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緋眼のアイリス  作者: 惰浪景
第三章

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78話

 その後、露天風呂を出た俺たちは内風呂に居た琴音たちと軽く言葉を交わして洗い場へ。

 髪と体をしっかりと洗い、大浴場を後にしたのだった。


 その後、脱衣所に入ると、先程鼻血を噴いて引っ込んでいった霞野さんが浴衣姿でベンチに腰掛けていた。

 俺は心ここに在らずといった感じでボーッと壁に貼られている温泉成分表を眺める霞野さんに声をかけようとしたのだが……


「声をかけるなら、浴衣に着替えてからにして貰える?」


 後ろから垣守先輩に引き止められた。


「多分、彼女には刺激が強いと思うから……」

「……え?刺激ですか?」


 どういうことだろうと首を傾げていると――


「いいから、いいから、行こう〜」


 セイラに背中を押されてしまい、そのままその場を離れることになった。

 そして浴衣に着替えてまた霞野さんの方へ戻ると彼女は相変わらず全く同じ姿勢のままだった。


 さっきと比べてまるで動いていない……


 体調が優れないのだろうか?


 心配になった俺はゆっくりと彼女の表情を覗きこむ。


「あの〜」


 そして、そっと声をかけた瞬間。


「……わっ!!」


 彼女はビクッと肩を揺らし、ようやく視線が交わった。

 

「……大丈夫?」

「ひゃっ、ひゃいっ!!!でいじょうぶですっ」


 焦っているのか田舎のおじいちゃんのような返事を返す霞野さん。

 まぁ、でいじょうぶなら良いのだが……


 ただ、大丈夫と言うにはほんのりと顔が赤く紅潮している。

 ビックリさせないようにそっと彼女の額に手を当てる。


「ん〜熱はないようだけど……あとで九重先生に診てもらった方がいいんじゃないですか?」

「い、いえ、本当に大丈……っ……!」


 突然、霞野さんが固まった。


「霞野さん?」


 呼びかけるが返事はない。

 視線だけが俺の胸元あたりに固定されている。

 本当に具合が悪いのかも……

 折角の温泉ということで無理をしているのではないか?


 そう思い、彼女の肩へ手を伸ばした瞬間。

 霞野さんはおもむろに右手を自分の目の高さにまで持ち上げた。


 そして――


 むにゅ。


「ひゃぁああ」


 浴衣の上から俺の胸元にある膨らみのある部分を鷲掴む。

 揉みしだかれる感触と共に頭の奥がじんと痺れる感覚が駆け巡る。


「な、な、何をするんだっ!!」

 

 咄嗟に胸元を両手で押さえて、霞野さんを睨みつける。

 すると彼女は我に返ったようにあわあわと両手を振り出した。


「す、す、すみませんっ!!!!ついっ、魔が差し……いやっ、そう!病気の前兆があったので確認をしたんです!」

「えっ、病気?」

「は、は、はい、揉んで確認する必要があったので……ど、同意を得るべきでしたね」

「それで、病気の方は大丈夫だったの?」

「は、はい、問題ナシでした」

「そっか」


 その一言にホッと息を吐くと何故か霞野さんも息を大きく吐き出した。

 

「ちょっろ……」


 セイラが小さく何かを呟く。

 そして、俺の前へゆっくりとやってきた。


「ねぇねぇ、フィアちゃん、ゆかりんだけのOKだと不安だろうから私も診てあげるね〜」


 セイラはそう言うと両手をワキワキと動かしながら近づいてくる。


「えっ、いや、大丈夫……かな?」

「そう言わずに〜、何かあってからじゃ大変だよ〜」

「そ、そうかな……」


 セイラの言っていることに思わず流されそうになったその時だった――


 いつの間にかセイラの後ろにいた垣守先輩がその脳天を目掛けて旅館のパンフレットを振り下ろした。


 スパーンッ。


 いい音が脱衣所の中に響き渡った。


「こらっ、お触りは厳禁っ!」

「え〜、でも〜」

「でもじゃない!」


 そう言って両手を腰に当ててセイラを叱る先輩。

 その姿はなんだかお母さんみたいだった。


「ゆかりんはあの柔らかそうな双丘を堪能したんだよ〜、ず〜る〜い〜」

「私ので我慢しときなさい、ほら」


 先輩はそう言ってセイラの頭を抱き込むと自分の胸の中へ。

 セイラは先輩の腕の中でため息一つ吐き出した。


「なんか……硬いんだけど〜」


 セイラがそう垣守先輩の胸の感想を漏らした瞬間。


「ひっ」


 先輩から表情が抜け落ちた。


「ちょっと……」


 凍えるような冷気を纏った声が先輩の口から溢れてきた。

 

 そして――


 ぐわし、とセイラの首を後ろから掴むとズリズリと引きずり始めた。


「“これ”、水風呂に沈めてくるわ」

「あ……ハイッ……」


 先輩……

 やっぱり、ガーデンの中で唯一の常識人だから苦労してそうだな。

 そう心の中で合掌をしていると――


「それと、月城さん」

「は、はい……」

「あなたも後で危機管理というものをみっちりと叩き込んであげる」

「……よろしくお願いします」


 さすが、風紀委員長という重圧に頷くしかない。

 そして、あっという間に裸にひん剥かれたセイラ。


「眺めてないで助けて〜」


 彼女は断末魔を残し、大浴場の扉の中へピシャっという音を残して吸い込まれていった。


 俺はそれを見送ると――


「見なかったことにして、部屋に戻ろう……」

「そ、そうですね……」


 やっぱり体調が優れないのだろう。

 湯船につかることなく大浴場を後にしようとする霞野さん。

 そんな彼女とともに出口に向かって一歩踏み出した時。

 脱衣所の奥の方からクスクスと笑い声が聞こえてきた。


「ふふっ、あなた達、いつもこんな感じなの?」


 声のした方向を見ると、エレナが笑みを浮かべながら立っていた。

 

「まぁ、割と、いつもこんな感じかも……」


 俺は着替え中のエレナから僅かに視線を逸らしつつ答える。


「そっか……」


 つい先日まで、極限の生活を強いられていた彼女だ。

 色々と思うところがあるのだろう。

 その声はどこか複雑な感情を宿しているように聞こえた。


 ――ちょっと彼女の気持ちを考えずに騒ぎすぎたかもしれない。

 そんな後悔が胸の中に去来する。

 

 エレナのことだ。

 ごめん……なんて言えば、空気を重くしたと気にしてしまうだろう。

 変な沈黙が場を満たす。


 そして、その沈黙を破ったのは――


「ごめん、変に考えないで、私、今とっても幸せだから」


 エレナだった。


「なら、いいんだけど……」

「えぇ、あなたたちが今まで通りにしてくれた方が自分が取り戻したものを実感できていいの」


 エレナはそう言い残すとセイラが連行されていった大浴場へと姿を消していった。

 それをただ見送っていると――


「きっと、まだ戸惑っているんだよ」


 今度は脱衣所の大浴場の入り口とは反対側。

 暖簾のある方から穏やかで芯のある声がした。


「白鷺さん」

 

 入ってきたのは、まだ温泉を堪能できていないのだろう。

 私服姿の白鷺さんだ。


「ゆかり、調子はどうだい?」

「も、もう、大丈夫ですっ」

「そっか、念の為お風呂は時間を空けた方がいいって九重部長が言ってたよ」

「は、はい」


 どうやら、白鷺さんはずっと霞野さんの介抱をしていたらしい。

 

「それでエレナのことなんだけど……」

「戸惑っている……でしたっけ?」

「うん、彼女は今まで居場所を保障された平穏な日々が遥か遠くにある状況だっただろう?」

「そうですね」

「それが、急に白鷺エレナという身分を保障されて遥か遠くにあったはずの日常が足元まで来たんだ」

「なるほど……」


 今まで、日本という国から居場所保障されることはなく、不法滞在者として扱われてきた彼女。

 マギ管や政府の目を避けて生きてきたところに急に白鷺エレナという身分が降ってきた。


 確かに、戸惑わない筈がない。


「今は彼女が“ここに居ても良いんだ”って理解できるのを、時間をかけて待つしかないだろうね」


 白鷺さんのその声は静かに扇風機の羽が回る音だけが聞こえる脱衣所に溶けていった。


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