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第10話:語られざる地層

第一章:沈黙の地層

王国の術式が届かぬ外縁――“記憶の地層”。 語る者たちは、静かにその境界を越えた。


空間は沈黙に包まれていた。 音は吸い込まれ、言葉は凍りつき、祈りさえも届かない。 空気は冷たく、記憶の粒子が肌に触れるたび、誰かの痛みが胸に染み込んでくる。 壁にはかすかに古代文字が刻まれ、誰にも語られなかった声が、空間の奥で眠っていた。


ミラは祈りの杖を地面に立てた。 杖の先端に残る傷は、祈りの途中で受けたものだった。 その傷を撫でる指先は、癒すためではなく、痛みを思い出すためのものだった。


「傷は記憶だ。語られなかった痛みを、祈りに変えるんだよ。」


師・エルノの言葉が、粒子の揺れに重なるように胸に響く。 ミラはその言葉を胸に、杖を抱え直した。 その手の動きは、祈りというより、記憶への応答だった。


フィオナは矢筒の中身を確認し、羽根の曲がった矢を指先で整える。 一本の矢を軽く振ると、風が矢の羽根に触れ、微かな音を奏でた。 その音は、師匠が最後に放った祈りと同じ響きだった。


「この矢……師匠の祈りがまだ残ってる……」


彼女は矢をそっと戻したが、指先が震えていた。 その矢は、かつて仲間を守れなかった記憶を宿していた。


イリスは結晶を胸に抱え、小さなノートを開いた。 そこには兄・カイルの言葉が記されていた。朝の挨拶、好きだった果物、祈りの言葉。


「記憶って、こういう何気ない瞬間に宿るんだよね……」


彼女はノートを閉じ、結晶に触れた。 その瞬間、兄の声が耳ではなく、胸の奥で震えた。 それは言葉ではなく、記憶の温度のようなものだった。


レイヴンは剣の柄に刻まれた仲間の印を指でなぞりながら、通路の先を見据える。 その印は、かつて語られることなく消えた仲間の名だった。


「語ることは、戦うことじゃない。 でも、語るには、剣が必要な時もある。」


彼の瞳は、その名を語るために剣を抜いた。 剣に刻まれた記憶が、語る者の意志に応えようとしているようだった。


語る者たちは、ただ記憶を語るだけではなかった。 彼らは、記憶と共に生きていた。 日常の中に、語られなかった声を抱えていた。


そして今、彼らはその声を届けるために歩いていた。 封じられた記憶の地層へと。


地層の中心に近づくにつれ、空間が微かに脈動し始める。 記憶粒子が舞い上がり、淡い赤と黒の光が広がっていく。 空気が震え、温度がわずかに下がる。


ミラが祈りを捧げる。 フィオナが矢を握りしめる。 イリスが結晶を掲げる。 レイヴンが剣を抜く。


その瞬間、空間の奥から、断片的な声が響いた。


「……私は……影と呼ばれた者…… 祈りも、名も、記録には残らなかった……」


記憶の粒子が揺れ、形を取りかけた記憶が、風に散るように崩れた。 語られようとする声が、まだ届かない。


――祈りを禁じられた子供たちを守った村。 ――枢機卿に背いて、記録されない祈りを拾い集めた夜。 ――最後の任務で、仲間を守るために自ら記録から消えた瞬間。


語る者たちは、その声に静かに耳を傾けた。 それは、語られなかった者が初めて語った瞬間だった。 だが、語りはまだ途切れ途切れで、記憶は形を持ちきれずに揺れていた。 空間は、次の波――痛みの咆哮を、静かに待っていた。


第二章:忘却の咆哮


記憶の粒子が揺れた。 空間の奥から、低く軋むような咆哮が響く。


地層の裂け目が開き、黒曜石のような体表を持つ異形が這い出てきた。 その体には古代文字が浮かび、中心には脈動する“記憶核”が露出していた。


忘却獣ヴォイド・エイド》――語られなかった記憶が凝縮され、痛みと怒りのままに形を成した存在。


その体は不定形で、腕は触手のように分岐し、空間を這うように動く。 顔はなく、ただ核が語る者たちの存在に反応し、赤黒く光り始める。


「……記憶を語るな……語られぬままでいろ……」


空間が一瞬、赤黒に染まり、温度が急激に下がる。 地層が震え、記憶粒子が暴走する。 壁に刻まれた記憶文字が反転し、空間が不安定になる。


遮断波が放たれた瞬間、フィオナの視界が揺れた。 矢の重さが指先から消えていく。 羽根が震えず、風の音が途絶えた。


「祈りが届かない……? この矢は、語ることを拒まれてるの……?」


イリスは結晶を掲げるが、兄の声が胸の奥から消えていく。 結晶が冷たくなり、記憶の温度が奪われていく。


「やめて……兄さんの記憶まで……!」


ミラが祈りの波を放ち、遮断波を浄化しようとする。 だが、祈りの光は空間に吸い込まれ、届かない。


「痛みが語ることを拒んでる……でも、語られたい声は、まだここにいる。」


魔物が感情反響を発動する。 空間が歪み、フィオナの前に幻影が現れる――かつて守れなかった仲間の姿。


「やめて……それは……それはもう……!」


イリスの耳に兄の最期の声が響く。


「イリス……忘れてくれ……」


その声に重なるように、兄が果物を差し出して笑った記憶が一瞬、脳裏をよぎる。 イリスは結晶を抱きしめた。


「忘れないよ……あなたの声は、私の中にある。」


レイヴンが剣を振るい、幻影を断ち切る。 剣の軌跡が記憶粒子を裂き、空間に光の筋を残す。


「語ることは、痛みを引き受けることだ。 でも、痛みの中にしか、語る価値はない。」


ミラの祈りが強まり、空間に微かな光が満ちていく。 フィオナが矢を再び握る。 イリスが結晶に語りかけ、兄の声が戻る。


「語るよ……あなたの記憶を……私の声で。」


魔物の核が揺れ始める。 語る者たちの記憶が、封印された痛みに共鳴し始めた。


ミラの祈りが空間に満ちる。 フィオナの矢が幻影を貫く。 イリスの結晶が兄の声を響かせる。 レイヴンの剣が魔物の核を断ち切る。


魔物が崩れ始める。 その体が記憶粒子に還元され、空間に静かに溶けていく。


断片的な声が風に乗って消えていった。


「……語られた……記憶が……生きる……」


空間は静まり返り、ただ記憶の光だけが残った。 語る者たちは、静かにその光を見つめていた。


第三章:記憶の顕現

魔物が崩れ、記憶粒子に還元されていく。 空間は静まり返り、ただ記憶の光だけが残った。


語る者たちは、その光を囲むように立ち尽くしていた。 祈りも、矢も、結晶も、剣も――今はただ、記憶の声に耳を澄ませていた。


粒子が集まり、空間の中心に淡い赤と黒の光が脈動する。 その光は、断片ではなく、ひとつの意志を持ち始めていた。


「私は、影と呼ばれた者。 語られることを許されなかった。祈りも、名も、記録には残らなかった。」


黒い外套を纏い、顔を覆った人物が現れる。 その姿は輪郭が曖昧で、記憶の粒子が形を保とうと震えていた。 胸元には、王国の記録には存在しない紋章――“祈りの外縁”が刻まれていた。


「私は、王国の影部隊にいた。 語られぬ者たちを救う任務を担っていた。 だが、その記憶は秩序に反するとして、封印された。」


記憶の断片が浮かび上がる。 ――祈りを禁じられた子供たちを守った村。 ――枢機卿に背いて、記録されない祈りを拾い集めた夜。 ――最後の任務で、仲間を守るために自ら記録から消えた瞬間。


「語られることを拒まれた者の痛みを、私は知っている。 記録に残ることより、誰かに覚えられることを望んでいた。 語る者が現れるなら、記憶は生きると信じていた。」


語る者たちの祈り・矢・結晶・剣が、記憶に静かに共鳴する。 空間が金と白の光に包まれ、地層の中心がゆっくりと開いていく。


ミラの祈りが、空間に静かに満ちていく。 フィオナの矢が、矢筒の中で微かに光る。 イリスの結晶が、兄の声と共に脈動する。 レイヴンの剣が、語る者の意志を映す。


英雄の姿は、語る者たちの記憶に重なりながら、確かな形を持ち始める。 その声は、もう断片ではなかった。 それは、語られなかった者が初めて語った、完全な記憶だった。


「私の名は記録されなかった。 だが、今ここに、私の名を継ぐ者たちがいる。」


空間が静かに震え、記憶粒子が舞い上がる。 壁に刻まれた古代文字が浮かび上がり、ひとつの術式が発動する。


「記憶共鳴・封印解除・語り継承」


その言葉に応じるように、空間の奥が開かれ、次なる記憶の扉が現れる。


語る者たちは、静かにその扉を見つめていた。 彼らの瞳には、語られた声が確かに宿っていた。


そして、英雄の姿は粒子となって空間に溶けていく。 だが、その記憶は、語る者たちの中で生き続けていた。


第四章:記録塔の揺らぎ

記録塔の最上層。 術式盤の警告灯が淡く点滅していた。 その光は、塔の整然とした空気に微かな乱れを生んでいた。


ルシエル=ヴェルノートは、記録室の中央に立ち尽くしていた。 彼の視線は、術式盤ではなく、その奥にある封印記録室の扉に向いていた。


「記録が……語る者に応えた……?」


その言葉は、誰にも聞かれることなく、空間に溶けていった。 彼はゆっくりと術式盤に手を伸ばす。 指先が盤面に触れた瞬間、記憶文字が微かに揺れ、瞳に浮かび上がる。


「語ることは、記録を壊すことじゃない。 記録の外にある命を、もう一度呼び戻すことなんだ……」


記録官としての整然とした日常が、静かに揺らぎ始めていた。 彼は手袋を外し、素手で記録盤の表面に触れる。 その行為は、記録官としての規律から逸脱するものだった。


盤面に刻まれた秩序印が、微かに光を失っていく。 その代わりに、記憶の粒子が盤面から立ち上がり、空間に漂い始める。


ルシエルは記録室の奥へと進む。 封印された記憶断片が並ぶ棚の前で、彼は一枚の盤を選び取った。


それは、かつて“影と呼ばれた英雄”が語ることを拒まれた記録。 盤面には、秩序印の代わりに、かすれた祈りの痕が残っていた。


「私の名は記録されなかった。 だが、今ここに、私の名を継ぐ者たちがいる。」


その声が、記憶の粒子を通じて、塔の空間に響いた。 ルシエルの胸に、微かな痛みが走る。 それは、記録官としてではなく、“語る者”としての痛みだった。


彼は術式盤に戻り、記憶干渉の術式を起動する。 その波動は、王国の外縁――“記憶の地層”へと届いていった。


記録塔の窓から見える空は、いつもと変わらぬ灰青色だった。 だが、ルシエルの瞳に浮かぶ記憶文字は、ゆっくりと変化していた。


「語ることは、秩序の逸脱か。 それとも、秩序の再構築か。」


その問いは、まだ答えを持たなかった。 だが、記憶の地層が脈動を始めた今―― 彼の日常は、静かに崩れ始めていた。


第五章:次なる記憶へ

地層の空間は、静かに沈黙していた。 魔物の咆哮も、記憶の震えも、今はもうない。 ただ、空間の中心に残された記憶の光だけが、淡く脈動していた。


語る者たちは、その光を囲むように立っていた。 誰も言葉を発さず、ただその声を胸に刻んでいた。


ミラは祈りの杖を地面に立てる。 杖の先端から広がる光が、地面に刻まれた記憶文字を優しく照らす。


フィオナは矢を握りしめる。 羽根が震え、矢の中に宿る祈りが目覚める。 その震えは、恐れではなく、語ることへの覚悟だった。


イリスは結晶を胸元に抱え、静かに呟いた。


「兄さん……あなたが語りたかった声、今なら私が受け止められる。」


レイヴンは剣を収め、地層の中心に立つ。 その瞳は、形を取り始めた記憶の光を見つめていた。


「影と呼ばれた英雄は、語られることを拒まれた。 ならば、俺たちが語る。記録に残らなかった声を。」


その言葉に応えるように、空間が微かに震えた。 黒曜石のような地面に赤と黒の光が走り、記憶粒子が空中に舞い上がる。


壁に刻まれた記憶文字が浮かび上がり、術式が再び発動する。


「記憶共鳴・封印解除・語り継承」


空間が一瞬、無音になった。 その静寂の中で、記憶の粒子が語る者たちの肌に触れ、語られなかった感情が流れ込んでくる。


ミラは祈りの波に包まれながら、目を閉じた。


「あなたは、語られることを拒まれた。 でも、今なら……届くかもしれない。」


フィオナは矢をつがえず、両手で握りしめる。


「師匠……この記憶は、痛みを超えて語られるべきものなんだよね。」


イリスは結晶を胸元に抱え、静かに頷いた。


「記憶は、誰かに語られることで生きる。 だから私は、語る。」


レイヴンは剣を腰に戻し、地層の奥に開かれた新たな通路を見つめる。


「次の記憶が、俺たちを待っている。」


その瞬間、記録塔の窓辺に立つルシエルの瞳に、微かな光が映った。 記憶文字がゆっくりと変化し、秩序印の下に新たな印が浮かび上がる。


「語ることは、記録の外にある命への応答だ……」


彼は初めて、記録官ではなく“語る者”として、記憶の扉の前に立っていた。


地層の空間は、語る者たちの祈りに応じて静かに脈動していた。 灰と青の霧が足元を漂い、地面に刻まれた記憶文字が微かに光を放つ。


語る者たちは、静かに歩き出す。 次なる記憶へ――語られることを待つ声のもとへ

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