第12話:沈黙を踏む足跡
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谷は深く、空の音が届かない。 断崖の縁に立ったレイブンたちは、眼下に広がる霧を見下ろした。霧はゆっくりと渦を巻き、谷の輪郭を曖昧にしながら、底知れぬ深さを隠している。 その白い海の底に、環状に並ぶ集落の灯が淡く脈動していた。まるで、語られなかった記憶が、静かに息づいているかのように。
《スヴァルの環》――風が語り、地が黙る場所。 どの国にも属さず、記録にも記憶にも残らない者たちが、季節ごとに移動しながら暮らしているという。
集落は岩壁に沿って築かれていた。家々は石と布で組まれ、風を遮るのではなく、むしろ通すように設計されている。 屋根には風受けの輪が吊るされ、風が通るたびに微かな音を奏でた。その音は、語られなかった声を風に託すための“語りの代替”だった。
地面には裸足の足跡が点々と残されていた。靴の跡ではない。 それは、語ることを選ばなかった者が、記憶を地に刻んだ証だった。 住民たちは日常的に裸足で歩き、沈黙を選んだ者はその足跡を祈りのように残す。 一方で、外から訪れる者は集落に入るときだけ靴を脱ぐことを求められる。 「語らない者と同じ地を踏む」――それが訪問者に課される通過儀礼であり、沈黙を共有するための最低限の約束だった。
レイブンたちが集落の入口に立ったとき、布をまとった住民が待っていた。 彼は言葉少なに、ただ彼らの足元を指差す。
「ここから先は、靴を脱いで歩かねばならない。」
その声は低く、必要最低限の響きしか持たなかった。 住民は基本的に声を発しないが、外来者に儀礼を伝えるときだけ言葉を使う。 それ以上の説明はなく、ただ沈黙のまま見守っていた。
レイブンたちは顔を見合わせ、やむなく靴を脱いだ。
「……ここからが本当の入口か」レイブンは呟く
岩肌は冷たく、鋭い石片が散らばっている。裸足で一歩を踏み出した瞬間、足裏に痛みが走り、霧に濡れた石の冷たさが骨にまで染み込んだ。 だが歩みを進めるごとに、不思議な感覚が広がっていく。
「痛いな……でも、これが彼らの祈りなんだろう」フィオナが痛みに顔をしかめながら呟く
ミラも裸足で歩きながら足裏を確かめるように声が続く。
「……大地が、声を持っているみたい」
イリスが小さく
「兄さんも……こうして歩いたのかな」
大地のざらつき、霧の湿り気、風の震え――それらが一つに溶け合い、彼らの体に刻まれていった。
丘にたどり着いたとき、住民は初めて頷いた。
「その足跡は、語られなかった声と同じ。やがて消えるが、消えるまでの間は、この地に刻まれる。」
レイブンたちは息を整えながら、自分たちの足跡を振り返った。霧にかすむその跡は、確かに彼らがここを通った証であり、同時に《スヴァルの環》に受け入れられた印でもあった。
その頃、丘の上では子どもたちが裸足で駆け回っていた。 彼らは風受けの輪を手に持ち、霧の中で互いに音を響かせ合っている。声を出さずに笑い合うその姿は、まるで風そのものが遊んでいるようだった。
やがて一人の少女がミラに輪を差し出した。
「風に渡して」――唇だけが動いた。声は出さない。 ミラが輪を掲げると、風が通り抜け、かすかな音が鳴った。 その瞬間、子どもたちは一斉に頷き、まるで彼女を“沈黙の仲間”として迎え入れたかのようだった。
レイブンが小声で
「……歓迎されている、ってことか」
フィオナが微笑んで
「声を出さなくても、伝わるんだな」
儀礼を終えた後、ミラは霧の中でひとりの老人に出会った。 彼は名を名乗らず、語ることもほとんどないが、風受けの輪を修繕していた。 ミラが近づくと、彼は手を止め、風の音に耳を澄ませるようにして言った。
「この輪は、語られなかった声を紡ぐものだ。壊れたままでは、誰かの記憶が風に乗れない。」
ミラが手伝おうとすると、老人は彼女の足を見て、裸足で歩いてきたことに気づく。 しばらく沈黙ののち、彼は石の欠片を差し出した。 それは“沈黙の石”の一部で、風に触れると微かに震える。
「語らない者は、語る者に石を託す。お前がそれを持つなら、語る責任も背負うことになる。」
ミラはその石を受け取り、風受けの輪に吊るした。 風が通り抜けると、輪はいつもと違う音を奏でる。 それは、誰かの祈りのように聞こえた。
丘での儀礼を終えたあと、レイブンたちは霧に包まれた小道を下りていった。
裸足の足裏にはまだ石の冷たさとざらつきが残っており、その感覚が彼らの歩みを重くも確かなものにしていた。 やがて、岩壁に寄り添うように建てられた一棟の小屋が姿を現した。
入口の前で、先ほど彼らを導いた住民が立ち止まり、無言で手を差し伸べる。
その仕草は「ここで靴を履き直せ」という合図だった。
レイブンたちは互いに頷き合い、濡れた足を拭ってから靴を履き直した。 裸足で歩いた時間は短かったが、その痛みと冷たさは、彼らに《スヴァルの環》の沈黙を刻み込むには十分だった。
小屋の中は質素で、石と布で仕切られた空間にいくつかの寝床が並んでいる。 それは宿屋ではなく、旅人のために用意された共同の寝床――“風の間”と呼ばれる場所だった。
ここでは声を出すことは許されず、訪問者はただ風の音と霧の気配に包まれながら夜を過ごす。
レイブンは寝床に腰を下ろし、深く息を吐いた。 外の世界では当たり前に履いていた靴が、ここでは一時的に奪われ、再び与えられる。 その行為の意味を思うと、彼は自分がほんの少しだけ、この沈黙の共同体に触れたのだと感じた。
夕暮れが近づくと、霧の色は灰から群青へと移り変わり、集落の灯がひとつ、またひとつと強さを増していった。 住民たちは岩壁に沿った広場に集まり、石を組んだ炉に火を灯した。炎は霧に包まれて揺らめき、まるで風そのものが赤く染まったかのように見えた。
レイブンたちも案内され、輪の外縁に腰を下ろした。 住民たちは声を発さず、ただ手の動きと視線で互いに合図を交わしている。 やがて、布に包まれた素朴な食事が配られた。 焼いた根菜、干した果実、そして霧の中で育つという淡い色の穀物を練った団子。 どれも香辛料の匂いはなく、風の匂いを邪魔しないように作られている。
最初の一口を口にする前、住民たちは一斉に食を掲げ、風に向かって差し出した。 声は出さない。 だが、その仕草は「語られなかった者と共に食べる」という祈りの所作だった。
レイブンは戸惑いながらも真似をした。 風が彼の掌を撫で、掲げた団子の表面を冷やしていく。 その瞬間、彼は自分がただ食べるのではなく、誰かと共に分かち合っているのだと感じた。 それが誰なのかは分からない。 だが、確かに「ここにいない誰か」と同じ食卓を囲んでいる感覚があった。
レイブンが団子を掲げながら
「……誰と食べているんだろうな」
ミラが答える
「ここにいない誰かと。語られなかった者と」
ミラは静かに目を閉じ、風に食を差し出したまま、長く息を吸い込んだ。 彼女の表情は柔らかく、まるで風の中に祈りの残響を聞き取っているかのようだった。
食事が始まると、広場には不思議な静けさが満ちた。 誰も声を発さない。 だが、器が置かれる音、布が擦れる音、そして風受けの輪が奏でる微かな響きが、沈黙の中の会話となっていた。
レイブンはふと気づいた。 沈黙は孤独ではない。 むしろ、声を交わさずとも互いを認め合うための、最も深い共有の形なのだと。
やがて食事が終わると、住民たちは再び風に向かって手を合わせ、静かに散っていった。 残されたのは、霧に溶けていく火の匂いと、風に託された祈りの余韻だけだった。
夜が訪れると、霧はさらに濃くなり、外界との境界を完全に閉ざした。 《風の間》の中は灯火も乏しく、石壁に吊るされた布がわずかに揺れるたび、影が波のように広がっていく。
レイブンは寝床に横たわり、目を閉じた。 だが眠りはすぐには訪れなかった。 耳を澄ませば、外を吹き抜ける風の音が絶え間なく響いている。 それはただの自然の音ではなく、どこか人の声に似た震えを帯びていた。
最初は錯覚だと思った。 だが、風の音に混じって、確かに祈りのような囁きが聞こえる。 言葉にはならない。 けれど、胸の奥に直接触れてくるような響きだった。 それは悲しみでもなく、喜びでもなく、ただ「残された思い」そのものだった。
レイブンは身を起こし、隣の寝床に目をやった。 ミラもまた目を閉じたまま、じっと風に耳を傾けている。 彼女の表情は静かで、まるでその祈りを受け止める器のようだった。
イリスは寝床の端に腰を下ろし、胸元の結晶を両手で包み込んでいた。 兄・カイルの声は、ここに来てから一度も響かなかった。 沈黙の地では、記憶すらも風に溶けてしまうのか――そう思った瞬間、胸が締めつけられる。
だが、外を吹き抜ける風の音に耳を澄ませると、微かな温もりが結晶から伝わってきた。 それは声ではなく、ただの震え。 けれど、彼女には分かった。
「兄さん……ここでも、まだ生きてるんだね。」
涙は出なかった。 ただ、結晶を抱きしめたまま、彼女は静かに目を閉じた。
沈黙の中で、確かに「忘れられなかった声」が寄り添っているのを感じながら。
フィオナは寝床に横たわりながら、矢筒を抱き寄せていた。 矢羽根が風に揺れ、かすかに擦れる音を立てる。 それは、彼女にとって唯一の「声」だった。
目を閉じると、戦場で師が祈り続けた背中が浮かぶ。 届かなかった祈り。守れなかった仲間。 その痛みは、沈黙の中でいっそう鮮やかに蘇った。
だが、風が矢羽根を撫でるたび、彼女は不思議な安らぎを覚えた。
「矢は、声になれなくても、風に乗れるんだな……」 声に出さず、唇だけでそう呟く。 その瞬間、矢羽根がひときわ強く震え、まるで風が応えたかのようだった。
やがて、風受けの輪がかすかに鳴った。 その音は、昼間に老人が語った言葉を思い出させる。
――「語られなかった声を紡ぐものだ。」
レイブンは深く息を吸い込み、吐き出した。 この地では、声を発さずとも祈りは残り、風に託されて響き続ける。 沈黙は空虚ではなく、むしろ満ちている。 そう気づいたとき、彼の胸に重くのしかかっていた疲労が、ようやく霧のように溶けていった。
《風の間》の夜は、眠りと祈りとが溶け合う時間だった。 外の世界では決して聞こえない声が、ここでは風と共に生き続けている。
だが、霧の奥ではまだ、別の気配が息を潜めていた。




