鶴文の詩
これは中国が唐と呼ばれていたころの話である。洛陽の南方三里ほど、伊河の両岸に広がる巨大な石仏群である竜門石窟の近くの砂利道を、阿文真は少し浮かない顔で散歩していた。
「僕は、皆が驚嘆するような物語を書いてみたい。幼い頃から、ずっとそう思ってきた。しかしまだ、何も書けていない。その理由は分かっている。素敵な物語を書く者達には、愛する女性がいたり、大切な妹がいたりするものだ。しかし僕には誰もいない。『親のことを書けばいい』などと人に言われて書いてみたこともあっが、どうも違うと思って破棄してしまった。ああ、どうすれば物語が書けるのだろうか」
そんなことを考えながら柳の長い枝が垂れ下がる道を歩いていると、道端で何かを売っている老翁が話しかけてきた。
「そこの若者よ。何を浮かない顔をしておる」
阿文真は顔を上げ、声が聞こえてきた方を見た。白髪を肩まで垂らし、髪と同じように白い髭を蓄えた老翁が、粗末な木製の陳列台の前に立ち、こちらを見ていた。陳列台は老翁の身幅の三倍ほどしかない、小さなものだ。その上には、色とりどりの石が並べられていた。見たところ瑪瑙や水晶のようだ。あざやかな青い石は青金石かも知れないと阿文真は思った。
「お爺さん、これは、もしかして青金石ですか?」
「おお、その通りじゃ。おぬし、よく知っておったの。ホホホ」
「僕のおじいちゃんも石が好きなんですよ。よく、石を見せて説明してくれるんです」
「おお、そうじゃったのか。ホホホ。昔、西の砂漠を越えた国ではな、この石を砕いて天の色を作ったそうじゃよ。死者を棺に入れ、胸の上にこの石を置く国もあるそうじゃ。とても特別な石なのじゃよ」
阿文真は老翁の発した「特別」という言葉に反応した。
「お爺さん、お爺さんには特別な人はいますか?」
「ホホホ。何を言い出すかと思えば。おぬし、面白いことを訊くのう。なぜ、そのようなことを訊く」
「僕は物語を書いてみたいのです。しかし僕には、愛する女性も、兄弟も、姉も妹もおりません。特別な人への想いを込めて物語を書きたいのに」
「お友達は、おらんのか」
「友達は、います。一番付き合いが長いのは、鶴文という男です」
「おぬし、今の年齢は何歳なのじゃ」
「二十歳でございます。鶴文とは、蒙求(※子供向けの教科書)を読み始めた頃からの付き合いです」
「ホホホ…まさに竹馬の友というわけじゃな。それならば、その鶴文のことを物語にすればよかろう」
「それは僕も考えました。しかし、僕は彼のことを親友だと思っておりますが、彼の方はどうなのか…私には自信が無いのです。自信が無い状態では、物語はどうしても書けないのです。もし私ばかり本気で、彼は大勢いる友人の中の一人に過ぎないと僕のことを思っていたら…恥ずかしいです。彼には未思という想い人がおります。彼にとって彼女は、生きる意味の全てなのです。彼の人生を照らす太陽のような存在であると、言っておりました。二人は、今は会えない状況が長く続いておりますが、鶴文の気持ちは少しも変わりません。未思に比べたら、私など些末な存在でありましょう」
「ホホホ…向こうが大切に思っていてくれなければ、こっちも思えないとでもいうのか?若者よ…」
「そ、そういうわけではございませんが…」
「ホホホ…よろしい。では三日後、同じ時間に、またここに来なさい」
老翁はそう言って、微笑んだ。老翁が何をするつもりなのか阿文真は分からなかったが、何か不思議な力を持っている人のように思えた。阿文真はお辞儀をして、老翁の露店から離れていった。
三日後、約束した通りに阿文真は再び老翁の前に現れた。
「ホホホ…約束した通り、来なさったのう。ホホホ」
「ええ。一体、どうするというのですか?」
「おぬしはこの前会ったときに既に気づいたようじゃが、わしには、神通力がある。普通の人間にはできないようなことが、出来るのじゃ」
「…はあ」
「いいか、これから見せる光景は、昨日、わしがおぬしの友人の鶴文の夢の中に入り込んで、彼と対話したときの光景じゃ。鶴文はそのとき寝ていたわけじゃが、夢の中の彼は現実の彼と何も変わらない。夢の中で、寝ぼけているわけではないのじゃ。夢の中でも鶴文は鶴文として、しっかり自分の気持ちを言葉にすることが出来る。それはそのまま、現実の彼の気持ちなのじゃ」
「なるほど」
「若者よ、目を閉じるのじゃ」
阿文真は、老翁の言うとおりに目蓋を閉じた。気配で、老翁がすぐ近くに寄って来たのが分かった。老翁は何やらぶつぶつと、呪文のようなものを唱え始めた。すると次の瞬間、目を閉じている阿文真の目の前に、老翁と鶴文が向き合って木の椅子に座っている光景が現れた。阿文真は驚いて、思わず「わっ!」と声をあげた。
阿文真は、これはまさに昨晩、老翁が鶴文の夢に入り込んで彼と対話したときの様子を、自分に見せるために老翁が記録した映像に違いないと察した。
老翁は静かに、鶴文に語りかけた。
「おぬし、未思という女を愛しておるそうじゃの」
「…はい」
「どんな女なのじゃ?」
「一言で言い表すことなんて出来ませんが、全宇宙で最も可憐で可愛く、細い金属フレームの丸眼鏡が『えっ!?どんだけ可愛いの?嘘でしょ?』と叫びたくなるくらい似合う女性です。あと、私が本をとるために本棚の方に歩き出すと、後ろからチョコチョコ歩いてついて来るんです。一度だけじゃなくて、いつも、そうなんです。あまりの可愛さに、気絶しそうになりました」
「ホホホ…なるほど。じゃが、おぬし、今は未思に会うことが出来ない状況だそうじゃの」
「はい、そうなんです。だから私は、未思に届けるための物語を書いております」
「なるほどのう。よし、分かった。わしの神通力で、未思に会わせてやろう」
「えっ?」
「そのかわり条件がある。人を喜ばせるための神通力を発揮するには、逆方向の燃料が必要なのじゃ。それはつまり、人の不幸じゃ。そしてその不幸という燃料は、喜ばせる対象になっておる者から取り出した燃料では、駄目なのじゃ。それだと、足し引きゼロになるからの。相殺されるわけじゃ。おぬしの友人の阿文真から取り出そうと思っておる。彼なら、いい燃料を取り出せるじゃろう。なに、心配することはない。命を奪おうというのではないからの。そうじゃの、来年あたり、三度ほど、彼に風邪をひいてもらおう。一度につき、一週間ほど高熱をだして寝込むだけじゃ。それならよかろう?ちゃんと治してやるわい」
老翁の言葉を聞き終えた鶴文は、迷うことなくすぐに答えた。
「そんなことは絶対にしないで下さい。阿文真は、この世界でただ一人の、私の親友です。もしあなたがそんなことをしたら、私は絶対にあなたを許さない」
「何を言うのじゃ。風邪をひかせるだけじゃぞ?それで、未思に会えるのじゃぞ?おぬしの夢じゃろ」
「もし、そんな方法で未思に会ったとして、私は未思に本当のことを言えないでしょう。隠すことになる。そんな黒いものを腹に抱えた状態で、この世界で一番大好きな人に会えるわけがない。そんな再会は、美しい詩にはなりません。それ以前にまず、私が未思に会うために、なぜ阿文真が苦しい思いをしなければならないのです。彼は何ひとつ悪くないのに。あなたの提案は、根本的におかしいのです」
「ホホホ。よろしい。それならば、こうしよう。風邪をひかせて高熱を出させるのではなく、私が彼の頭をコツンと叩くだけにしよう。それならば、よかろう?」
「絶対に嫌です。苦しみの大小の問題ではないのです。私の幸せのために、彼が嫌な目にあうこと自体がおかしいと言っているのです」
そのあと老翁は色々と条件を変えてみたが、鶴文が首を縦に振ることは最後まで無かった。やがて老翁は諦めた表情になり、静かに言った。
「…ホホホ。降参じゃよ。おぬし、なかなか良き心を持っておるの。わしは少し、羨ましくなった。阿文真が」
その直後、老翁は霧のようなものに包まれて、鶴文の前から消えた。
「…どうじゃ?しっかり目に焼き付けたか?おぬしの
たった一人の親友の姿を」
老翁の言葉に、露店の前で目を閉じていた阿文真は弾かれたように目を開き、我に返った。その目からは涙が溢れていた。肩を震わせて嗚咽する阿文真の肩に、老翁はそっと手を置いた。
「大切にするのじゃぞ、友達を」
「…はい…」
阿文真がそう返事をして顔を上げると、露店も老翁も、消えていた。柳の枝が優しい陽光に照らされて、静かに揺れていた。
〈了〉




