日比野乃々美の秘密⑤
真っ裸。
屋外で。学校敷地内で。クラスの女子が。
日比野には動揺も、羞恥も、逆に開き直ったりといった様子も見えなかった。着衣時と変わらず緊張した面持ちでそこにいるだけだった。
一方、女子の裸を、それも一糸まとわぬフルヌードを、生まれて初めて見てしまった僕の方は、あまりの光景に茫然自失、思考がどこかへ行ってしまった。
ただただぼんやりと、クラスメイトの女子の、生まれたままの姿を見つめるばかり。
「いやー、楽しみだなぁ」
武郷アイナが腕まくりをしながら、何やら言っているのが目と耳に入ったようだが、脳には入ってこない。
男子高校生たるもの、女子の裸を目の当たりにした日には、本来なら鼻血を噴き出し卒倒したり、身体の一部が愉快に反応してしまったりするのが正しいリアクションなのだろうが、不思議と劣情は抱かなかった。
その白くきめ細やかな肌、他と比べられるわけではないがその美しい造形、身体の曲線は、芸術作品のようで、いやらしい視線で見ようという気になどならなかった。
くっきりと細く浮き出た鎖骨。
しなやかな肩のライン。
何にも覆われていない胸の膨らみ。
そして腰まわり……
…………やば。やっぱりエロい。
そう意識してしまい、むずむずしてくると同時に、ふと我に返る。僕はまた慌てて顔を伏せた。遅きに失した動作かもしれないが。
客観的に見て、今の僕は紛うことなきのぞき野郎である。もし発覚したら校内中から蔑まれても文句は言えない。いや、それどころか学校にいられなくなる可能性さえある。人生最大の危機的状況に置かれていると言っても過言ではない。
動揺、そして恐慌に陥る。どうしよう。どうすればいいんだ。
このまま見つからないことを祈り続けるべきか、自分から名乗り出て情状酌量に期待するか、今すぐここから遁走すべきか。
そうだ、また空未に気をひいてもらって——
幼馴染が向こうの物陰にいることを思い出し、そちらを見ようとまた顔を上げたとき、異変が起きていることに気がついた。
「う……うう……ぐぐ……」
つい今しがたまで端然と立っていた日比野が、背中を丸め、呻き声を洩らしている。
必然、また裸を直視してしまうことになったが、そのことを気にしている場合ではなかった。明らかに様子がおかしい。身体を震わせながら発するその呻き声は、人間のそれとは思えなかった。
向かい合っている武郷アイナは、特に驚く様子はなく、むしろ嬉しそうにそれを眺めている。
「ぐ……ぐぐぐげ……るぐ……ぐぁぁぁ」
髪が逆立ち、眼が異様な光を放つ。
「うぅぅぅ…………うぐぐぐがぁぁぁぁ!!」
呻き声が雄叫びに変わると、その姿は一気に更なる変貌を遂げた。
白い肌の多くの部分を、人間が進化の過程で捨てた筈の体毛が覆う。
指先には鋭い爪が伸び、口元からは尖った歯、いや牙が覗いている。
頭頂部から側頭部の境のあたりには、三角の形をした、耳と思しき器官が生えている。
そして、やはり進化の過程で失われた筈の、長い尻尾。
「はぁ……はぁ……」
二本足で立ち、肩で息をしていることを除けば、その姿は獣そのものだった。
吃驚、驚愕、驚天動地。この衝撃を言い表すにはどの言葉も足りない。
目の錯覚を疑い、手でゴシゴシ擦るも見える光景は変わらない。夢かと思って頬を強く抓っても同じだった。
「へへっ、やっぱりすげえな」
武郷アイナは目を輝かせ、軽く手招きするような仕草をみせる。
「さあ、遠慮なくかかってこいよ」
そう言うと、どの競技のものか、はたまたオリジナルかわからないが、格闘するための構えをとった。
日比野――だった獣は、凶悪に光る目を正対する相手に向けた。
「ぐ……ぐぉぉぉぉぉ!!」
悲鳴のような絶叫とともに、凄まじい速さで一歩踏み込み、右腕が動く。
ヴォン!
顔面をとらえにきた右手の爪を、武郷アイナは表情一つ変えずギリギリで躱す。
空を切った風圧の音からして、もしまともに喰らったら、一発でK.O……いや、首から上が無くなっていたのではないだろうか。
「うぉぉぉぉぉぉ!!」
獣は叫び、左、右、また左と凄まじい速さで突きを繰り出すが、武郷アイナは間合いを保ったまま全てを躱している。
突如、攻撃の手が止まった。
獣の腹に武郷アイナの膝がめり込んでいる。
「ぐっ……」
くの字に蹲りかけた獣の顔面に、容赦なく拳が叩きつけられる。
獣は派手に吹き飛んだが、くるりと後ろ向きに一回転し、しっかり両足で着地を決める。
「な……何だよこれ……」
思わず言葉を発してしまったが、喉が掠れてほとんど声にはならず、気づかれずに済んだ。
事態に全くついていけない。日比野が獣の姿に変わったこと。その獣と、札付きの不良女が人間業とは思えないバトルを目の前で繰り広げていること。
傍目だからかろうじて目で追うことができたが、もし自分がどちらかの立場だったら、何が起きたかもわからず吹っ飛ばされていただろう。
「自分から飛んで衝撃を逃したか……そんなナリになっても冷静じゃねえか。それとも野生の勘ってやつか?」
どこか嬉しそうに言う武郷アイナに、日比野乃々美だった獣は、凶悪な眼光を向ける。
睨み合いは一瞬だった。すぐに両者間合いを詰め、突きや蹴りを応酬する。
今度は攻防の全てを目で追うことはできなかった。高速で繰り出される拳や脚がぶつかり合う激しく生々しい音が聞こえてくる。
ガギッ!!
一際大きな激突音とともに、獣が体勢を崩す。と、やや低い位置に落ちてきた頭部を狙い、武郷アイナが回し蹴りを放った。
完全に捉えたと思われたその瞬間、獣の姿が消え、強烈なキックは虚空を薙いだ。
「おっ!?」
驚きの声を上げる武郷アイナに、黒い影がかかる。
走り高飛びの世界記録ぐらいは優に超えるであろう跳躍を見せた獣は、空中でくるくると何回転かすると、こともあろうに百葉箱の上に着地した。
僕が身を潜めている百葉箱の屋根の上に。
「へへっ、すばしっこさは大したもんだな」
武郷アイナは余裕の口調。
やや劣勢の獣は、ネコ科の動物が警戒や威嚇する時のように、両脚と両腕(前脚?)を屋根に乗せ、腰を高く上げて毛を逆立たせ、低い唸り声を上げ、相手を睨みつける。
ちなみに、獣の姿とはいえ、そいつには日比野の面影もそれなりに残っている。そして、その身には衣類を何もつけておらず、そんなポーズをとっている。
真下から見たら色々むき出しだった。そしてそこには青少年が一人。それは僕。
何というか、新たな世界への扉が開いたような気がした。
「はぁっ!」
気合をつけるや、高速で駆け寄ってきた武郷アイナが、百葉箱の上へとハイキックを繰り出す。
その下にいる人間には、スパッツ履いているとはいえ豪快にスカートの中を晒すことになるのだが、もちろんそんなこと知る由もないだろう。
獣はまた跳躍して、攻撃を躱した。
「かかったな!」
勝ち誇った声を上げ、武郷アイナは落ちてきた蹴り足でまた地面を蹴り、空へと舞った。
と、僕の視界はいきなり白に覆われた。
「なっ、何だ!?」
目を塞いできたものを、慌てて取り外す。
それは白いブラジャーだった。獣が跳んだ時に百葉箱の屋根から落ちてきたらしい。
「うわっ、わわわわっ」
更に慌ててそれを傍らに放る。
ドゴォッ!!
これまでで最も大きく、最も嫌な音が響き渡った。
見上げると、先ほどよりも高い空中で、オーバーヘッドキックみたいな形で武郷アイナの脚が獣の頭を捉えていた。
「ぐがっ!!」
「ひっ、日比野!」
今度ははっきり声に出てしまったが、獣の悲鳴、そして地面に叩きつけられた激突音と重なり、やはり気づかれずに済んだ。
日比野である筈の獣は、倒れ伏してピクピクしている。
「ちょっとやりすぎちまったか?」
着地を決めた武郷アイナが、後頭部を掻きながら、軽い口調で言う。
「ンダヨ。思ったより大したことねえじゃん」
何がなんだかわからないが、確実に言えるのは、この女性がとんでもないということ。明らかにただの不良・ヤンキーといった類の強さではない。
日比野が心配ではあったが、この状況では動きようがなかった。
「う……ぐ、ぐ……」
獣が苦悶の声を上げながら、立ち上がろうとするが、ダメージが大きいのか、先ほどまでとは打って変わって動作が遅く、重い。
それでも何とか四本脚で身を起こすと、自分をひどい目に合わせた相手を睨みつける。
「ウガァァァァァァ!!」
耳と尻尾と総毛を逆立て、吠えたてる。完全に野生のけだものの姿だった。