クッキングクラブへようこそ① 彼女たちの自己紹介
右の頬を、ぬるく心地良いそよ風が撫でる。
どこか遠くから、微かな声が聞こえてくる。
「…………まったく……あんな白昼堂々……するなんて……の連中に…………ようなものじゃない…………」
内容を把握はできないが、天使が奏でるような美しい声だった。
頬をさわる風がぺちぺちと音を立てる。
すべてはまだ朧ろに包まれているが、まどろみの終わりは近そうだ。
「本当にあなたは………後先考えず…………脳みそ……筋肉……猪武者…………」
「そ、そこまで言わなくたっていいじゃねえかよぉ」
別の声が聞こえる。こちらはかなり明瞭だった。心なしか涙声だったような気もする。
徐々に意識と知覚が戻ってくる。口の中に蜜のような甘み、後頭部にやわらかな感触、そして頬に当たっているのが風ではなく、形ある物体であることなどを薄っすらと感知していく。
「そのボウヤはまだ目を覚まさないの? そろそろ時間よ」
「す、すいません。全然起きないんですぅ」
聞き覚えのある、おっとりとした声。
そして頬への打ちつけがほんの僅かに強く、リズムが速くなる。ペチペチペチペチ。
「もうっ、早く起きてよぉ。おっきしなさーい、水原くーん」
「そんなソフトタッチで起きるわけないじゃない。もっと強く、部屋にゴキブリでも出た時のように思いっきりひっぱたくのよ」
「ゴキブリを素手で叩くなんてできないですよぅ」
「よーし、そんじゃオレが代わってやろう」
「あなたが叩いたら、永久に目を覚まさなくなってしまうでしょ」
少し間があり、その美しい声の持ち主は言葉を続けた。
「まあ、それならそれで別にかまわないけど」
「あっ! 起きそうです」
ここで覚醒したのは本能が危機を告げたからかもしれない。
ゆっくり目を開くと、ごく近距離に眼鏡をかけた女子の顔。穏やかな表情でこちらを見つめている。
「日比野……」
「大丈夫? どこか痛かったりしない?」
「大丈夫……」
何となく側頭部あたりがジンジンするような気もしたが、そう答える。
日比野は安堵の表情を浮かべ、胸を撫で下ろす仕草をしてみせた。
すると、その撫で下ろしたものが目の前で大きく揺れ動く。
「うおっ!?」
「どうしたの!? やっぱりどこか痛いの?」
飛びのくように上体を起こすと、正座をわずかに崩したような座り方をした日比野乃々美が、目の前でおろおろと心配そうな顔をしている。
「だ、大丈夫……」
再度答えながら、どうやら僕は彼女に膝枕をされて横たわっていたらしいことに気がついた。
標準丈のスカートは膝頭まですっぽり覆っているが、それでも直視するのは気恥ずかしく、目を逸らしがてら辺りの様子を窺う。
「えっと……ここは? 僕は何を……?」
パッと見た限り、ここは知らない場所だった。どこかの教室のようだが、やたらと広い。
「ここは東校舎の調理実習室よ」
声の方を振り向くと、ストレートのロングヘアが艶やかに目を惹く、令嬢然とした女生徒が椅子に座ってこちらを見ていた。
美しい容姿と佇まいに思わず息を呑みそうになるが、横に立っている人を見て、今度は息が止まりそうになった。
「武郷アイナ!?」
赤髪で獰猛そうなその女生徒は「おっ?」という感じで片眉を上げた。
「……先輩」
慌てて付け加える。遅かった気もするが、特に怒らせたりはしなかったらしい。
「お前、オレのこと知ってるのか? どっかで会ったことあったか?」
「い、いえ……」
「おそらく学内で一番の有名人でしょうからね。一年の子たちに顔と名前が知れ渡っていてもおかしくないんじゃない?」
答えに窮する僕を、ロングヘアの美女がフォローしてくれる。武郷アイナは破顔して頭を掻いた。
「いやー、そうかそうか。オレの威名は一年坊主どもにも鳴り響いてるのか。我ながら大したもんだ。ワハハハ!」
機嫌良さそうに、『わ』と『は』の音をはっきり大きな声で発音して笑っている。
「たしか、妙な二つ名で呼ばれてるんじゃなかったかしら?」
「おお、オレも聞いたことあるぞ! 何だったかな……この髪の色と、優雅に舞うような戦いぶりから『戦場の赤き舞姫』だったっけか?」
舞らしき身ぶりを交えながら問いかけられる。
おそらく違うのではないかと思ったが、よくわからないので、とりあえず愛想笑いでごまかしておく。
「そしてあなたは、校舎の裏で気を失っていた。何をしていたかはこっちが聞きたいわ」
ロングヘアの美女が言う。一瞬言葉の意味がわからなかったが、先ほどから僕の疑問に答えてくれているのだと理解する。
「……東校舎の調理実習室? 東校舎って旧校舎のことですよね? こんな教室あったんだ」
僕は改めて辺りを見渡した。
室内には、コンロと流しがついたテーブル兼調理台がいくつか設置されていて、そのうちの一つには立派なオーブンレンジが置いてある。壁際には食器棚や巨大な冷蔵庫。言われてみれば調理実習室に他ならない。
「こんな教室とは少し失礼じゃない? 私たちの活動場所なのよ」
美女がクスッと笑みを浮かべ、たしなめてくる。
「あっ、す、すいません。そういう意味で言ったんじゃ……」
慌てて弁解し、ハタと気がつく。
「えっ? 気を失ってた?」
「……どうも言葉の受信が遅れてるみたいね。会話が一つずつズレてるわよ。まあ昏睡状態から覚めたばかりだから、無理もないか」
「昏睡?」
「あ、あのねあのね、水原くんはこの実習室のすぐ外のところで倒れていたのだよ」
日比野が窓の方を指し、何となく棒読みっぽい口調で言う。窓の外は裏庭のような空間になっており、この季節らしく緑が生い茂っている。
「それで、それを、クッキングクラブの活動でやってきた私が見つけて『わーたいへん』ってなって、なにしろ大変だからアイナさんにここまで運んでもらったの。それで……えっと……えっと」
「呼吸と脈」
困り顔を向けてくる日比野に、美女は助け舟のように言葉を与える。
「そう! 呼吸とか脈とかそういう系は普通かつ正常だったから、正常ってことは異常なしってことだから、保健室までは連れてかなくていいかなー、遠いし、とりあえずここで横にして休ませておきましょう、そうしましょうってなって、そして今に至るの」
早口でありながら、やたらとまわりくどく拙い説明だったが、日比野は一生懸命覚えたことを発表し終えた小学生のように達成感に満ちた表情をしている。
こちらとしても、とりあえず状況は理解できた。
「そういやクッキングクラブに入ってるって言ってたもんな。それじゃ、この人たちは……?」
「クラブの先輩たちだよ。座ってる綺麗な人はマサカさん」
「まさかさん?」
一瞬、それが名前とは判定できず、思わずおうむ返ししてしまう。
そんなリアクションにも慣れているのか、当人は気分を害した様子もなく立ち上がり、改めて自己紹介してくれた。
「二年の新須茉茶華よ。このクラブの副代表をやっているわ。よろしくね」
「あ、は、はい、どどどうも」
艶然とした笑みを向けられ、思わず口ごもってしまう僕だった。
「そんで、そっちのカッコいい人がアイナさん……あっ、もう知ってるんだっけ?」
「知っているなら何も言うまい! 同じく二年の武郷アイナ! 百戦無敗の武郷アイナだ!」
「ど、どうも……」
何も言うまいと前置きしつつ、元気よく二度も名乗られたことにたじろぐと同時に、頭の中に大きなクエスチョンマーク。
先入観でものを見てはいけないのかもしれないが、そこらの運動部男子よりも立派な体軀をしており、力こぶを作りながら名乗りを上げているこの人がクッキングクラブに所属しているということには猛烈な違和感があった。
もちろんそれを口に出すような命知らずな真似はできないが。
「そんで、その後ろにいるかわいらしい人がイヅルさん」
「後ろ?」
武郷アイナがスッと横にずれると、そこには小柄な少女がひとり、立って本を読んでいた。すっぽりと隠れており、全く気がつかなかった。
彼女一人だけ制服の上に白地に花柄のエプロン、頭には三角巾という出で立ちをしている。クッキングクラブで活動する上では自然な格好なのだろうが、どちらかといえばお手伝いしている小学生に見えてしまう。三角巾からはみ出たふわふわした髪が子どもっぽさを強調していた。
日比野は軽くかわいらしい人だと紹介したが、そんなレベルではない。一目見ただけで相好がゆるみそうになる、ウルトラキュートな女の子だった。
イヅルさんと呼ばれたその女子は、本からチラッと顔を上げ、クリッとした目でこちらを一瞥した。
「……英伊弦」
無表情で、かろうじて聞き取れる声量で名乗ると、また本に目を落とす。
戸惑う僕に、新須さんが穏やかに補足してくれる。
「彼女も二年生で、このクラブの代表なんだけど、ご覧の通りの人見知りなの。誰にでもこんなだから、気を悪くしないでね」
「え、ええ……」
ウインクしながらそんなことを言われ、またもドギマギしてしまいつつ、本に没入している様子の英さんを見やる。
黒いブックカバーが付いた、ちょっとした図鑑のような大きさの本が、持ち主の小柄さ・小学生感をより強調している。クラブ活動の代表を務めそうなタイプには見えないが、武郷さん然り、あまり人を先入観で決めつけてはいけないのだろう。
その武郷さんが、自分の胸のあたりより低い位置にある英さんの頭を撫でながら告げてきた。
「まあ気にするな! 伊弦はこんな愛くるしいのに人見知りなんだ!」
「ええ……今聞きましたけど」
「そうかそうか! こんな見てくれしてるんだから、もっと愛嬌振りまけば無敵だと思うんだがな! ワハハハ!」
全くの同感だったが、同意を示すような受け答えをするのは英さんに失礼だろうと、ここはノーリアクション。
当の英さんは、三角巾ごと髪をわしゃわしゃされてそんなことを言われても特に反応を見せず、されるがままにしている。
「とまあ、こんなメンバーで楽しくやってるの」
日比野は満面の笑みで言う。
まあ楽しいのであれば何よりだが。
「一年生は日比野だけなのか?」
「そうよ。でも、お友だちをいじめたりなんてしてないから安心して」
質問に答えてくれたのは新須さんだった。
座っている日比野に手を差し伸べながら、言葉を続ける。
「大事な大事な一年生だから、むしろとっても可愛がってるのよ」
「はあ……」
日比野は照れくさそうな笑顔を浮かべ、新須さんの手をとって、立ち上がった。
さして汚れてもなさそうだが、スカートの汚れを手で払ってもらっている。
床に尻もちついた姿勢のままだった僕も、合わせて立ち上がる。
「さて、私たちの自己紹介も済んだところで、水原静矢くん」
日比野から聞いたのであろう、僕の名前を呼び、新須さんはこちらに向き直ると、手指で窓の方を示した。
「君は、どうしてあんなところで、倒れていたのかしら?」