日比野乃々美の秘密⑥
獣の姿と化した日比野乃々美が咆える。
傍で見ているこちらが思わず身震いするほどの咆哮だったが、武郷アイナは全く動じた様子がない。
「おっ、まだやれるか。よしよし、そうこなくちゃな」
こちらも構えをとり、再び戦闘態勢。
人間離れした強さの持ち主と、手負いの獣、両者の間に火花が散る。
そういえば、当初の予定では暴力沙汰が始まったら身を挺して止めに入る予定だったことを思い出すが、割って入ることなどできよう筈がない。
「ガウアッッッ!!」
「オラァ!」
両者、高速で接近し、一瞬で間合いに入る。
獣の爪が、不良女の拳が、相手を狩るべく繰り出されたその時だった。
ドドンッ!!
轟音とともに双方が吹き飛んだ。
お互いの攻撃は届いていない。傍からは何も見えなかったが、急にあさっての方向から打撃を受けたように、両者とも側面に吹っ飛んだのだ。
「何だぁ!?」
ダメージよりも虚をつかれた驚きの方が大きかったのか、武郷アイナも獣の日比野もすぐさま半身を起こし、攻撃のあった方向へと視線を送る。
僕もつられてそちらを見る。
「随分楽しそうにやってるじゃない」
そこにはいつ現れたか、一人の女生徒が立っていた。
ストレートの長く艶やかな黒髪を微かにたなびかせ、両手の人差し指を争っていた二人に一本ずつ向けている。
「白昼堂々、こんな誰に見られるともわからないような場所で、とても大胆なことをしているのね」
透き通るような声で、滔々と話すその人の第一印象は、とんでもない美人だということだった。
この緊迫したわけのわからない状況下で、まずその品良く整った目鼻立ちやスタイルに目を奪われてしまうのだから、その容姿端麗さたるや尋常ではない。
つい今しがたまで戦っていた両者は、漲っていた闘気や殺気の類をすっかり萎ませ、心なしか身も縮めている。
武郷アイナがばつが悪そうに言う。
「は……早かったじゃねえか。生徒会の方はもう済んだのか?」
「ええ。どこかのケンカ大好き脳筋女が、規定の時間外に敵をぶちのめした事案の弁明をしなければならなかったんだけど、思ったよりも早く済んだわ」
「う……で、でも、あれは奴らの方から挑発してきて。別にオレがケンカしたかったとか、そういうんじゃ……」
先ほどまでの強者の雰囲気はどこへやら。わたわたと言い訳がましいことを口にする。
ちなみに、自分のことをオレというタイプの女子だとここで判明。
「そう。それなら今は、誰に挑発されて派手な立ち回りをしていたのかしら?」
気品漂う美女ではあるが、問いかける眼差しも口調も、辺りの気温が下がったと思えるほどに冷たかった。
武郷アイナは答えに窮したか、日比野が変身した獣へと視線を送る。
「ええええっ? あ、あたし挑発なんてしてませんよぉ」
日比野は、肉球付きの両手をわたわたと振って否定する。
……てか普通に喋れるんだ。理性を失ってるとかそういう感じじゃないんだ。
「ま、あれが実戦でどれだけ使えそうか、実験ぐらいにはなったのかしらね」
「そ、そうだ! 実験、実験なんだよコレは! ちょっと戦ってみてえなとか思ったりしたわけじゃなくって! なあ?」
「は、ははははい! あとでイヅルさんに報告しようと思いまして!」
焦って弁明する武郷アイナとケモノ日比野。
あれほどの戦闘を繰り広げていた者たちがこれほどまでに取り乱すとは、この美女は一体何者なのだろう。
「そう。それなら代表が見てる前でやるべきだと思うけど。まあ良かれと思ってということなら、会則にのっとってウルトラデラックス懲罰を発動する必要はないってことね」
そう言われた両者は顔を青ざめさせコクコク頷く。ケモノ日比野は顔も大部分が毛に覆われているが、それでも蒼白になっているのがよくわかった。
美女は軽くため息をつき、両者に向けていた指を下ろした。
「それにしても、よほど熱心に実験してくれてたのね。ネズミが潜んでるのにも気が付かないなんて」
「ネズミ?」
彼女は身を翻すと、建物の陰から何かを引きずり出してきた。
何かではなく、それは人だった。ていうか空未だった。どうやら気を失っているのか、後ろ襟を掴まれている我が幼馴染は、目を閉じぐったりと脱力している。
「こんな大きなネズミが隠れていたのだけど」
「転河さん!?」
思わず声が出そうになるが、先んじて日比野が大きな声を上げた。
「あら、お知り合い?」
「は、はい……同じクラスの」
「そう。じゃあもう一匹のネズミもお知り合いかしら?」
心臓が跳ね上がる。何度も言うが僕が身を隠している百葉箱の下半分は、スチールでできた細い脚が交差しているだけで、側からは丸見えである。
ここまで見つからずに済んでいたのは、実験とやらをしていた二人が、著しく注意力に欠けていたがゆえの僥倖でしかない。
「もう一匹?」
「あなたのそのケモノ耳はただの飾りのようね」
首を傾げる日比野に冷ややかな目を向けて言うと、片手に空未の襟を掴んだまま、もう片方の手を上げ、こちらの方を指差してくる。
その動きにつられ、他の二人もこちらに目を向ける。
観念するしかない。自首には遅すぎるかもしれないが、せめて自分から姿を現すべく立ち上がりかけた時だった。
「このカスが」
こちらに指を向けた黒髪の美女が、吐き捨てるような口調でそう言った刹那。
空気がわずかに揺れた気がした。
ドゴォン!!
けたたましい音とともに、百葉箱が砕け散る。
もうもうと上がった煙はすぐに消え、姿を現したのは……言うまでもなく、腰を抜かしている僕だった。
「水原くん!?」
「その子もクラスメイト?」
美女の質問に頷く日比野の横で、武郷アイナが大声を張り上げた。
「何だテメーは!? そんなところに、いつからいたんだ?」
恐慌状態の僕が返答できるはずもない。代わりにではなかろうが、黒髪の美女がきわめてあっさりと答える。
「変身する少し前から、そこで一部始終見ていたわね」
「何だって!? このオレ様にバレずに隠れてたなんて……テメー、かなりの使い手だな?」
何やら興奮気味に頓珍漢なことを言っている武郷アイナの傍らで、ケモノ日比野は目を点にしている。
「変身する前から……? 一部始終……?」
何かに気がついてしまいそうな日比野に、黒髪の美女は何でもないことのように軽く告げる。
「正確には、あなたが服を脱ぐ少し前からだったわね」
「……!!」
日比野は大きく目を剥き、こちらを見る。さっきまで青ざめていた顔がみるみる紅潮していく。
「ということは……その、あたしの……」
「クラスの男子にものすごいサービスしてあげたものね。当面、夜のサイドディッシュには困らないんじゃないかしら?」
上品な顔立ちを一切崩すことなく、そんなことを言う。
羞恥、いや怒りだろうか、日比野は髪を逆立たせ、こちらへ凄絶な目を向けてきた。血液が沸騰したかのように顔が赤い。
「い、いやその、そんなつもりじゃ……」
何とか釈明しようと試みるが、突如視界が真っ白になる。
「な、何だ!?」
目を覆った何かを慌てて取り除ける。
――それは、白いショーツだった。
「わわわわわっ!」
慌てて放り投げる。百葉箱が破壊された時に、空中に舞い上がっていたのだろうか。
僕が改めて釈明のため口を開くよりも先に、これまでで最も大きな咆哮が耳をつんざく。
獣の脚が大地を蹴り、次の瞬間、すぐ目の前に黒い影。
ゴッ
鈍い音。頭部に受けた衝撃が身体中に伝播していき、自分が攻撃を受けたことに気がつく。
「み…………」
視界が歪む。
僕の側頭部に強烈な膝蹴りを決めた獣の姿がぼやけて、薄れていく。
「水原くんの――!!」
遠吠えのような咆哮がまた聞こえた気がしたが、それを明確に知覚することはなく、僕の意識は遠のいていった――