第2話:記憶の番人と歪められた真実
祠の術式が収束した後、三人はしばし沈黙の中に立ち尽くしていた。
空気はまだ震えていた。語られぬ者たちの記憶が、祠の石壁に微かな光を残していた。
その光は、まるで誰かが「まだ語ってほしい」と願っているかのようだった。
「……この祠だけでは足りない。」
ミラが静かに言った。
「語られぬ者たちの記憶は、祠の外にも眠っている。封じられ、忘れられ、誰にも触れられずに。」
フィオナは矢を収めながら、祠の奥に目を向ける。
「語るためには、記憶を集めなければならない。祠の灯を、広げるために。」
レイヴンは《メモリア・コア》を見つめる。アレンの記憶は、彼に語る者としての覚悟を与えた。
「語り部の祠は、始まりにすぎない。次は……記憶の痕跡を辿る。」
ミラは祠の石碑に手を添え、古代語で刻まれた術式を再び起動させる。
石碑の下部が静かに開き、小さな巻物が現れた。
「これは、語り部の灯――記憶の地図。」
巻物には、王国の記録から削除された場所が記されていた。かつて語り部たちが記憶を祈りに変えて語った場所。今は、誰も知らない。
「この地図を使えば、語られぬ者たちの記憶を探せる。」
ミラの声には、確かな希望が宿っていた。
フィオナは巻物を受け取り、目を細める。
「師がかつて訪れた場所も記されてる。記憶の痕跡が、まだ残っているかもしれない。」
レイヴンは頷く。
「なら、次の目的地は決まった。語られぬ者の声を、拾い集めるために動こう。」
祠の外に出ると、夜はまだ深く、風は冷たかった。
だが三人の歩みは、迷いなく石畳を進んでいた。
──その背後で、祠の石碑が微かに光を放った。
語り部の灯が、再びともされた瞬間だった。
《アストラ・ノード》の回廊を抜けた先、三人は古びた図書塔へと辿り着いた。
その塔は、かつて“語り部の記録庫”と呼ばれていたが、今では禁書庫と化していた。
王国の記憶制度にそぐわない記録――痛み、裏切り、犠牲、そして祈り――が封じられた場所。
塔の扉は重厚な魔力封印で閉ざされていた。
その封印は、王国第十代王の治世に制定された《秩序保全法》に基づくもので、
“記憶の純化”を目的として、語り部の記録を「秩序に適合しない情報」として隔離するために設計された。
レイヴンが《メモリア・コア》をかざすと、術式が反応し、静かに扉が開いた。
アレンの記憶波動が、かつてこの塔に記録された祈りと共鳴したのだ。
中は冷たい空気に満ち、無数の記憶結晶が浮遊していた。
それらは、語られぬ者たちの声――王国が「記録に値しない」と判断した魂の断片だった。
「ここは……語られぬ者たちの記憶が封じられた場所。」
ミラが呟く。
「王国が“秩序の素材”として分類できなかった記憶は、ここに隔離される。語られることも、記録されることもなく。」
塔の内部は三層構造になっていた。
• 第一層《記憶の断片》:未整理の記憶結晶が浮遊する空間。
• 第二層《記憶の再構成室》:語り部がかつて記憶を祈りに変えた場所。
• 最上層《封印の間》:王国によって記憶が永久封印された領域。
塔の奥に立つ男――セリウスは、もはや完全な人間ではなかった。
白銀の髪は、記憶結晶の光を浴びて淡く揺れ、瞳には過去の断片が浮かんでいた。
彼の声は静かだったが、語るたびに空間が微かに震えた。まるで、彼自身が記憶の波動を発しているかのように。
「君たちが来るとは思っていたよ。」
かつて彼は王国の《記憶管理局》に所属し、《記憶監査官》の上級職にあった。
だが、語られぬ者の記憶に触れ続けたことで、彼の魂は記憶と同化し始めた。
記憶の封印を解くたびに、彼の肉体は波動に侵食され、
やがて彼自身が“記録されない者”――語られぬ者の残滓と化していった。
「私はもう、完全な人間ではない。
語られぬ者たちの記憶が、私の中に棲んでいる。
彼らの痛みが、私の声となり、祈りとなった。」
彼の存在は、王国の記録から完全に消去されている。
それは制度的な抹消ではなく、記憶そのものからの消失――
“記録されない者”は、王国にとって存在しない者と同義だった。
セリウスは、禁書庫の番人として塔に留まり続けている。
だがそれは、使命ではなく、記憶に縛られた運命だった。
彼が塔を離れれば、記憶の波動は暴走し、語られぬ者たちの声が断絶されてしまう。
「記憶は、語られなければ消える。
だが、語りすぎれば歪む。
私はその境界に立つ者――記憶の番人であり、記憶そのものだ。」
彼が差し出した結晶――リュカの記憶――に触れた瞬間、
レイヴンは微かな幻聴を感じた。
それは、セリウスの声ではなく、リュカ自身の声だった。
「……彼は、語っているのか?」
フィオナが呟く。
セリウスは頷いた。
「彼の記憶は、私の中にある。
語られぬ者の声は、私を通して語る。
だから私は、語る者であり、語られる者でもある。」
この瞬間、三人は理解した。
セリウスは、記憶に取り込まれた者――
語り部の祈りと、語られぬ者の痛みを繋ぐ“生きた記憶”だった。
塔の奥でリュカの記憶が静かに光を放ち始めたその瞬間、
外の空気が震え、重い足音が塔の入口へと近づいてきた。
「……来たか。」
セリウスが目を閉じ、記憶の波動を静かに沈める。
扉が軋む音と共に、黒衣の一団が姿を現した。
胸元には銀の紋章――《秩序記録局》の印。
その中心に立つのは、監査官長ヴァルム。冷徹な瞳が塔の内部を一瞥する。
「未登録の記憶波動を検知した。ここは、秩序違反の温床と見なす。」
レイヴンが一歩前に出る。
「記憶は語られるためにある。封じるためじゃない。」
ヴァルムは眉ひとつ動かさず、セリウスに視線を向ける。
「お前は、かつて記録を守る者だった。今は、記憶に喰われた亡霊か。」
セリウスは静かに答える。
「私は、語られぬ者の声を宿す者。記憶に喰われたのではない。記憶と共に在る。」
監査官たちが術式を展開し始める。
空間が歪み、封印の波動が塔の壁を這う。
ミラが祈りの杖を掲げ、石床に古代語を刻む。
「語りの陣、起動します。記憶を祈りに変える準備を。」
フィオナは弓を構え、矢に淡い光を宿す。
「語ることは、戦うこと。私は、矢で語る。」
セリウスが塔の中心に立ち、両手を広げる。
「語りの儀式を始めよう。記憶の波動を、祈りの灯に変える。」
──語りの陣が発動した。
床に刻まれた古代文字が光を放ち、塔全体が記憶の波動に包まれる。
レイヴンが《メモリア・コア》を記録台に嵌める。
アレンの記憶が再生され、炎と祈りの声が空間に広がる。
「俺は、語られるために戦ってるんじゃない。守るためだ。誰かの痛みを、誰かの命を。」
その声が、監査官たちの術式を揺らす。
記憶の波動が秩序の封印を軋ませ、空間が震える。
ヴァルムが叫ぶ。
「記憶は素材だ!感情に支配されてはならない!」
セリウスが応じる。
「ならば、語られぬ者たちの祈りは、素材ではない。魂だ。」
その瞬間、下級監査官の一人が前に出た。
「感情波動、強すぎます!術式が乱れています!」
別の監査官が叫ぶ。
「封印を維持できません!強制排除を開始します!」
三人の監査官が前線に展開し、封印術式を矢のように放つ。
空間に鋭い光が走り、語りの陣を狙って飛来する。
フィオナが即座に反応した。
「来るわよ!」
彼女の矢が放たれ、術式の光と衝突する。
空間が弾け、火花のような記憶の粒が舞う。
レイヴンは剣を抜き、迫る監査官の一人と交差する。
「語りを止める者には、語られぬ者の痛みを知ってもらう。」
剣が術式の盾を裂き、監査官の術が崩れる。
だが彼らは感情を持たない。顔色ひとつ変えず、次の術式を展開する。
ミラが祈りの杖を掲げ、記憶の波動を増幅させる。
「祈りよ、語られぬ者の盾となれ。」
塔の床から光の壁が立ち上がり、語りの陣を守る。
監査官の術式が弾かれ、空間に裂け目が走る。
セリウスの声が塔全体に響く。
「語りは、命を刻むこと。語りは、沈黙に抗うこと。」
ミラが祈りを唱え、リュカの記憶が解放される。
フィオナの矢が空を裂き、封印の術式を貫く。
──塔の奥で眠っていた記憶たちが、次々と光を放ち始める。
語られることを待ち続けた者たちの声が、空間を満たしていく。
監査官たちは術式の崩壊に気づき、後退を始める。
ヴァルムは最後に言い残す。
「語る者は、記録されない。いずれ忘れられる。」
レイヴンは静かに答えた。
「記録されなくても、語り続ける。誰かが聞く限り、記憶は生きる。」
──語りの儀式は完了した。
塔の空気は静まり、祈りの灯が天井へと昇っていく。
セリウスの身体は微かに揺れ、記憶の波動と共に淡く光る。
「語りは、終わりではない。始まりだ。」
三人は塔を後にする。
その背後で、語られぬ者たちの声が、静かに語り続けていた。