竜国に『非竜人族の番を迎え入れる際の決まり事』という法が制定された理由
気分転換の思い付きです。
運命の番に関する事で、こういう事もあるかも? という小話。
「どうして、どうしてこんな事をするんだ、アンジェリーヌ……!」
その声を聴いたすべての人間の胸が痛くなるような悲痛な声をあげ、胸を押さえて崩れ落ちたのは、この国の王太子アロイージオ。
黒い髪に青い瞳をした彼は見目麗しく、まるで一流の芸術家が作り上げた絵画や彫刻のような容姿をした男であった。
彼の頭上には二本の角が生え、腰からは立派な鱗におおわれた尾が伸びている。普段は魔法でしまわれている背中の翼は、胸を押さえている彼の痛みに呼応するかのように現れて、小刻みに震えていた。
彼は竜人族の国である竜国の王太子であった。
誰もが口を押さえたりしながら、呆然とアロイージオと……その真正面に立っている、美しい白髪の令嬢を見つめていた。
まるで誰も踏みしめていない、新雪のような真っ白の髪。子ウサギを思い起こす、赤い瞳。
アロイージオと並ぶと、どこからどう見ても揃いで作られたかのような令嬢の名は、アンジェリーヌ。隣国より、アロイージオの番として迎え入れられた、未来の王太子妃であった。隣国――といっても、極めて厳しい山と谷を越えた先にある国だ――は竜人族の国ではなく、ただの人間の国であり、アンジェリーヌも人間である。
竜人の番は大半が同族であるが、ごく稀に、他種族が番に選ばれる事がある。アンジェリーヌも、その稀な事例に当てはまる存在であった。
アンジェリーヌが、アロイージオを見る瞳には、少しの愛情もなかった。それどころか、苦しんでうずくまるアロイージオを心配そうに見ているわけでもない。失望と怒りを感じる目で、彼女は男を見下ろしていた。
「どうして、ですか? はぁ……そのような言葉を漏らすという事は、貴方は、わたくしの言葉を、少しも聞き入れていなかったという事ですわね」
アンジェリーヌはとげとげしい声色で、そう吐き捨てた。捨てる、という言葉を使うほどに、冷たかった。
憐憫もない、むしろ攻撃的な声だ。
「貴方はわたくしを愚弄した。貴方がわたくしを番だといって祖国より攫ってこの方、貴方に冷遇された事でわたくしの扱いはきわめてひどいものでしたわ。竜国に来てからの数か月間、わたくしは生き地獄を味わった」
参列者の幾人かの顔色が、悪くなる。
恐らく、アンジェリーヌが口にした『生き地獄』を行った者の、関係者かもしれない。あるいは、見て見ぬふりをした者たちか。
王太子も、顔色は悪い。アンジェリーヌの言葉通り、半ば攫うようにして彼女を己の国に連れてきたというのに、長らく彼は彼女を放置した。番に対してどう対応すれば分からなかった――彼は後にそう語ったそうだが、その幼い男児がするような行動のせいで、アンジェリーヌは使用人にすら見下されて過ごしていたのだ。
「そ、それは、すまなかったと、君に手を出したものたちは、全て処刑した!」
「全てではありませんわ。処刑されたのは、実行犯と、幾人かの貴族だけ。トカゲの尻尾きりの如く、先の方にいる人間だけが罰せられただけではありませんか」
少し前、複数の貴族や貴族家が罰せられた。殆どが、処刑の扱いだ。罪状は未来の王太子妃であるアンジェリーヌを害した、というものであった事を、この場にいる参列者は全員、知っている。正式にはまだ王族ではなかったとはいえ、実質的にはもう王族の一人として数えられていたアンジェリーヌに手を出したのだからと、王太子が指揮を執って処刑が実行されたのだった。
二人の争いは続く。
「だが、だが――番の繋がりを、断ち切るなど!」
血を吐きそうな声で、アロイージオは叫んだ。
そう。
ここは、番の儀の場。
番たちが永遠を誓う場で、今まさに、二人は永遠を共に歩む夫婦となるはずであった。
王太子の番の儀という事もあり、王族と、有力貴族の殆どが参列していた。
その儀式の最中、突如としてアンジェリーヌは番の関係性を断ち切った――らしい。アロイージオの反応と言葉からすると、そうらしい。
ただ、見ている者たちは、何が起きたかさっぱり分からなかった。
儀式に使われる、神が打ったといわれる短刀を、突如アンジェリーヌが手に取り、ふるったのだ。その瞬間、アロイージオが大きな声で苦しみ始めたのが、冒頭の出来事である。
(あれ、まあ。番の絆って、断ち切れるのねえ……)
と、参列者の一人として参加していたセレーヌは、ぼんやりと思った。
セレーヌはアンジェリーヌと、似た立場の人間である。
セレーヌの生まれは、アンジェリーヌの祖国の隣国であった。時代が違えば口減らしで殺されていただろうというほど貧乏な家で生まれたセレーヌは、たまたま豊作が続いていたこともあり育てられた。でもあまり扱いはよくなかった。食べ物も洋服も与えられる物の全てはあまり物だった。
それは特別セレーヌの扱いが酷かった訳でなく、あの国で、裕福でない子沢山の家で、目立たない子供の扱いはそんなものだった。
運が良ければ、将来はどこかに売られるように結婚するんだろうな、と思っていたセレーヌの目の前に、ある日突然角と羽と尻尾の生えた男が降り立った。
それが、セレーヌの事を「番」と言ってはばからない、婚約者のガイオとの出会いだった。
ガイオはセレーヌを、半ば無理やり竜国に連れ去った。そしてそれ以降、セレーヌはこの国で暮らしている。
「番番という割に、竜人族はわたくしたちの気持ちなど慮らない。勝手に決めつけた愛を押し付けられる一生を過ごすくらいならば、番の関係を断ち切るに決まっています!」
アンジェリーヌがそう叫ぶと、参列者の数人が立ち上がった。全て女性で、全て、人間だというのが容姿から分かる。年齢は令嬢という年頃の人から、既に成人した女性まで幅広い。
彼女たちの横に座っていた男たちが「あ」と声を上げるが、引き留める間もなく、女性たちはアンジェリーヌのそばに移動した。
男たちは立ち上がったが、近づく事が出来ない。
番の儀は何者にも邪魔されぬように、当事者が認めた者以外が、儀式の場に入れないようになっている。だから参列者は、儀式の場を囲うように、少し離れた位置に座しているのだ。
恐らく、儀式の当事者であるアンジェリーヌが認めた事によって、女性たちは入れたのだろう。
アンジェリーヌは、一人目の女性に、短刀を渡した。
「まってくれ!」
「いいえ待ちません。貴方は待って欲しい、家族と話をさせて欲しいという私に、待ってはくれませんでしたから」
短刀が振り降ろされる。男の悲鳴。
「やめろ、一体何が不満だったというのだ!?」
「そういう所が嫌なんです。私の気持ちなんて、聞いてもくれない!」
短刀が振り降ろされる。男の悲鳴。
「まって、やだ、ねえなんで!」
「これ以上、我儘小僧のおもりなんて御免よ!」
短刀が振り降ろされる。男の悲鳴。
「頼む、やめてくれ。お願いだ」
「貴方は、そう言った彼を、許さなかったでしょう?」
短刀が振り降ろされる。男の悲鳴。
実に様々な、男と女の愛憎劇であった。
今まで、竜人族という圧倒的な力を持った男たちを前に、涙も苦しみも呑み込まねばならなかった女たちが、番の関係を断ち切るという形で、男たちに次々とやり返していく。王太子だけでなく、幾人もの高位貴族の男たちが、倒れていく。まだ家を継いでいない若者もいれば、幼い子供もいれば、既に子を持つ父親もいる。周囲の、彼らの近しい者たちは、儀式の場には近づけない故に、倒れた男たちを介抱するしかない。
目の前で起きている出来事が、セレーヌにはまるで他人事のようであった。
儀式の場に集まっている女たちが番の絆を断ち切った所で、アンジェリーヌは女性陣を見渡して、眉根を寄せた。それから、参列者の山を見渡して、ある女の名を呼んだ。
「セレーヌ? どこですの?」
まさか呼ばれると思っていなかったので、セレーヌは驚いた。
隣に座していた婚約者のガイオと、ガイオの向こうに座っているガイオの両親である伯爵夫妻がすごい目でセレーヌを見た。その目には責める色合いはなく、今まさに並んだ悲劇の屍に、ガイオが加わってしまうのかという恐怖があった。ガイオは隣にいるセレーヌの手を握ろうとして、けれどその手は宙を浮いたまま、セレーヌに触れる事はなかった。
セレーヌは猫のような目を細めて、それから、立ち上がった。
動く事はなく、その場で返答した。
「ここにおりますわ、アンジェリーヌ様」
「ああ、そちらにいたのね。早く貴女もおいでなさい」
アンジェリーヌの言葉に、セレーヌは首を傾げた。
「なぜでしょう?」
「この短刀は、神力を保っていられる間しか、番の絆を断ち切る事は出来ないの。早くしないと、番の絆を断ち切れないわ」
「そうですか。私には不要なものですので、もうしまっていただいて構いませんよ」
沈黙が、儀式の場に落ちる。
誰もが、先程から続く番たちの愛憎劇の、新たな登場人物としてセレーヌを見ていた。
故に、セレーヌの言葉を聞くと、まるで舞台の決められたセリフを間違えた役者を責め立てるかのように、多くの視線が彼女に向けられた。
「何を言っているの……?」
「私にはその短刀は不要です。私はガイオ様との関係を終わらせるつもりはありませんから」
「なぜ!?」
「貴女も無理やりさらわれて、この国に来たはずだわ!」
「もしかして、家族を人質にでも取られているの?!」
「こんな奇跡、二度とないかもしれないのよ!?」
「貴女、以前言っていたではありませんの、番を感じる事が出来ないから、婚約者の行動がたまに理解出来ない、と!」
アンジェリーヌの周りにいる、番の絆を断ち切った女性たちが、次々に叫んだ。信じられない、ありえない。そう、セレーヌを責め立てている。
彼女たちとセレーヌは、殆どが初対面ではない。
同じく、人間でありながら竜人族の番に選ばれた者同士として、度々顔を合わせる事があった。ある種の、小さなコミュニティーの仲間たちである。
赤の他人でない分、責められると心苦しい。
セレーヌは困って、眉尻を下げながら答えた。
「そうは言われましても……私、ガイオ様との関係を、不服に思った事などありませんから。番の関係を切ろうなんて、思った事もありませんし」
「こんな自己中な化け物を愛したっていうの!?」
一人の令嬢の叫びに、セレーヌはムッとした。
「化け物って誰の事を言ってますか? ガイオ様の事ですか? 失礼極まりないので、訂正してください! そもそも自己中かどうかなんて、種族じゃなくて個人の問題ですよね。ガイオ様は自己中な人ではありませんよ。たまに空気が読めなくて、から回るだけで!」
立っている事でやや斜め下に位置しているガイオは、前半で「セレーヌ……!」と感動したような声をあげて、後半では「あっ……」と思い当たる節を思い出したのか、若干前かがみになって縮こまっていた。
更に叫ぼうとした令嬢を、アンジェリーヌが押さえる。それから、彼女はまっすぐにセレーヌを見た。二人の間にはうずくまっている王太子がいるが、参列席と違い近づけない為に、彼は一人で苦しみ続けている。アンジェリーヌに自分を見るように願っているが、完全に無視されていた。
「セレーヌ。本当に、番の絆を断ち切らず、よろしいの?」
「はい。問題ありません」
セレーヌはしっかりと頷いた。それから、なんとも言えない顔で、斜め下を見た。
「……アンジェリーヌ様が、王太子殿下との関係を断ち切りたいと思うのは、当然の事と思います」
堂々と王族批判をしてしまったが、誰も、セレーヌを責める声は出さなかった。
いや、出せなかったのだ。
出せるはずがなかった。
「だって、王太子殿下も周りの人々も、アンジェリーヌ様の苦しみを何か月も気付かず、あるいは、見て見ぬふりをしたのですから」
セレーヌの言葉に、アンジェリーヌは目を伏せる。繊細な雪の結晶のようなまつ毛が震えた。
「……そうね。貴女が告発するまで、誰も、わたくしの事を気にかけはしなかった」
――数か月前、酷い状況にあったアンジェリーヌに気が付いて、彼女の置かれている状況の証拠を集めてアロイージオに直接訴えたのは、他でもないセレーヌであった。
それまで、アンジェリーヌは他の人間の国から竜国に嫁いだ女性たちに対しても、表向き、「番に愛されている女性」を装っていた。
それは祖国でも高位な貴族の娘として生まれた彼女の矜持がそうさせたのかもしれないし、単純に、同じ人間でもあの場にいた女性陣の事を信じていなかったからかもしれない。
だから最初は、セレーヌもアンジェリーヌが置かれている状況に気が付かなかった。
ただ、たまたま、セレーヌは気が付いてしまったのだ。普段は王宮にも出入りしない彼女が、偶然王宮に出入りしたある日。アンジェリーヌの扱いに違和感を覚えた。ずっと王宮にいる人々にとっては当たり前になっていた空気。けれど外から見ると、違和感を覚えざるを得ない空気。
その違和感を放置出来ず、婚約者のガイオに頼んで何度か王宮に出入りをして、アンジェリーヌが周囲からさげすまれ、酷い扱いを受けている事を知ったセレーヌは、王太子たちにそれを訴えたのだ。
仔細に及ぶ証拠集めは、王太子とその周りの者たちが行ったが、きっかけは間違いなくセレーヌだった。
セレーヌが動かなければ、アンジェリーヌは今でも酷い扱いを受けていたかもしれない。
だからアンジェリーヌはセレーヌにやたら優しかった。
王太子たちは、気付きのきっかけとなったセレーヌにはあまり強くは出れなかった。彼女に高圧的な態度など取れば、アンジェリーヌから冷たい目で見られるから。
アンジェリーヌは、わざわざセレーヌだけを王宮に呼び、数度、二人きりでお茶会をした事もあった。
とはいえ、セレーヌとアンジェリーヌが共に過ごした時間は数えられる程度のもの。親友というような言葉が使えるほどの関係ではなく、アンジェリーヌがこのような行動をするとは、思いもしなかった。
でも、人間として、彼女の気持ちは想像ができた。
「アンジェリーヌ様が、王太子殿下を愛せないのも、仕方がないと、私、思います。他に、同じように思っている人がいても、仕方ないと思います。私達人間は、番が、分からないから」
「けれど、貴女は番の絆を断ち切る事は選ばないのね」
「……はい。他の人は知りません。嫌われて当然な何かを、相手にしたのかもしれないです。……でも、ガイオ様は、いつだって私に誠実でした」
まったく文化の違う国にやってきたのだ。最初から、大変な事が多かった。
それでも色々な差を乗り越えてここまでこれたのは、セレーヌが努力を続けられたのは、ガイオがいたからだ。
「ガイオ様は、いつだって、私の言葉を聞こうとしてくださいました。私が今まで出来なかった事が出来て喜んだら、一緒に喜んでくれて。私が失敗して落ち込んだら、私が元気になるまで、寄り添ってくれました。痛いも、嫌も、嬉しいも、苦手も。そんな風に側にいてくださるガイオ様がいたから、私は、この国で頑張ろうと思って、生きて来れたのです」
初めて会った時もそうだった。
古くて擦り切れていて穴の空いた、サイズの合わない服を着ていたセレーヌの前に現れた彼は、高そうなズボンが汚れるのもいとわず、両膝をついた。そして、痩せていたセレーヌに「触れてよいだろうか」と一声をかけて、同意を得てから、割れ物に触れるかのように、彼はセレーヌを抱きしめた。
セレーヌは運命は分からない。番の絆も、感じない。
それでも、あの日からずっと、セレーヌにとって帰る場所は「ガイオの隣」だ。
「ですから、わざわざ誘っていただいて申し訳ありませんが、私にはその短刀は不要です」
「そう。貴女は、番を愛しているのね」
「はい」
「……わかりました」
セレーヌは頷いた。
アンジェリーヌは微笑んだ。優しい微笑みだった。
「アンジェリーヌ様。短い間でしたが、色々と楽しいお話が出来て、嬉しかったです」
セレーヌは、そっとその場で、頭を下げた。
ここがきっと、彼女とのお別れの場だ。
彼女と会う事は、二度とないだろう。そんな予感がした。
「……セレーヌ。貴女のお陰で、わたくしは一時ではあるけれど、痛みから解放されました。貴女の慈悲と勇気に満ちた行動に、感謝を」
アンジェリーヌも同じように思ったのだろう。そうセレーヌに告げて、そっと、彼女の祖国のやり方で、感謝を表す礼をしてくれた。
セレーヌはアンジェリーヌから視線をそらす。そして、横にいたガイオに向き直った。
「セレーヌ……」
体はセレーヌよりずっと大きい癖に、変な所で自信が足りない婚約者は、震える声でセレーヌの名を呼んだ。
セレーヌに向かって伸ばされた手は、半端な所でとまってしまう。いつだって、種族の違い故に(彼からすれば)脆いセレーヌに気遣って、ガイオは許可がないと触ってこない。
そういうちょっと臆病な、けれどいつまでもセレーヌを大切に思ってくれているのだろう彼の挙動が、セレーヌは好きだった。
「抱きしめて下さいませ、ガイオ様」
そう許可を出せば、ガイオは、それでもおそるおそるという風に、セレーヌの体に腕を回して、そっと彼女を抱きしめた。
「婚約は、解消されたそうだよ」
「やっとですか?」
編み物をしていたセレーヌの横に人間一人分の隙間を開けて座ったガイオから告げられた言葉に、セレーヌは片方の眉をキュッと上げた。
アンジェリーヌが起こしたあの出来事から、既に一ヶ月が経っている。
アンジェリーヌとアロイージオの関係は国も絡んでいたから、すぐに正式な発表は出来ないとはいえ、遅すぎる発表だった。
「国同士のやり取りって、大変ですのねえ……」
「うぅん、どちらかというと、殿下がごねたのが原因かな」
「あれだけ拒絶されたのに、まだ頑張っていらしたんですか?」
「うん」
驚くセレーヌに、ガイオは頷いた。はあ、と溜息を吐くとき、小さな火種が生まれていたので、本気で疲れている様子である。編み物の手を止めて、セレーヌはぽんぽんと膝を叩いた。
「寝ます?」
「………………………………ね、寝る」
長い葛藤の後に、ガイオはそっと、セレーヌの膝に頭を置いた。いわゆる膝枕というやつだ。
ガイオの角は後ろに向いて生えているので、間違ってもセレーヌの膝を傷つけないように、彼はいつも、セレーヌの腹側に顔を向けて頭をのせてくる。
けれど、いつもちゃんと膝に頭を預けてはくれないのだ。少し頭をのせたぐらいでセレーヌの膝はつぶれないといっているのに、ガイオは首に力を込めて体重をかけまいとしてくる。
なので、そんなガイオの頭をぎゅっと膝に押し付けるまでが、ワンセットになっている流れであった。
「殿下は、アンジェリーヌ様を手放したくないとか仰ったのですか?」
「おおまかには、そうだ。嫌がって、暴れて火を吹いた。お陰で溶けた王宮を直すのに、駆り出されて大変だった」
「まあ危ない。どうやって納得させたのです?」
「陛下が雷を落とした」
「……この前の大きな音って、それでしたのねえ」
ガイオのいう事は比喩ではなく、本当に雷を落とした、という話だ。竜人族は火を吹いたり、雷を呼び寄せたり、色々と自然に干渉する力を持つ。火を吹いて周囲にも危険をまき散らせながら、我儘を押し通そうとした息子を、陛下は許さなかったのだろう。
息子を信頼していた国王夫妻は、アンジェリーヌに対するいやがらせも、息子がしっかり対処していると思い込んでいた。故に手を出さず放置して、結果として、彼女の不遇な時間を伸ばしてしまった。
もし最初に、小さないやがらせの時点で国王が王太子に「しっかりと対処をしているか」と問うていれば、もっと早い段階でアンジェリーヌに対するいやがらせ――中には本気で命を奪おうとするようなものもあった――が発覚していたはずだ。
「陛下たちは、アンジェリーヌ様に対して負い目があったのだと思う」
とガイオがいう。
「当初、国同士の繋がりや利益の観点から、アンジェリーヌ様が戻る事を認めなかった彼女の祖国に、多額の賠償や相手国に有利な貿易の決まりを結んだそうだから」
「それでも、きっと祖国に帰られても、アンジェリーヌ様の立場は苦しいはずです」
アンジェリーヌがアロイージオに嫁いでいれば、彼女の祖国は「竜国の王妃は自国の出身だ」と他の国に大きな顔が出来たはずだ。それは、一時的な賠償や少しの貿易で生まれる利益より、さらに大きいものだったかもしれない。
それを永久的に失う行為をしたアンジェリーヌはきっと、祖国では表向きは心配されて同情されても、裏ではある事ない事いう人間に、苦しめられる事になるだろう。
アンジェリーヌはそういう先の事も含んで、それでも一生、アロイージオと共に歩みたくはないと、番の絆を断ち切ったのだろうけれど。
「あまり心配しなくても良いと思う」
「えっ?」
「アンジェリーヌ様は、祖国には帰らず、別の国に向かったそうだから。母君の故国、と言っていたかな。そこで、女性一人でも生きていける事を証明するから、心配しないでくれ、と君に伝言を頼まれたよ」
「……そうですか」
アンジェリーヌの母の祖国、となると、竜国から国を二つぐらいまたいだ向こうの国だとセレーヌは記憶している。いくら空を飛べる竜人族といえど、簡単にはいけない所だろう。アロイージオからも距離が取れるし、母親の故郷なら縁もあり、新たに一から人生を築くにはちょうど良いのかもしれない。
「他の女性たちも、各々、番と分かれた後の算段自体は立てていたそうだから、大丈夫だと思うよ」
皆、無策で婚約や婚姻関係を断ち切ったわけではないらしい。
ただ、各々、後始末は大変だろう。アンジェリーヌとアロイージオの婚約に際して国同士が色々な契約を結んでいたように、家同士で契約を結んでいた所ばかりのはず。それを急に破棄する事になったのだから、簡単に「はい終わり」と別れる事は難しい。
ちなみに、まるで示し合わすように集まったのは、事前に今回の出来事の作戦が立てられていたからだった。
本当はセレーヌにも連絡がいくはずだったらしいのだが、セレーヌに伝える担当の女性が自分の準備に手間取り、セレーヌに連絡するのを忘れていたので、セレーヌは全く何も知らないまま、番の儀に参列していたらしい。
事前に知らなかったのが良かったのが悪かったのか、セレーヌには分からない。
知っていても、セレーヌはその輪には加わらなかっただろう。
でもそれは、結果論だ。
たまたまガイオが、セレーヌにとって、気遣いをしてくれる人だったから、彼に不満がなかっただけの話。
もしセレーヌの番が、セレーヌにとって一番許せないことをするような人だったなら、アンジェリーヌたちの仲間になっていただろう。だから、セレーヌは、彼女たちの気持ちを、否定は出来なかった。
「それと……今度、番を自国に連れ帰る際の、決まりを新たに制定してはどうだろう、という話が出ているんだ」
「決まりですか?」
「うん。新しい法を作ろう、という話なんだけれど」
ガイオがいうに、今まで、他国で番を見つけた場合の対応は、個々人に任されていた。そのため、実際には相手の気持ちに寄り添わず、竜人族という強い立場から、強制的に連れ去るケースが多かった。それの積み重ねの結果が、今回の、多数の番による、絆の断ち切りだ。
絆を深く結ぶ儀式に使われる道具が、番を断ち切れるなんて、殆どの人が知らなかった。番の儀はまだとはいえ、実質的な王太子妃であったために、王宮の様々な秘められた書物を見る事が出来たアンジェリーヌだけが、あの短刀の力の使い方に気が付いたのだ。
王太子アロイージオをはじめとして、今回の一件で絆を断ち切られた竜人族たちは、殆どが再起不能になっている。寝ても覚めても番を求めて騒ぐので、殆どが監禁措置をされているらしい。
今回の悲劇は、少なくとも、相手としっかりと話し合って、納得して嫁いできてもらっていれば、おきなかったはずの悲劇だ。それは、セレーヌという存在が、証明になった……らしい。
アンジェリーヌとセレーヌ。形だけ見ると似ている、番だったから竜国に連れてこられた、人間の少女。
片方は自ら番の絆を断ち切り、片方は誘われても断った。
正直、セレーヌは自分とアンジェリーヌは横並びにして語られるほど似てはいないと思う。似ているのは、本当に、形だけ。
セレーヌは祖国での扱いは良いとはいえなかった。セレーヌは価値のない子供だった。
アンジェリーヌは祖国でも高位貴族の娘として生まれ、大切に育てられてきた人だった。
ただ、竜人たちからすれば、「似ているのに、彼女たちが選んだ選択が違うのは、竜人の対応の差なのでは?」と思う人が多かったらしい。
セレーヌは一応、連れ帰る前に竜国に来て欲しいと懇願されていて、それに本人も、家族も同意して来ている。
アンジェリーヌは、脅しのような状態で、アンジェリーヌが頷くしかない形式になって、連れてこられていたらしい。
セレーヌは竜国に来てから祖国に帰ったことはないけれど、家族と手紙のやり取りはしているし、伯爵家の支援によって、実家の家族は数度、竜国を訪れているので、ホームシックになって帰りたいと思ったことはない。
アンジェリーヌは竜国に来てから一度も、手紙のやり取りすら出来ていない。今回の婚礼の儀ともいえる番の儀にすら、祖国の家族は招待もされていなかった。
問題は、番を見つけた後の対応に違いない。そう、話が纏まったのだそうだ。
「番を見つけた場合は、まず、国に申請して、『今から非竜人族にアプローチを開始する』とハッキリさせた上で、婚姻の申し込みをしなくてはならない形にする予定らしい。万が一にも相手や相手の家族の許可もなく連れ去ってきたならば、その時の状況に合わせて、色々な罰を与える形にするみたい。細かい問題については、まだ、詰めてから施行されるとは思うけど」
何をすれば相手が納得するか、は一人一人違うだろう。
ただ、しっかりと事前にそうした部分も含めてすり合わせする事を徹底していれば、今回の悲劇は防げたのではないか?
法で縛っても従わないものもいるかもしれないが、少なくとも、国がそれを認めず、しっかりと厳罰を処していく事によって、他国人の他種族も、竜国に嫁ぐ事への抵抗が薄まるのではないか?
そんな話し合いが持たれて、急いで法律を制定しようとしているらしい。
勿論、連れてきた後の対応についても別途、法律を作るか、制度を作るか、話し合いが持たれている。国がどこまで責任を持つべきなのか、という部分も、争点らしい。
「……その法律があれば、アンジェリーヌ様は、アロイージオ様と心を通わせられたのかしら」
既に過ぎ去ったことだけれど、そう、思ってしまった。
これはセレーヌの勝手な想像であるが……。多分、アンジェリーヌも最初からアロイージオを憎んでいたわけではないのだ。
でも少しずつ失望が積み重なって、どうしようもなくなって。
その後に今更、セレーヌが手助けをして。
その結果、アロイージオは謝罪をした。
アンジェリーヌは、そこで、アロイージオを拒絶出来ればよかったけれど、出来なかった。多分、色々なしがらみが、彼女にはあった。セレーヌにはないような、色々なしがらみが。
だけど。多分、そのしがらみも何もかも捨てて、アロイージオとの関係を断ち切りたいと思う何かが、おこってしまった。
何か一点、どうしようもなく、アンジェリーヌが許せないことが起きてしまい……。それで、アンジェリーヌは、こんな騒動を起こしたのだと、セレーヌは思っている。
「セレーヌ」
「はい、なんでしょう」
名前を呼ばれ、膝の上に視線を落とせば、おずおずとガイオがセレーヌを見上げていた。
「その……嫌な事があれば、すぐ、言って欲しい。私はその、空気が読めないから……」
ガイオの言葉に一瞬、セレーヌはきょとんとした。一拍おいて、そういえばガイオの事を空気が読めない、と言った事を思い出した。どうやら婚約者はずっとその事を気にしていたらしい。
「分かっていますわ。何か思った時は、いつだってガイオ様にお伝えします。……ガイオ様だって、私がした事で嫌な事がありましたら、隠さず伝えて下さいね?」
「……うん。……でも、君が嫌な事をした事なんて、ないよ」
本当に、セレーヌの婚約者は、甘い。
セレーヌは、愛しい婚約者の頭を撫でながら、
(どうかアンジェリーヌ様が、彼女なりの幸せをつかめるように)
と、願った。
何もできないけれど、願うくらいはしても許されると、思いたかった。
二人は同じレールを敷かれて、けれど、真逆の道を歩むことになった。
それでも、アンジェリーヌと共に色々な話に花を咲かせた時間が楽しかったのは、嘘ではなかったのだから。
◆セレーヌ
人間。ガイオの番。
結果論であるが、番に選ばれた事で幸せになった少女。
ガイオの実家である伯爵家にて、成熟(成人)するまで嫁修行中。
アンジェリーヌの事はなんとなくお姉さんみたいなものに感じていた。
◆アンジェリーヌ
人間。アロイージオの番だった。
願われて実質的に嫁いだはずなのに、冷たい態度を取られる、周りからも舐められ見下されるハメになった。
対人間なら一人でも立ち回れたが、基礎ステータスが何もかも違う対竜人だった為に、物理的に逆らう事が難しかったり、命の危機だった事案も多数受けていた。
セレーヌの事は恩人と思い、感謝している。
◆アロイージオ
竜人。王太子。
見た目は完璧な貴公子だが、今まで本当に好きな異性ができた事がなく、小学一年生でもしないようなつっけんどんな態度を取った。元々人気が高かったために、いろいろな思惑のある人間の悪意がアンジェリーヌに集中したが、自分が強い故に、ただの人間のアンジェリーヌに、竜人の悪意が集中したらどうなるか、想像が回らなかった。
番を失い暴走したので、幽閉処置になった。(殺す方が反発が強くて大変なため)
◆ガイオ
竜人。伯爵令息。
竜人基準ではおとなしくてむしろ気弱とか言われてる。