黒竜討伐戦闘の参加は認めるが、単独での戦闘は認められない。『宮殿』と聖皇が話し合った結果、詠真と"氷帝"、"炎帝"の三人での戦闘が承諾された。
そして先ほど、鈴奈からメールがあった。
それは『島外への自由移動許可』承認に関する内容で、
『生きて黒竜討伐任務を達成した暁には、木葉詠真の"島外への自由移動許可"を承諾する』
それが『宮殿』の下した判断らしい。
詠真は静かに震えていた。
これで、これでやっと"揃う"。
アーロン・サナトエルが持つ『異世界』へ渡る為の切符。黒竜出現が確信させてくれた『異世界』の存在。
そして、切符を手に入れる為に必要な"枷からの解放"。つまり、天宮島と『外』の世界を自由に移動できる"権利"だ。
英奈を救い出した後、天宮島で静かに暮らす為には正攻法で『外』へ出る手段が必要なのだ。法律を犯して『外』へ出ても戻れないのでは意味がない。
後は、後は一つだけだ。
ーー黒竜を必ず討ち果たす。
それを成すことで、木葉詠真の物語は歩みを始める事ができる。
決戦は明日の夜。
詠真は静かに、拳を握りしめた。
☆☆☆☆
サフィールはPDA端末を手に、階段の影からリビングの詠真を見ていた。端末に表示されているのは、鈴奈からのメール。
『お願いがあります。昨日の戦闘で詠真に生じた変化、髪色の変化と瞳の中に浮かんだ十字架についてなんだけど、本人には伏せて置いて欲しいの。あまり詳しい事は話せないけど、いつか話すので、今はお願いします』
サフィールは一度、昨日とは別の時に、同じ現象を目にしていた。
米露連合軍との国家戦争の時だ。
鈴奈の"魔法"によって、超能力者を苦しめていた『アンチサイキック装置』が破壊された後、対物ライフルの銃弾を使い切ったサフィールが、死体から拾ったアサルトライフルで暴れていた所に詠真が合流した。その時の詠真は、昨日と同じ"毛先が白く染まり、瞳の中に赤い十字架模様が刻まれた"状態だったのだ。
戦争の前日に、『四大元素』は解放する力によって瞳の色が変化する事を聞かされていたため特に不思議には思わなかった。
だが、何か些細な違和感はあった。その些細な違和感から、サフィールはその現象について詠真に尋ねる事をしなかった。
そして昨日のバーチャルルームでの戦闘。
やはり、違和感を感じた。感じると共に、ふと気付いたのだ。
『ソフィアさんの瞳と同じだ』と。
そして今日の鈴奈からのメール。
全てを照らし合わせてもイマイチ理解は出来なかったが、詠真の瞳や髪に生じた変化を本人に伝えるのは、かえって悪影響なのだろうとサフィールは判断した。
サフィールはお気に入りの黒いウサギのぬいぐるみに話しかけるように、
「あまり……首を突っ込むべきではなさそうですしね」
軽く苦笑を漏らす。
ギュルルゥと空腹を知らせるお腹の虫に導かれ、詠真に素麺を作るようお願いしに行った。
☆☆☆☆
『神殿の柱』。
全二百階ある中の、何処かの階。
ケモノ耳を生やした少女は、とある映像を見ていた。
バーチャルルームで行われた、木葉詠真と"炎帝"による戦闘だ。長ったらしい"炎帝"の説明が終わり、両者は刃を交え、力をぶつけ合う。
そしてーー"何事もなく"、何事が起こった。
戦闘が中断したのは、天宮島上空に黒竜が現れた事によるモノだ。
映像はそこで終わっている。
そう。
何事もなかった。
"少年の髪の毛先が白く染まったり、瞳の中に赤い十字架が浮かんだりする事など一切なかった"。
少女は、ネコは薄く笑う。
「"隠蔽"完了。これでいいんだろうーー"聖皇"」




